近年の働き方改革の「教育版」として、中教審が今年1月に「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について(答申)」という提言を公表した。2019.1.25
多方面に関する検討をしたことがわかるが、しかし、私が見るかぎり、これで教師の過酷な労働、中教審も使っている「ブラック学校」が改善するとは到底思えなかった。尤も、問題に対する認識は示しているのであるが、結局、文科省の審議会であるという点での限界、明確に提言できない領域があるという感じがするというべきなのかも知れない。
まず答申は、日本の教師は情熱と知識等の教育水準において、世界に抜き出たものがあると理解を示す一方で、現在の教師の労働の状況は「差し迫った状況にある」と改善の必要性を訴えている。特に、文科省と教育委員会は本気で取り組む必要があると主張する。これまで本気で取り組んでいなかったということなのだろうか。私はむしろ、教職の魅力を無くすように、文科省は執拗に追求してきたように思えてならない。 “学校教育から何を削るか14 中教審答申の検討” の続きを読む
保釈の拡大は間違いではない
実刑が確定したために、保釈中だった容疑者を収監のために赴いた検察官と警官を振り切って逃げたという事件で、保釈問題が議論されている。収容のために、横浜地検担当者5名と、神奈川県警厚木署員2名を一人の男が刃物を振りかざしたとはいえ、逃げてしまい、その後緊急配備までに4時間もかかり、2日たった現在(22日14時半)捕まっていないという失態である。最近は、ニュースにあまり驚かなくなってしまったが、これには驚いた。
そして、こういう容疑者を保釈したのは、適切なのかという疑問が出されているわけである。この背景には、近年裁判所が保釈を認める事例が多くなっていることもあるとされる。
逆にカルロス・ゴーン氏の事例では、なかなか保釈を認めないことが、国際的に批判されていた。まだ容疑者が捕まっていない段階であるが、小林容疑者を保釈したことについては、私は間違っているとは思えない。むしろ、これまであまりに厳格に拘置していたことのほうが問題だったと思うので、保釈拡大は適切な方向ではないだろうか。アメリカのように、殺人容疑でも保釈されるというのは、さすがに疑問だが。
ただし、アメリカと日本で異なるのは、日本の刑事犯は、起訴された事件では、圧倒的に有罪となっている、確実に有罪にできる事件だけ起訴しているという背景を考えなければならない。つまり、起訴された容疑者は、犯人なのだという感覚がある。近代刑事政策における「推定無罪」という感覚は、日本人にはかなり弱いのである。もちろん、アメリカのように、有罪ではないかも知れない、あるいは有罪にできないかも知れない段階で、容疑者を起訴するのがいいとは思わない。「推定無罪」というのは、そうした疑わしい者は起訴するという訴訟文化と結びついているような気もする。
しかし、だからといって、日本では起訴=有罪としても、有罪が確定するまでは、推定無罪の原則を適用すべきである。そして、証拠隠滅や逃亡の恐れがない場合には、保釈すべきである。拘置していれば、その間の生活も保障するわけだし、それはそれとして不合理である。
ただし、やはり、保釈金などは、逃亡する気持ちを起こさせない額に設定すべきであるし、また、逃亡した場合には、かならず刑をかなりの程度引き上げるようにする必要がある。
では、今回の事件についてどう思うか。
もちろん、保釈していなければ起きなかった事件であるが、しかし、実刑が確定して、4カ月も放置していたことが最も大きな問題であって、報道によれば、実刑確定後、友人たちが送別会などをしてくれたというが、そういうなかで、逃亡を考えだした可能性が高いのではないだろうか。仮定の話は意味がないにしても、実刑確定後、最初の呼び出しに応じなかった時点で直ぐに収容にいけば、逃亡意思が固まっていなかった可能性は強いと想像できる。逃亡には友人の援助があるようなので、4カ月の間にそうした雰囲気が形成されていたと考えるのは自然だろう。
もうひとつ不可解なのは、男が7人、しかもそのうちの2人は警察官であるのに、一人の男に逃げられたということだ。しかも、逃げられたあと、緊急配備までに4時間もかかるというのは、警察の完全な失態だろう。なぜ、神奈川県刑は、これほどまでに大きな失策をするのだろうか。保釈論議も大事だが、こちらのほうが重大だ。
『教育』2019.7を読む 子どもが決める
『教育』7月号は、教師と子どもの主体的に関わるシステムについて特集されている。今回は、山本敏郎「アソシエーション過程としての自治」を取り上げる。
山本氏の主張をまとめると以下のようになるだろう。
「現在の児童会・生徒会は、学校の管理-運営に対する「協力参加」であり、しかも、集団つくりにとって貴重な学級会活動は、1989年の学習指導要領から学級指導と統合され、学級活動になっており、学級の子ども組織は公式に存在しないことになっている。子ども自身にかかわることがらについては、子どもの権利条約などで認められているが。(意見表明権)
組織は、主体的・能動的・意識的に結びつくアソシエーションと、他人によって結びつけられたコンバインドというふたつがあり、コンバインドとしての児童会・生徒会をアソシエーションに転換していく実践が望まれる。子どもの権利条約では、「子どもの見解が、その年齢及び成熟に従い、正当に重視される」としており、管理者と交渉する権利が認められるべきである。権力過程としての教師の主導権を、子どもに奪い取らせる過程として自治的集団づくりが実践されてきた。それこそアソシエーション過程である。特定の問題関心や共通の趣味などの有志の自発的な組織づくりをすすめてきた。問題解決のための当事者グループ、クラブ・サークル的なグループ、援助のためのボランティアグループ、社会的な問題に関心のある社会運動グループなどである。」 “『教育』2019.7を読む 子どもが決める” の続きを読む
教育行政学ノート 道徳と入試2
前回の結論は、つまり、「入試には使わない」という指導と「道徳の教科化」とは、基本的に矛盾しているということであった。
では、広い意味で道徳的要素を、入試に一切使わないほうがいいのかというと、そう単純ではない。
かつて「内申書裁判」というのがあった。現在は世田谷区長をしている保坂展人氏が、高校受験の際に、内申書での総合評価の欄の記述故に、ほとんどの高校で不合格になったことで、その記述の不当性を理由として訴えたものである。当時は大学紛争の時代で、高校や中学にも波及していたのである。彼は、政治集会などに参加し、学校の行事等への批判活動をしたということが記述されていたことが、訴訟で明らかになっている。この訴訟後に、入試に使うための調査書(いわゆる内申書)への記述に大きな変化があったとされる。単純にいえば、否定的なことは書かないようになった。以前からそうだったと思われるが、一層徹底されたわけである。
また、一時愛知県で行われていた人物評価の扱いも有名なものだった。当時、相対評価の人物評価欄があり、ABCでつけるのだが、C評価を付けられた生徒は、まず高校に合格しないと言われていたために、教師はCを誰につけるか、苦悩しなければならなかった。相対評価だから、かならずつけるべき人数が決まっていたからだ。これは、当時「愛知の管理教育」の象徴だった。もちろん、今では行われていない。 “教育行政学ノート 道徳と入試2” の続きを読む
鬼平犯科帳 密告 罪を犯す子を親はどうしたらよいのか
鬼平犯科帳には、母子の関係を描いた物語が極めて少ない。そのうちのひとつが「密告」である。子どもが犯罪者になったとき、親はどうすればいいのか、という問題を突きつけている。練馬の元事務次官が息子を殺害した事件、また、警官を刺し、銃を奪って逃げた男が、自分の息子ではないかと通報した親、このできごとは、「密告」に描かれたことと、通じるものがある。
ある日、平蔵に、今夜盗賊が押し込むという密告があった。時間と場所が書いてある。この手の情報提供は、たくさんあり、ほとんどがからかいやガセネタなので、出動する同心たちは、疑問をもちながらだが、平蔵はどんなときにも、それが正しいものと仮定して行動する。このときも、直ぐに出動せよと言われた忠吾は、いやいやでかける。しかし、その密告は事実で、既に盗賊たちは、家に入って殺戮に及んでいたのだが、少数を除いて捕縛された。 “鬼平犯科帳 密告 罪を犯す子を親はどうしたらよいのか” の続きを読む
慰安婦問題を扱った『主戦場』を見て
普段映画を見にいくことはほとんどないのだが、左右の論客にインタビューしたというドキュメント映画『主戦場』はぜひ見たいと思ってでかけた。驚いたことに、平日の昼間なのに、客席が8割くらい埋まっていた。年に2回程度はいくのだが、ほとんど2割以下なので、かなり注目されているのだろう。(もっとも、インターネットで評価を読むと、連日満員で立ち見もでるという地域もあるらしい。)また、ネットで、ここに登場した右派のひとたちが、扱い方が公正でなく、自分たちの主張が、一部を取り出されることで歪められていると抗議の声をあげているという記事を読んで、そこに注目した。慰安婦問題については、最初に知ってから50年以上たっているし、私自身の立場は固まっているから、この映画をみて、考えが変わったことはないが、新しく知ったことはいくつかあった。(慰安婦問題などないという人を右派、あるという人を左派とここでは書く。)
ただ一度、映画館でみただけだから、正確に憶えているわけではないが、慰安婦像設置をめぐる対立、河野談話、日韓の協定、アメリカのグレンデール市、サンフランシスコでの慰安婦設置、強制連行、性奴隷、国際法違反、教科書扱い等々、様々なトピックごとに、相対立する立場の論者のインタビューを重ねていく。右派たちから抗議があがったということでわかるように、彼らの主張に論理の強さは感じられない。 “慰安婦問題を扱った『主戦場』を見て” の続きを読む
教育行政学ノート 道徳評価と入試1
教育課程や教育内容にかかわる行政を扱ったが、そこで、道徳の教科化に関連し、入試にはどのように扱われるかという問いがあったので、多少調べてみた。
道徳が教科として動き出している。既に成績をつけた教師もたくさんいるだろう。成績がつけられると問題になるのは、入試でどう扱うのかということだ。これまで文科省は、道徳は入試に使わないようにという、かなり強力な行政指導をしてきた。しかし、長妻議員(民進党当時)が、自分のホームページで、入試に使われるようになるだろう、という批判的キャンペーンをしていたという報道もある。長妻議員は、国会で質問もしており、そのときには、林文部大臣は、明確に否定している。
しかし、文科省が入試に使わないようにと指導しているからといって、実際に今後使われない保証はないし、また、使うべきだという意見だってあるだろう。そもそも戦前は、修身の成績が、中学入試には大きく影響したと言われているのだ。教育勅語を復活させるべきだというひとたちは、今でも多いのだから、道徳こそ人間評価の中心だと考えるひとたちがいても不思議ではない。更に、そもそも道徳を評価するということは、成績だけで行われているかという問題もある。面接は人物評価をしているわけだが、その中に道徳的観点がないとはいえないだろう。 “教育行政学ノート 道徳評価と入試1” の続きを読む
官庁審議会答申が政府見解と違う? 有り得ない麻生答弁
金融審議会市場ワーキング・グループの報告書「高齢社会における資産形成・管理」が大きな議論を巻き起こしている。私も高齢者であるし、関心もあるので、専門家ではないが、読んでみた。しかし、正直いって、そんなにどんでもない報告なのか、よくわからない。
金融審議会というのだから、当然金融庁の審議会であって、その立場から高齢社会をどう乗り切るかをまとめたものだ。厚生労働省の立場からすれば、当然異なる内容になるだろう。例えば、次のような記述がある。
「わが国の高齢者は総じて元気である。これは、他国に比して、また過去と比較しても当てはまる。2016 年においては、65 歳から69 歳の男性の55%、女性の34%が働いており、これらの比率は世界でも格段に高い水準となっている。 “官庁審議会答申が政府見解と違う? 有り得ない麻生答弁” の続きを読む
読書ノート『ひきこもりだった僕から』上山和樹
本書は、自分自身がひきこもりであった上山和樹氏が、ひきこもりから脱却しつつあり、ひきこもりの相談活動をしている段階に書かれた、体験と相談活動を踏まえた分析との二部構成になっている。2001年12月にだされた本で、2000年に起きた西鉄バスジャック事件と、新潟少女監禁事件の発覚とを契機に、執筆依頼されたと思われる。私が、今回この本を読もうと思ったきっかけは、もちろん、川崎と練馬の事件である。上山氏が本書で批判しているように、ひきこもり相談をしている精神科医、カウンセラー、行政などは、実際にはひきこもりの当事者の内面について、ほとんど理解していないのだろう。なぜなら、ひきこもりといっても、その多い実数に比較して、相談に訪れる人はごく少数しかおらず、しかも、相談にいくのは親である場合がほとんどだろう。しかし、親はひきこもり当人の「敵」であるので、親から語られることがらは、ひきこもり本人の実態とはずれているという。そういう意味で、自身がかなり長期のひきこもりの経験者であり、(この本執筆当初、完全に払拭していたわけでもないようだ。)たくさんのひきこもりの相談活動をしている人の書いたもので、参考になるだろうと考えたわけである。 “読書ノート『ひきこもりだった僕から』上山和樹” の続きを読む
読書ノート『天皇と東大』Ⅰ-Ⅳ 立花隆
大分前に購入したが、必要な部分だけ読んで、あとは積んどく状態だった本を読み終えた。厚い文庫本4冊だから、トルストイの『戦争と平和』にも匹敵する量だ。明治の当初から敗戦(多少戦後も含まれる)まで、日本の「国体」をめぐる相剋を描いたノンフィクションだ。戦争が終わったとき5歳だった立花が、ずっと疑問に思っていた「なぜ日本はこんな酷い国になってしまったのか」という自問に答えるための書であるという。また、これまでの敗戦に至る歴史分析を、多くの人は左翼的な観点からのみみて分析していたが、それだけでは不十分で、右翼的な側面から分析がないと、本当のところはわからないという問題意識を重視して書かれたものだ。
明治初期のある程度リベラルの状況から、次第に国家主義的な体制、しかも一切の自由な言論を許さない社会になっていく過程を、東大を主な舞台とした左右の対立相剋を中心に叙述している。個別的な評価はそれぞれになされているが、全体としては、事実をもって語らせる方法なので、著者の独自の歴史観などがだされてはいない。が、逆にそのことで、様々な立場からの事実を知る上では、有意義な本だ。 “読書ノート『天皇と東大』Ⅰ-Ⅳ 立花隆” の続きを読む