失業は今でも大きな人生上の困難である。失業保険や生活保護などがあるけれども、それでも、失業すれば生活の保障がなくなる。江戸時代は、多くの者は生まれついた職業、身分をもっており、ほとんどの者は一生変わらずそれを保持する。農民などは飢饉で苦しむことはあっても、それは一時的であるし、農業そのものが倒産したりということは、おそらくあまりなかっただろう。しかし、武士には、失業の危機は少なくなかった。自分の家だけではなく、主家が潰れてしまう。家の跡取りがいなければ、家そのものがとりつぶされるし、また、主人に不祥事があれば御家断絶となる。その場合、家来や家人は、生活の糧を失うことになる。失業である。
武士が失業、つまり浪人になるとどうなるのだろう。鬼平犯科帳には、多数の浪人が出てくる。そして、その生きざまは実に多様である。しかし、犯科帳であるから、犯罪者を扱った小説なので、当然、悪の道に落ち込んだ浪人が、たくさんでてくる。しかし、ここでは、そうではないふたつの物語を考えてみよう。「乞食坊主(ドラマでは「托鉢無宿」)」「用心棒」のふたつである。 “鬼平犯科帳 浪人になると” の続きを読む
大坂なおみの不調 「迷ったら苦しい方を選べ」
大坂なおみが、また破れた。ウィンブルドンは最初の試合での敗退だ。全豪オープンでの優勝後、ほとんど活躍できていない。しかし、こうなるのではないかと、大坂が全豪オープンのあと、コーチを突然変えたときに予想した。もちろん、今後どうなるかはわからないが、また、コーチを変えた真相は知るよしもないが、とりあえず、想像した仮定での考察をしてみたい。それが事実とは違っていたとしても、考察の筋道そのものは意味があると思う。
大坂がコーチを変えたときに、まず思い出したのは、天才ボクサーのマーク・タイソンのことだ。 “大坂なおみの不調 「迷ったら苦しい方を選べ」” の続きを読む
名古屋城の木造復元問題 復元でも新築は現代の基準で
世界中から注目されているG20挨拶で、安部首相が、大坂城はすばらしい復元だったが、唯一エレベーターの設置はミスだったと述べて、顰蹙をかっている。社会的弱者のことなど、つゆほども考えていない首相らしい発言だと思ったが、もしかしたら、名古屋城で散々揉めていることを意識し、エレベーターなど作るなと、作らない派にエールを送っているのかも知れない。
名古屋城問題は、あまり関心がなく、詳しいことは全く知らなかったのだが、調べてみた。2009年からの毎日新聞の記事を検索にかけて、目を通した。これほど膠着していたのかと驚いたが、安部首相の応援は、かえって河村市長にとってプラスにはならないに違いない。
一応、経緯と論点を整理しておこう。
名古屋城は、明治初期の城の破壊を免れたが、第二次大戦の爆撃で消失してしまったので、コンクリート建築で再現されたのが、今の名古屋城である。もちろん愛知県の観光の重要な名所のひとつだが、耐震の問題があるので、補強工事を計画していた。しかし、2009年の市長選で河村氏が当選し、彼の強い意欲で、木造の復元にする方向に舵をきった。名古屋城の図面など、江戸時代の復元に可能な資料がかなり揃っているのだそうで、コンクリート建築であれば、耐震補強したとしても、建物自体の寿命があるので、木造として復元したほうが、長持ちするし、また、観光的な意味でも歓迎されるという判断のようだ。そして、2020年のオリンピックにあわせて、完成するという構想だった。 “名古屋城の木造復元問題 復元でも新築は現代の基準で” の続きを読む
『教育』2019.7を読む 自由と向き合う自由の森学園の模索
自由の森学園とは
「子どもが決める」特集のひとつとして、自由の森学園の校長新井達也氏の「自由という難解と向き合う」という文章が掲載されている。「自由の森学園」は、埼玉県飯能市にある私立の中学・高校である。非常にユニークな教育をすることで、注目を浴びており、私のゼミの学生が卒業論文で取り上げたこともある。何度も、学園にいってインタビューをし、特に通常とは全くちがう卒業式も見に行って映像を撮ってきたのを見たが、興味深かった。細かい校則や指定の服などがないだけではなく、いろいろな行事を生徒が主体となって行うことで知られている。
しかし、そこにはなかなかたいへんな事情もあることが、新井氏の文章で紹介されている。
まず「生徒会」がなく、行事などは、その都度「実行委員会」によって運営する。「今年はこの行事をやるのかやらないのか」から始まって、コンセプトが決まると各係の活動が始まる。体育祭、学園祭、音楽祭の三大行事とともに、入学式、卒業式も生徒の実行委員会で行うという。 “『教育』2019.7を読む 自由と向き合う自由の森学園の模索” の続きを読む
犯罪加害者の表現の自由2
では、犯罪者自身が、表現活動を行うことをどう考えるのか。
まず、事実として、インターネットが普及している現在では、それを完全に禁止することはできない。できないことをやろうとすることは無意味である。また、話題性をもつものであれば、営利的な公表手段を提供する企業が出てくることも避けられない。もちろん、それを野放しにしていいかは、別問題としてあるだろう。今でも話題になる女子高校生を40日間監禁して死に至らしめた事件は、単にニュース、ワイドショー、週刊誌で大々的に取り上げられただけではなく、映画にもなり、私は見ていないかが、報道によれば、興味本位的、醜悪な内容で、被害者の関係者を酷く不快にするものだったという。被害者側に精神的打撃をあたえるような内容の公表に対しては、不法行為を積極的に認定するという抑制手段もある。
犯罪加害者側が表現活動を行うとすると、それはどういう目的があるのだろうか。 “犯罪加害者の表現の自由2” の続きを読む
京都工芸繊維大学教授諭旨懲戒解雇 多少疑問だが
毎日新聞2019.6.27によると、京都工芸繊維大学の教授が、学内で無断の営利行為をしたということで、解雇されたという。
自分の専門にかかわる企業3社に学内の機器を使わせるなどして、設備使用料や技術指導料など、合計170万を受け取り、更に09-16年に学長の許可なく5社で兼業したという。ただし、受け取った金は研究費などにあて、私的流用はなかった。教授は事実を認め、「手続きや規則を認識していなかった」などと弁明したが、学長は「極めて遺憾。学生や社会に深くおわびします」とのコメントをだしたとされる。同趣旨の記事は多数あったが、どれもほぼ同じである。
あまりに簡単な記事なので詳細がわからず、材料不足でもあるが、可能性をいくつかあげつつ考えてみたい。 “京都工芸繊維大学教授諭旨懲戒解雇 多少疑問だが” の続きを読む
犯罪加害者の表現の自由1
松井茂樹氏の『犯罪加害者と表現の自由 「サムの息子法」を考える』(岩波書店)を読んだことと、ある放送局で、犯罪加害者のドキュメントを作成することに関連する相談を受けたことがきっかけで、犯罪加害者の表現問題を考え直してみた。かなり難しい問題で、日数がたってしまった。実は、まだまだ考えがまとまったとは言い難い。そこで、部分的に少しずつだしていくことにした。
松井氏の著作は、専門的な法律の書物で、法律的な論点を詳細に論じているが、それ以前の、単純な考え方として、この問題を考えてみたいと前から思っていた。これまでに、犯罪加害者の家族の問題を、考える機会がけっこうあったが、犯罪加害者、あるいはその家族、関係者の「表現問題」は、異なる側面からの考察が必要だろう。
犯罪加害者自身の著作として、松井氏は以下のものをあげている。
『絶歌』-神戸の少年A(当時14歳)による小学生2名を殺害した事件の当事者の著作
『無知の涙』『人民を忘れたカナリア』『木橋』- 連続射殺事件の永山則夫の著作
『霧の中』-殺害後人肉を食べた佐川一政の著作
『逮捕されるまで-空白の二年七カ月の記録』-英国人を殺害後逃亡していた市橋達也の著作
更に、安部穣二『堀の中の懲りない面々』や堀江貴文の『刑務所なう』も犯罪を犯して刑務所に入ったために書くことができた本としてあげている。
私自身は、『絶歌』『無知の涙』『木橋』は読んだが、『絶歌』だけは、あえて古本を購入した。著者に印税が入ることを拒否したかったからである。 “犯罪加害者の表現の自由1” の続きを読む
鬼平犯科帳 与力同心の転落
現代でも警察官の犯罪や不祥事が起きて、ニュースとなるが、江戸時代もおそらく同じだったろう。鬼平犯科帳でも、警察官に当たる与力・同心の犯罪がいくつか題材となっている。旗本の転落については、前に書いたが、旗本は身分の高い将軍の家臣だから、自分の強欲が原因となるような話が多かった。しかし、与力同心は、御家人なので禄も低いし、裕福ではない。町奉行の与力同心となると、町民たちからの付け届けという役得があって、経済的には余裕があったという記述も多数あるが、火付盗賊改め方の与力・同心については、あまりそういうことはなかったのかも知れない。鬼平犯科帳に、そういう場面はないし、また、研究書などでもそうした記述は読んだことがない。町奉行は、単なる警察機構ではなく、一般行政や司法機関でもあったので、町民にとっては、生活の便宜のために、付け届けをするうまみがあったのだろうが、火付盗賊改め方は純然たる刑事警察だから、町人にとっても付け届けをする動機がなかったのかも知れない。だから、経済的欲得で転落する話ではない。「殺しの波紋」と「あばたの新助(ドラマでは「おとし穴」)のふたつである。原作には、「狐雨」という話があるが、ドラマにはない。これはさすがにドラマにしにくかったのかも知れない。
最初に、「狐雨」を紹介しておく。 “鬼平犯科帳 与力同心の転落” の続きを読む
皇室問題を考える
昨今の皇室をめぐるメディア上での議論をみていると、時代の変遷を感じざるをえない。戦前は当然のこととして、戦後もずっと、「菊タブー」といわれ、皇室を批判的に議論することは、最大の言論のタブーであった。皇室批判を表面だって行えば、右翼の暴力的介入を覚悟する必要があったほどである。
ウィキペディアによれば、2005年くらいまでは、菊タブー的現象があったようだが、2010年以降には、あまり起こっていない。最初のきっかけは、雅子皇太子妃へのメディア上での批判を宮内庁が放置したことだったようだ。当時の皇太子による「人格否定発言」があり、かなり激しい皇太子一家へのバッシングがあった。当時の皇太子の海外訪問などに関しても、酷い評価がインターネット上に今でも残っていて、海外王室からはあきれられているというような文があふれているのだ。 “皇室問題を考える” の続きを読む
学校教育から何を削るか15 教師の懲戒権
あらゆる組織は、組織的な秩序を維持するために規則を設け、規則に違反したものを罰する。そうしないと、組織が維持できないからである。このことは、罰は組織の性質によって、その内容や与える方法が規定されることを意味する。国家という組織を維持するためには、法律で規定した「刑罰」を実行するが、それは国家社会の安全と秩序を乱す者を排除することが、当初のやり方であった。その後、追放や死刑という排除が難しくなると、刑務所に閉じ込めることで社会から排除するか、あるいは更生させることで危険性を排除する方法が付加されるようになった。刑罰の目的は国家・社会の安全と秩序の回復にあるから、排除と更生という手段がとられることになる。
会社や役所のような仕事を行う組織では、排除は免職や停職、また重大な違反でなければ訓告や戒告などの懲戒処分がなされる。
懲戒が規定されていることは学校も変わらない。では、学校ではどのような懲戒が行われるのか。学校は教師と生徒という全く異なる立場の人間が存在するので、それぞれの懲戒は異なる内容、異なる原則が適用される。教師は会社や役所と同じように、仕事を行っているので、懲戒の内容は免職・停職・訓告等で同じである。しかし、生徒は教育の対象であり、仕事をしているわけではないので、まったく異なった内容であるが、しかし、法的な規定としては、実はすべてが明確ではない。 “学校教育から何を削るか15 教師の懲戒権” の続きを読む