『コシ・ファン・トゥッテ』(モーツァルト)の魅力

 モーツァルト作曲のオペラ『コシ・ファン・トゥッテ』は、長く人気のない演目だった。おそらく、初演の際に5回、その後4回上演されたそうだが、すぐに打ち切りになり、その後、第二次大戦後までは、ほとんど上演されないままに来たのではないだろうか。モーツァルトのオペラ自体が、ヴェルディやワーグナーの巨大なオペラが好まれた19世紀には、あまり人気がなかった。唯一例外は『ドン・ジョバンニ』だったようだ。それでも、『フィガロの結婚』や『魔笛』は、それなりに上演されていたと思われるが、『コシ・ファン・トゥッテ』は、題材がナンセンスということの忌避感もあったらしい。
 戦後になって、カラヤンは一度だけレコーディングしたが、上演はしていないのではないだろうか。一人ベームが頑張っていた印象だ。1970年代になると、ベームのザルツブルグ音楽祭の長期上演があり、ムーティに引き継がれ、更にこれもヒットした。このあたりから、見直しが始まって、今では、完全に人気曲になっている。蛇足だが、小沢が生まれて初めてオペラを振ったのが、ザルツブルグ音楽祭の『コシ・ファン・トゥッテ』で、もちろんオケはウィーン・フィルだった。私は一年で打ち切りだと長く誤解していたが、契約通り二年上演されたということだ。まったくオペラ経験のない小沢は、アバドなどに助けられて、オペラ指揮のテクニックを学んだようだ。小沢自身は、非常に楽しかった思い出と語っているが、世間的には、この上演によって、小沢はオペラはだめ、とウィーン・フィルによって評価されてしまったということになっている。言葉のハンディが大きかったようだ。それに、いくらなんでも、人生で初めて振るオペラが、ザルツブルグ音楽祭で、ウィーン・フィル相手のモーツァルトだ、というのは、いかにも無謀で、小沢らしいが、カラヤンもびっくりしたらしい。

 
 『コシ・ファン・トゥッテ』の魅力を語るために、オペラの魅力のひとつを確認しておきたい。他のあらゆるジャンルの芸術に不可能で、オペラだけに可能な表現法がある。それは複数の登場人物が、自分の感情や台詞を同時に表現できるということだ。小説にそれが無理なことは明確だが、演劇でも、複数の人が台詞を喋ったら、何をいっているかわからなくなる。混乱を表現することはできるが、個々の人物のいいたいことは分からなくなってしまう。ところが、オペラだけは、それを問題なく実現できるのだ。ヴェルディの『リゴレット』がパリで初演されたとき、原作者であるビクトル・ユーゴーが感心したのも、その点だった。最終幕の中間に出てくる四重唱は、侯爵、娼婦、リゴレット、ジルダのまったく異なる感情を、同時に表現しつつ、それがきちんと聞き分けられ、理解できるという見事な場面である。
 『コシ・ファン・トゥッテ』は、アンサンブル・オペラと言われるように、ソロを歌う6人が、音楽的には、ほぼ同等の役割を担っていて、様々な組み合わせで重唱を歌うことが多い。そして、1幕も2幕も、幕切れは6重唱になっている。つまり、オペラにだけ可能な表現法が多用されていることになる。だから、音楽的に入り込めるようになるには、少々時間がかかり、繰り返し聴く必要があるかも知れない。そこが、筋以外でも、なかなか人気がでなかった理由なのかも知れない。実演で繰り返し聴くのは大変だが、レコード、それもステレオが普及することになって、繰り返し、いい音で聴くことが可能になり、親しみが湧いてきたということではないかと思う。マーラーやブルックナーの交響曲と、似たところがある。
 
 さて、筋を整理しておこう。軍人のフェランド、グリエルモと姉妹のフィオルディリージとドラベラは、相思相愛で永遠の愛を誓っている。軍人ふたりに、哲学者のアルフォンソがからかい、永遠の愛などたわごとで、すぐに心がわりするという。そこで賭が行われる。二人が恋人と異なる方に愛の働きかけを行い、24時間以内に姉妹が受けいれたら、アルフォンソの勝ちとする。そこで二人は異人に変装して、取り替えた相手に働きかける。アルフォンソは、姉妹の家政婦のデスピーナに助太刀を頼み、ともに、自由な恋愛を吹き込む。
 当初、姉妹はまったく受け付けず、軍人二人は勝利を喜ぶが、狂言自殺などを経て、次第に、姉妹の心が動いてくる。それに応じて、軍人たちの気持ちに動揺が起き、最初グリエルモがドラベラを落とす。フィオルディリージはグリエルモへの愛を誓っているので、グリエルモは勝ち誇った気持ちになるが、ついにフェランドが、フィオルディリージのもつ刀を自分の胸に突き刺してくれと懇願すると、彼女も受けいれてしまう。そして、アルフォンソが「コシ・ファン・トゥッテ(女はみんなこうしたもの)」と念押しをする。
 その後結婚式をすることになり、グリエルモ以外は幸福そうだが、彼だけはぶつぶついっている。婚姻証明に姉妹が署名したところで、軍隊音楽がなり、出征したことになっている軍人二人が、突然帰ってくる。彼らは姉妹の署名をみて激怒するが、やがて種明かしがされるという内容である。
 
 このように物語はたわいもない、物語としては、ありふれた内容だが、ここにつけられた音楽が、4人の心境の推移を、しかも少しずつ変化していって、最後に逆転するという微妙な綾を、実に巧みに表現している。だいたいのオペラの感情表現は、おおげさに行われる。愛を訴えるときは、思い切り声を張り上げるし(カルメンにおけるドン・ホセの「花の歌」)、怒りの表現は、激烈に行われる。(リゴレットの「悪魔め鬼め」)しかし、ここでは、心が少しずつ、変わっていくことを、実に見事に音楽で表現しているのである。
 
 では、『コシ・ファン・トゥッテ』の魅力を特に表わしていると、私が感じる部分をピックアップしてみよう。
 最初は、『コシ・ファン・トゥッテ』の表現も誇張されている。最初のチェンジした相手に働きかけ、断固としてはねつけられてしまう。やはり、彼女たちの愛は、永遠だと勝ち誇る。軍人たちも余裕たっぷりである。

 
  そして、フェランドとグリエルモは、勝ち誇って笑い転げる。
 
  ああ、おかしくって
  心が破裂しそうだ
  ああ内蔵が
 
 他方、アルフォンソも実は余裕たっぷりだ。
 
  笑わせてくれるね
  彼等が笑うなんて、
  でもわしは知っとるのだ
  最後は並ででお終いってことは
 
  3拍子の早いテンポで進むこの曲は、ドン・アルフォンソが一貫したリズムを刻むが、二人の軍人は、笑い転げる部分で、フェミオラになり、ドン・アルフォンソと交錯する。双方の気分が、実は同じだが、考えていることは正反対という場面が、異なる拍子がひとつに重なることでうまく表現されている。
 軍人二人は、勝ったと宣言するが、まだ時間がある、軍人なら命令を忠実に実行せよ、とアルフォンソは求めて、まずは狂言自殺をする。ここで、同情心が起きるが、調子にのって、キスを迫るとこれもはねつけられる。そして、一幕の最後に歌われる六重唱は、重唱の醍醐味を味わうには、最高のピースだ。
 第二幕になると、既に姉妹は少し迷っている。デスピーナは、二人を唆すアリアを歌う。そして、少しだけその気になってくるのが、次の姉妹の二重唱だ。これも歌うに従って、二人の気持ちがのってくるのが、音楽によって精妙に表現されている。
 
 ドラベラが「私、あの栗色の髪のひとをとるわ、このひとの方がウィットに富んでいるようにみえるわ」と歌いだすと、フィオルディリージが「それじゃ、私は金髪のひとと、すこしばかり笑ったり、ふざけたりしてみたいわ」と同じメロディーで繰り返す。
 

 次第に気分が高揚してきて、ふたたび同じメロディーが繰り返されるのだが、次のようになっているのだ。
 

 最初は、ドラベラの4小節のメロディーが終わってから、フィオルディリージが同じメロディーを歌うのだが、同じメロディーが戻って、繰り返されているところでは、ドラベラが1小節歌ったところで、フィオルディリージが入ってくる。しかも、最初は弦の伴奏が8分音符なのに、繰り返しでは、16分音符になっている。明らかに、遊び心が高まっているのが伝わってくる。
 やがて、ドン・アルフォンソに軍人らしく最後までやれと尻を叩かれた軍人二人は、取り替えた相手に迫っていくが、最初に、グリエルモは、ドラベラの心をとらえ、フェランドのペンダントをとりあげてしまう。ところが、フェランドはうまくいかない。そこで、グリエルモが勝利宣言をするが、フィオルディリージはまだ迷っている。プライドを傷つけられたフェンランドは、真剣にフィオルディリージに迫る。彼女がもっていた刀をとりあげて、自分を刺してくれと、おお芝居をうつと、ついにフィオルディリージは「あなたの勝ちよ、私を好きなようになさって」と受け入れる。そして、フェランドが歌う場面である。
 
  この僕に憐れみの眼を向けておくれ
  ぼくのうちにひとり、きみは見いだせるのだ
 
 この前のだんだん気分が高揚して、速くなってくる部分は、ハ長調だが、ここでイ長調にかわる。この調性は、モーツァルトでは愛の歌に使われる。そして、ここでは、フェランドがついに勝ち得たという気分の通りに、上昇する音形が気分の高揚を表現する。
 

 ここでのフェランドは、芝居、つまり賭け事で演じているのか、本気になっているか、自分でもわからない境地になるように感じさせる。
 このあと、結婚式となり、4人の重唱になる。
 

 この場面は、モーツァルトとしては極めて珍しく、いろいろと試行錯誤したと言われている。長い旋律によるカノンだが、前のフェランドの歌の音形をひっくり返したようなメロディーだ。だから、音が上向ではなく、下向になっている。そして、女性二人とフェランドが同じメロディーを順番に歌っていくが、明らかに、3人とも冷静になっている。調性も半音下がって変イ長調になっているのだ。(楽譜では変ホ長調のように見えるが、実際は変イ長調である)同じメロディーを繰り返すことで、この直前に婚姻証書に署名したことを、多少悔いているような気分が表現されているように感じられる。しかも、ここにはでてこないが、グリエルモはふてくされたように、ぶつぶつと文句いうように、このあと入ってくるのだ。
 しかも、ここの歌詞はこうだ。
 
  あなたの、わたしのグラスのなかに
  すべての思い出が沈んでくれますように
  そして、私たちの心には
  過去の記憶がもう残らないように
 
 愛を歌いながら、実は双方がともにゲームだったことを思い出しつつ、しかし、過去を消したいともいっている。
 そして、このあと、軍隊が帰ってきたという合図が鳴る。そして、ことの顛末を理解した上で、互いに理解しあうのである。
(楽譜は、Dover版のスコアからとった。)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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