制服に抗議を始めた子どもたち

 東京オリンピック組織委員会の元会長だった森氏の騒動で、男女平等がふたたび新たな段階で議論されるようになった。日本の男女平等のランクがひどく低いことは、以前から指摘されていた。まだまだ、議論として両論ある分野も多いが、そのひとつが服装に関してだと思う。以前ほど男女差はなくなってきたが、まだ残っている分野がある。中高生徒たちの制服だ。公立学校の生徒に、制服を強制しているのは、先進国としては珍しいわけだが、男女の差も明確になっている。制服として決まっていて、男女差がないのは、体操着のジャージくらいのものではないだろうか。そして、以前から気になっていたのが、女子中学生や高校生のスカートである。これは、男女差別問題だけではなく、健康の問題として取り上げられるべき点でもある。真冬にも、スカートが強制されているのは、健康上の由々しき問題であると思う。そのなかで話題になったことがある。
 
 高校生新聞2月15日号に「制服のスカートは寒くて困る 女子高校生が勇気をだしてスラックスで登校したら」という記事が出た。スカートは寒いので、自分でスラックスを注文して、許可を申請したら、簡単に通って、翌日からスラックス登校したという話だ。はじめはジロジロみられたが、やがて生徒たちにも理解され、体調不良もなくなったというものだ。
 日本の制服で、女子用は冬でもスカートが普通で、これは、多くの批判を受けてきた。オランダにいたとき、冬にスカートで登校している子どもたちなどは、見たことがなかった。明らかに、真冬のスカートは、健康に悪い。にもかかわらず、頑固に制服としては、スカートに決まっている。上記は、別に強く抗議するとか、校則改定などを働きかけたわけではなく、そもそも校則変更なしに許可されたという話だ。

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オランダ留学記1992~93 3 ドイツにおけるトルコ人襲撃

 大分前に書き始め継続して書くつもりだったが、頓挫していたこの連載をまた書くことにした。今度こそは、最後までいきたいと考えている。
 前回までは、とりあえず住居に落ち着き、子どもたち二人を公立の小学校にいれつつ、オランダに留学した当初の目的である「学校選択」についての通信をだしたところまで書いた。そうして、やっと落ち着いて、学校生活の様子などを知るようになった矢先に、大きな事件がとなりのドイツで起こった。
 1989年11月10日にベルリンの壁が崩壊し、翌1990年10月3日に東西ドイツが統一された。そして、1992年の秋は、翌1993年1月1日のEU発足の直前であった。このように書くと、当時のヨーロッパが、非常に発展的で好ましい状況だったと考えがちであるが、そういう一面があると同時に、かなり緊張した事件も多発していた。東西ドイツが統一されたことは、東ドイツから大量に西に人口移動が生じたことになるし、とにかく、東ドイツは西に比較して、非常に貧しかったから、統一といっても、極めて困難な事業だったのである。そうしたことを背景に、ネオナチの勢力が増大し、各地で暴力事件を起こしていた。

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橋本会長は議員辞職すべきではないか

 橋本聖子氏が東京オリンピック組織委員会会長に就任し、五輪担当大臣の後任が決まったあとも、ごたごたが続いている。それは、当初自民党を離党はしないと明言していたにもかかわらず、今日(2月19日)に突然離党の表明がなされたことである。これは、野党が疑問を呈したからだと言われている。そこで、今度は、議員辞職はしなくてもいいのか、という問題が生じてくるはずである。
 当初、橋本氏は、会長になることを固辞していたと言われている。実際に、メディアのインタビューでも、そうした姿勢を表わしていた。それは、報道によれば、ふたつ理由があったとされる。ひとつは、経済的問題であり、ひとつは過去のセクハラ疑惑である。経済的問題とは、橋本氏は子どもが多数おり、子育ての費用がかなりかかるから、大臣を辞めるだけならまだしも、議員を辞めるとなると、とても会長としての給与ではやっていけないという危惧だったそうだ。確かに子どもが6名(?)もいれば、かなりの経済的負担だろう。しかし、それは、保障するから、というような約束がなされたようだ。真相はわからないが、長くても今年で廃止される組織委員会だから、その後の生活をきちんと保障するということだろう。会長退任のあとは、また何かの大臣にするとか、とにかく、議員を辞める必要はないという保障をしたのだろう。
 ここで、問題が起きるのは、橋本氏は、参議院の比例代表によって、当選していることだ。過去比例で当選して、党を辞めたり、あるいは他党に移籍したりした議員が何人もいる。そして、その度に、**党として当選したのだから、その党籍を離れたら、議員を失う、その党の次の名簿のひとを繰り上げ当選させるのが、民主主義的原則なのではないか、という議論が起きた。そして、さまざまな議論の末、現在国会法109条の2が存在しているのである。長いがそのまま引用しておく。

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『コシ・ファン・トゥッテ』(モーツァルト)の魅力

 モーツァルト作曲のオペラ『コシ・ファン・トゥッテ』は、長く人気のない演目だった。おそらく、初演の際に5回、その後4回上演されたそうだが、すぐに打ち切りになり、その後、第二次大戦後までは、ほとんど上演されないままに来たのではないだろうか。モーツァルトのオペラ自体が、ヴェルディやワーグナーの巨大なオペラが好まれた19世紀には、あまり人気がなかった。唯一例外は『ドン・ジョバンニ』だったようだ。それでも、『フィガロの結婚』や『魔笛』は、それなりに上演されていたと思われるが、『コシ・ファン・トゥッテ』は、題材がナンセンスということの忌避感もあったらしい。
 戦後になって、カラヤンは一度だけレコーディングしたが、上演はしていないのではないだろうか。一人ベームが頑張っていた印象だ。1970年代になると、ベームのザルツブルグ音楽祭の長期上演があり、ムーティに引き継がれ、更にこれもヒットした。このあたりから、見直しが始まって、今では、完全に人気曲になっている。蛇足だが、小沢が生まれて初めてオペラを振ったのが、ザルツブルグ音楽祭の『コシ・ファン・トゥッテ』で、もちろんオケはウィーン・フィルだった。私は一年で打ち切りだと長く誤解していたが、契約通り二年上演されたということだ。まったくオペラ経験のない小沢は、アバドなどに助けられて、オペラ指揮のテクニックを学んだようだ。小沢自身は、非常に楽しかった思い出と語っているが、世間的には、この上演によって、小沢はオペラはだめ、とウィーン・フィルによって評価されてしまったということになっている。言葉のハンディが大きかったようだ。それに、いくらなんでも、人生で初めて振るオペラが、ザルツブルグ音楽祭で、ウィーン・フィル相手のモーツァルトだ、というのは、いかにも無謀で、小沢らしいが、カラヤンもびっくりしたらしい。

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オリンピック中止したら日本はだめになるのか 田原・猪瀬対談と森後任

  オリンピックネタをあまり書きすぎているので、あまり書きたくないのだが、次々と重要問題が生じている。昨日JBpressのメルマガに、田原総一郎と猪瀬直樹両氏の対談「五輪中止と不安をただ煽るようじゃ日本も終りだよ」が掲載されると報告されていたのだが、クリックすると「削除されました」というようなメッセージがでて、記事が読めない。そして、何故か今日再度メルマガに出ていて、今日は前半が掲載されていた。ただ、映像では全体がみられるので、みてみたが、内容はあまりに酷いものなので、反論せざるをえないものだ。
 それから、森後任が内定したという報道もなされているが、これも正直驚きの人選だ。本当かどうかは、明日になってみないとわからないが、橋本五輪担当相が後任だという。これも、多いに問題だ。
 そこで、今日もまた、オリンピック話題を書くことにする。
 まず田原・猪瀬対談に関して。
 対談は、https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64064?utm_source=editor&utm_medium=mail&utm_campaign=link&utm_content=top
 映像は、https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64100
で見ることができるので、興味のある人は、そちらで確認してほしい。ここでは、内容紹介はせず、論点に関してのみ触れることにする。
 
 まずオリンピックを何故招致したのかという点についての、私の立場からみればごまかしの論理、猪瀬氏にとって都合の悪い点は無視する論を述べ立てている。

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ますます混沌のオリンピック またメディアの世論操作か

 最近オリンピック開催を望む世論が増加しているそうだ。以前は20%未満だったのが、現在では、30%になっているという。もっとも朝日新聞という、オリンピックスポンサー企業の世論調査だから、どこまで信用できるかわからないのだが。ただ、スポンサー企業である大新聞が、世論誘導を図っていることは、間違いないだろう。感染者数の減少も、一部は本当だが、検査数削減の影響もある。これまでやっていた濃厚接触者の調査を、高齢者以外はやらないなくてもよいということにしているのだから、当然検査数は減少する。濃厚接触者は、感染可能性が、一般市民よりは、高いわけだから、その調査をやめれば、当然感染数は減少する。ただ、その影響を過大評価するのも間違いだと思うが。 
 もうひとつの操作と疑われるのは、ワクチンだ。確かにワクチンが急速に普及すれば、それなりの希望があるのかも知れないが、ワクチンが日本にはいってきて、国民の多くが接種できるようになるのは、かなり遅れそうだ。それを政府はひたすら隠している。韓国の文政権が、仮契約しかしていなくて、国民に宣伝していたワクチン確保が実は、間違っていたと騒がれていたが、日本でも同様のことが起きている。違うのは、日本人は、騒がないということだ。明らかに厚労省の重大ミスであるにもかかわらず。やっと第一陣のワクチンがはいってきたが、2回目はいつになるかわからず、また、量も未定だそうだ。医療関係者の接種が終わることだけでも、ずいぶん時間がかかりそうなのに、2月中旬に始まるということを強調している。

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読書ノート『デカブリストの妻』ネクラーソフ

 トルストイの『戦争と平和』は、当初デカブリスト(十二月党員)のことを書くつもりだったことは、既に書いた。そして、最初の草稿が、ピエールとナターシャという、『戦争と平和』の事実上の主人公である二人が、シベリア流刑から戻った場面から始まるものだった。もちろん、流刑に処せられたのは、夫のデカブリストだけだから、妻であるナターシャは、必要もないのに、極寒の地、しかも、非常に遠方のシベリアに、あとを追いかけて行ったのである。橇で4000キロをいくというのは、気がとおくなるような苦行だ。もちろん、贅沢な生活をしている貴族であるのに、それを捨てていくのだから、まわりは懸命にとめたに違いない。どういう風に、彼女らは出かけたのだろうか。それを描いたのが、ネクラーソフの『デカブリストの妻』である。ネクラーソフは、ロシアの詩人で、ドストエフスキーに高く評価されたという。

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森発言は世代の特質ではない 森会長誕生の問題

 オリンピック組織委員会森会長が、ついに辞任することになった。一端、後任は84歳の川淵氏であると決まったかに思われたが、責任をとって辞任する森氏が指名したという問題と、密室の決め方ということ、そして、その点について官邸やIOCからの異論が出て、現時点では、選考委員会が人選を進めているという段階である。誰になるかは、まったくわからない。実は、この表題の文章は、川淵氏が決まりかけた時点で書き始めたために、その人選および決め方に疑問を書きつらねていたのだが、別のテーマで書いている間に、その部分が無駄になってしまった。それにしても、人材不足だ。何人かの候補者が、メディアによって提起されているが、国民的コンセンサスをえられそうな人が皆無である。全くの能力不足としか思われない人たちか、あるいは批判される要素をもっている人ばかりなのだ。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 それはさておき、いくつか書いておきたいことがある。
 まず第一に、森発言を古い世代の特質だという議論が少なくないが、これは、大きな間違いである。私も高齢者であり、かつ昭和の人間だが、森発言が含む考えとは、全く違うといえる。それは既に書いたから繰り返さない。また、逆に、若い世代は、森発言とは異なるともいえない。youtubeで、森発言を擁護する番組は、少なくない。そして、そこには若い人がけっこういるのだ。戦前世代の特質だという見解もあるが、戦後になって、変わった人は多い。女性蔑視発言として、強く批判された杉田水脈氏などは、政治家としては若いほうだし、しかも女性である。森氏が、古い世代の男性だから、あのような考えなのだ、というのは、あたらない。あくまで、そういう考えの人だというべきだ。そして、オリンピックを推進しているひとたちには、同じような考えの人がたくさんいるということだ。

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読書ノート「十二月党員」(トルストイ)

 トルストイの「十二月党員」は未完の小説の第一章で、しかも書き直しが複数ある。トルストイ全集3巻(河出書房新社)には、3編が収録されている。
 『戦争と平和』を先日読み終えて、高橋精一郎氏による、最終巻の解説を読むと、『戦争と平和』が最初デカブリスト(十二月党員)を描くことから構想し、次第に時代を遡って、ナポレオンとの戦争にまで至ったという話は、既に知っていたが、デカブリストを描いた断片があり、その部分は、流刑から戻ったピエールとナターシャ、そしてその子どもたちがモスクワに宿をとる部分であると書かれていた。『戦争と平和』の最後の部分では、ピエールがペテルブルクに出かけて、政治的な結社の仲間と相談して帰宅した場面が描かれている。予定を過ぎてもピエールがなかなか帰らないので、ナターシャがいらいらしている。たまたまそこに、昔ナターシャにプロポーズしたデニーフソが滞在していて、昔の生き生きとして魅力的だったナターシャの姿とは全く違うので、驚いているのだが、ピエールが帰った途端に、昔のナターシャに戻ってしまうという場面がある。そして、そのあと、みんなが楽しみにしていたお土産が配られ、そして、ペテルブルクでの話が若干語られる。しかし、具体的なことは明らかにされないのだが、何となく、やがてデカブリストとして登場する人たちのことだと想像されるように書かれているのである。その後、アンドレイ侯爵の息子が亡き父を思う場面で物語は終了してしまう。そして、トルストイの戦争論がながながと展開されることになる。

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矢内原忠雄と丸山真男19 矢内原の朝鮮統治政策論

 矢内原忠雄は、東大の植民地講座の教授であったにもかかわらず、朝鮮への学術調査をすることがほとんどできなかった。もちろん、彼の意志ではなく、公的機関が妨害したからである。従って、非常に残念なことに、矢内原の朝鮮植民地政策に関する論文は非常に少ない。だが、「朝鮮統治の方針」(全集1巻の『植民政策の新基調』所収)を読むと、政府が矢内原の朝鮮調査を妨害した理由がよくわかる。逆に、矢内原自身の説明によると、この論文は朝鮮人に感激をもって読まれ、多くの手紙を受け取ったという。これは、現在でも続いている日本による朝鮮統治の性格をめぐる議論でも、きちんと取り上げられるべき論文であると思う。 
 「朝鮮統治の方針」という論文は、1926年4月に、李氏朝鮮王朝の最後の王が、逝去したとき、民衆が葬儀の列に、多数集まって、慟哭したというが、官憲が追い散らしたという事実を最初に書いている。「ここに至って何たる殺風景」と記しているのであるが、そのあとすぐに、李大王が1919年に死去したときに、3.1独立運動が起きて、長期的、かつ暴動に発展するような事態になったことを回想せざるをえないとしている。このことが、本論文を書くきっかけになったものであり、『中央公論』1926年6月号に発表されている。李王の逝去とその後の朝鮮民衆の行動、そしてそれを押さえ込んだ日本の官憲に対しての憂慮から、一気に書かれたものだろう。

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