犯罪加害者の表現の自由3 『止まった時計』

 少し視点を変えてみよう。『絶歌』は、犯罪加害者本人であり、『少年A この子を生んで』は、未成年であったAの保護責任者である親が執筆したものであり、謝罪のための本である。では、直接本人に責任のない加害者の家族の著作はどうなのだろう。
 『止まった時計』はオウム真理教の麻原彰晃の三女が書いた自伝である。
 この本が出たとき、私はブログに、「津下四郎左衛門」を読むべきだと書いた。当人がそのブログを読んだことは、あとで確認した。しかし、残念ながら、その趣旨は伝わっていないし、活かされているとはいえない。長いが、当時かなり力をいれた書いたものなので、再度ここに掲載することにする。(biglobe のウェブリログからの転載)

 松本麗華著『止まった時計』(講談社)が出版され、読んだ。20年前にサリン事件を起こしたオウムの内部で、アーチャリーという名前で呼ばれた人で、教祖松本智津夫の三女である。当時11歳だったが、教祖麻原の後継者とされていたために、その後の人生で通常の人が遭遇することのない困難に数々遭遇した。
 ここでは、松本麗華に関することや、この本については、触れないことにする。かわりに、森鴎外「津下四郎左衛門」について書く。前からこの二人には共通点があると考えていたからである。
 このふたりの共通性は、犯罪者の子どもという点である。何か犯罪が起きると、当然被害者と加害者のことが詳細に取り上げられる。だが、実は被害者と加害者の家族もまた、事件関係者とならざるをえず、しかも、彼らは双方が被害者となる。ところが、加害者の家族は、加害者との関係性故に、加害責任をとるべきだという雰囲気が醸しだされる。日本では、連帯責任や一族総責任という刑罰システムがあったから、それが感情的に今でも残っているし、また、学校などでは連帯責任的な指導がなされることがある。
 しかし、私が加害者家族も被害者なのだと強く意識することがあった。それは、私の若い親類が、交通事故で亡くなったのだが、その葬式の場に、加害者の妻と長男が謝罪に来たのである。亡くなった子どもの親類一同がそろって座っている寺の本堂に、ふたりがやってきて、お詫びを述べ、深々と礼をして、少しそこに座っていた。罵られるか、あるいは殴り掛かられることも覚悟していたかも知れない。しかし、彼らには何の責任もないのだ。そのことは座っている人たちにも十分わかっていたし、また、優しい人たちだったので、誰かが「わかりました」と一言いって、そのまま二人は退席した。二人からすれば、ここではあくまでも加害者の立場として謝罪をしなければならないのだが、しかし、夫、父が逮捕され、今後の生活も脅かされる事態に陥っているわけだ。それから、ときどき加害者家族の被害者性について考えることになった。昨年のゼミで、「人間の尊厳」を共通テーマとして研究をしたさい、そこに「加害者家族の人間の尊厳」という個別テーマを設定して、ある学生に研究してもらうことにしたのだが、やっと集中的に考えることができたという思いだった。
 森鴎外の津下四郎左衛門は、正面からこの問題に向かった作品である。
 森鴎外の「津下四郎左衛門」は、横井小楠を暗殺した人物を主人公とした歴史小説である。
 「津下四郎左衛門」は、その息子である津下正高が、父親の名誉を回復するために関係者にあって調べた結果を文章にし、それを森鴎外に見せ、鴎外はほんのわずかな修正を施したのみで、中央公論に発表したとされるものである。ただ、その反響が大きかったために、森鴎外は更にさまざまな調査を行い、それに基づいた事実関係や関係者のことを補充した版が、現在の形となっている。したがって、息子である正高が書いた部分は半分弱である。
 横井小楠は、幕末の有名な開明派知識人であって、福井藩主松平慶永(春獄)の政治顧問となって、幕政改革にも貢献した。明治政府になってから、参与として招かれたが、明治2年津下四郎左衛門らに暗殺されたのである。
 津下四郎左衛門は、岡山の庄屋の息子で、幕末であったために、早くから剣術もならい、兵隊募集に応募したが、庄屋の息子であったために断られ、諦めきれずに京都にでる。尊皇攘夷に染まった彼は、仲間と攘夷を実行しようとしたが、結局、開明派として知られた横井小楠を狙い、殺害に成功するのである。その場は逃れたがやがて捕縛され、斬首される。津下四郎左衛門が22歳のとき、そして、子どもの正高は5歳であった。
 そこから、正高の加害者家族としての苦しい生活が始まるわけである。当然のことながら、家は没落し、貧困生活を強いられるが、母親が努力して、正高は東京帝国大学に進学することができる。
 しかし、将来研究者として期待されながら、大学を中途退学してしまう。それは、父親のことをどうしても調べ、汚名を濯ぎたいと思ったからである。そして、調べるにしたがって、以下のことがわかってくる。
 ひとつは、殺害された横井小楠は、優れた人物であり、時代を理解していたが、犯人である父親は時代の真実を見ることができず、「尊皇攘夷」とは、倒幕派の人たちの、つまり尊皇攘夷を唱えているひとたちの本心ではないことを理解できず、単純に信じてしまったために起こした事件であること、つまり、父親は貧しかったために、十分な学問をすることができないから、真実を見誤ったのだということ。
 そして、当時の人々は、父親のしたことに喝采を送る傾向があったことなどである。
 正高は、父親の名誉を回復すべく活動をするが、結局は実現せず、それまでの調査に基づいた内容を原稿に書き、森鴎外に託したのである。森鴎外は、この小説の直前に、有名な「歴史そのままと歴史ばなれ」というエッセイを書いており、歴史家にとっての歴史的真実と歴史小説家の真実との関係を論じているのであるが、少なくとも「津下四郎左衛門」においては、ほんのわずかな訂正はしたが、正高の原稿をそのまま採用していると書いている。したがって、ほとんどが事実であると解釈できる。歴史的にも、津下四郎左衛門は横井小楠を殺害したグループの一員であり、最終的に自首して処刑される。
 さて、加害者の家族であり、特に当時小さな子どもであった正高について考えてみよう。
 幕末、日本が列強の圧力によって開国した際、それに対する賛否は、政治的に最大の問題であった。幕府が開国したために、倒幕派は、戦略的に開国に反対し、尊皇攘夷を唱えた。もともとは、外国人排斥は幕府の長年の基本政策だったわけだが、ここで立場が逆転したわけである。当時の幕府は、当時の日本の中では、国際的な情報にアクセスしていたのであり、開国せざるをえないことを理解していた。しかし、江戸時代に発達していた国学は、一部が「攘夷論」として展開し、それが倒幕の立場と結びつき、尊皇攘夷論が高く掲げられていた。しかし、ここで、同じ倒幕派の人たちの中でも、実際上、攘夷など不可能であり、国際社会に国を開いて、発展させていかなければならないことを理解している人たち、つまり、攘夷は倒幕のためのスローガンに過ぎないことを理解している人たちと、単純にそれを信じ込んでいたひとたちに分かれた。
 単純に信じていたひとたちの一部は、実行行為に及び、外国船に向かって砲撃した人たちもいるし、外国人を襲って殺害したりするものも現れた。また、開国を唱えていた人たちを狙ってテロを行う者もいた。津下四郎左衛門はその一人であった。
 しかし、津下四郎左衛門が、勘違いをしていた中でも、勘違いの度合いが大きかったのは、横井小楠は、当初公武合体派として、幕府の政策の政策を導く立場であったとしても、明治政府になってから、朝廷、明治政府によって参与として迎えられていた人材であるから、尊皇派にとって、敵ではなかったはずである。明治政府が開国政策に転換していたことを知らなかったのか、知っていたにもかかわらず行為に及んだのかは、森鴎外の小説では明らかではない。ただ、正高が、父親の認識の不十分性があったことを嘆いているところに留まっている。
 そして、鴎外自身は、政権担当者が、政治的手段として、本心とは異なる表明をして、戦いを有利にする道具とすること、つまり、人々を騙すことについて、憤りを感じていたからこそ、この小説を書いたのだろう。
 次に、事件後の正高の生活である。
 政府の重要な人物を殺害し、処刑された人物の家族であるから、当然、日陰者の地位に置かれた。名主としての地位を失い、当然財産も失うことになる。一家の大黒柱がいなくなったのだから、困窮生活に陥ったことは間違いない。しかし、現在のように、情報化社会ではないから、まわりの人々は知っているが、遠くに引っ越してしまえば、知られることはほとんどなかったろうし、露骨な迫害からは逃れることができたに違いない。直ちにテレビで事件が報道され、個人情報が晒されたり、あるいは、報道が自粛しても、インターネットが暴いてしまう現在とは、大きく状況が異なる。直接的な制裁は、加害者本人の処分と、家族の財産没収を受け入れれば、家族が継続的な社会的制裁から逃れることは可能だった。正高の母が懸命に働いたことで、正高は、最高のエリート教育機関に入学することができた。事件から10数年後に、岡山の人、京都で事件を起こした人の子どもを、東京で入学を阻止するような社会ではなかったということである。松本麗華がぶつかった事態とは、この点は大きくことなるわけである。松本麗華は、オウムの施設から出たあとも、義務教育学校に通うことはできなかったし、高校はたくさんの通信制高校に拒否されたあと、一校だけが受け入れてくれた。しかし、大学は合格したすべての大学に合格取り消しをされ、裁判を起こした結果として、入学を許可された。
 正高は、大学を中退したが、その後、帝国大学の学生だった者が多くつく仕事ではなかったが、とにかく、生活をすることができる仕事につくことに、特別な困難はなかった。そして、父親の足跡を調べる活動を長年にわたって続けることができたのである。その点について、協力してくれる人も少なくなかった。
 松本麗華が置かれた状況で、正高と異なる点は、父親の犯罪を支持する人は、社会的には皆無に近かったが、津下四郎左衛門の行為を肯定する人たちは、少なからずいた点である。実際に、明治の政治家たちのなかに、若いころに尊皇攘夷という思想の下で、開国派や外国人を殺害したり、危害を加えた者は、少なくなかったのである。実際に薩摩藩や長州藩は、藩として外国戦との戦争状態に入ったこともある。そういう意味では、100%の犯罪者という位置付けではなかったし、おそらく影で助けてくれる人もいたのだろう。
 最後にいくつかの整理をしておきたい。
 津下四郎左衛門が陥った罠は、最終的には息子である正高が書いているように、津下四郎左衛門の理解が不十分だったからである。単なる相手を倒すための方便である尊皇攘夷論を真に受けてしまい、間違った凶行に及んでしまった。現在のマスコミ、そして、国家による教育の普及を考えれば、同じ質の脅威は、ずっと大きい。実際に、社会的に大きな事件で、真実が歪んで報道されていることは、枚挙に暇ないほどである。日本という国が、こうした歪んだ情報によって、戦争に巻き込まれる危険性は決して低くはない。バランスのとれた全体的視野と強靱な思考力を育てていく必要があるのである。
 これと関連するが、現在の情報化社会は、個々の事件を膨大な量の情報として拡散していく。いじめの加害者の少年の名前は、たちまち誰かによってインターネット上に晒され、その家族全体を翻弄していく。そして、かなりの年数がたっても、その情報はついてまわる。2年ほど前、ある中学に非常勤講師として雇われた人が、何年も前に非常に遠い地域で起こした猥褻事件を、インターネット上の検索で保護者によって見いだされ、評判がよかった講師であったが、免職になったという事例があった。地方新聞に名前が出ていたために、検索でわかったのである。この場合、当人だから仕方ないともいえるが、家族であったらどうだろうか。
 松本麗華がこれまで匿名でいきようとしたけれども、結局わかった段階で、うまくいきかけた生活が否定される連続であったが故に、むしろ実名で生きていくためのハードルを自分で課したのが、『止まった時計』だったのだと解釈できる。津下正高が書いたのは、少し目的が異なるかもしれないが、「津下四郎左衛門」と『止まった時計』を読み比べると、いろいろなことを考えさせられる。
 
 以上である。正直、私は『止まった時計』には若干失望している。そして、その後の彼女の展開にも。自分の父親であるから自然な感情かも知れないが、父親はもっと大きな力に騙されたのだ、という思いがあるようだ。だから、結局は弁護している。津下正髙は、父が何故殺人を犯してしまうような考えにとりつかれたかを、最終的には冷静に分析しており、弁護していない。名誉回復のために努力しても、最終的には諦めている。麻原彰晃が、万が一もっと大きな力に騙されて、踊らされたのだとしても、オウムの最高権力者であったことは事実であり、その命令によって、多くの有能な若者が殺人を犯し、処刑された。多くの者が殺され、傷ついた。その責任を負うのが麻原彰晃であることは、否定のしようがない。津下正髙は、まだ小さいころに父親は京都に出奔し、尊皇攘夷派の過激な活動のなかで、横井小楠を殺害したのだが、まったく別れ別れに暮らしていたのだから、調査は、父を知っている人を訪ね歩くことだった。しかも、かなり時期がたっている。しかし、松本麗華氏は、父の側にいっで、後継者として育てられたのである。しかも、実際には麻原彰晃の著作を実際に書いたとされる母親に、話を聞くこともできる。だから、父親が何故、過ちを犯すようになっていったのか、最も知りうる立場にいるのである。多くの人が期待していることは、そのことなのではなかろうか。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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