読書ノート『デカブリストの妻』ネクラーソフ

 トルストイの『戦争と平和』は、当初デカブリスト(十二月党員)のことを書くつもりだったことは、既に書いた。そして、最初の草稿が、ピエールとナターシャという、『戦争と平和』の事実上の主人公である二人が、シベリア流刑から戻った場面から始まるものだった。もちろん、流刑に処せられたのは、夫のデカブリストだけだから、妻であるナターシャは、必要もないのに、極寒の地、しかも、非常に遠方のシベリアに、あとを追いかけて行ったのである。橇で4000キロをいくというのは、気がとおくなるような苦行だ。もちろん、贅沢な生活をしている貴族であるのに、それを捨てていくのだから、まわりは懸命にとめたに違いない。どういう風に、彼女らは出かけたのだろうか。それを描いたのが、ネクラーソフの『デカブリストの妻』である。ネクラーソフは、ロシアの詩人で、ドストエフスキーに高く評価されたという。

 「デカブリストの妻」は、実際に、夫のあとを追って、シベリアに行ったデカブリストとして流刑になったトゥルベツキー公爵とヴォルコンーンスキー公爵の妻のことを詠んだ詩である。ネクラーソフは、直接二人を知る人から聞いた話をもとにしているという。細かい部分は、創作であるとしても、大筋は事実と考えてよい。デカブリストは、貴族出身の軍人たちが起こした叛乱だから、夫人たちも貴族である。モスクワ、あるいはプテルブルクにとどまっていれば、裕福な生活が保障されている。(ちなみに、日本なら、連座制が適用されることが多く、将軍への謀叛となれば、家族も処刑されることは免れない。しかし、ロシアの帝政では、当人が罰せられても、まったく関与していなければ、家族は処罰の対象にされることはなかったようだ。レーニンの兄は、皇帝暗殺事件に関わって処刑され、レーニンもその後、革命運動家としてシベリア流刑にあい、その後脱出し、革命勃発で帰国するまで、ヨーロッパで亡命生活をしているが、その間の生活を支えていたのは、父が貴族だったために、寡婦となった妻、つまりレーニンの母親が年金を受け取っており、その仕送りにレーニンは依存していたとされている。)
 流刑地は、ネルチンスクだ。ネルチンスクは、満州に近い、ロシアの東部である。トゥルベツカーヤ公爵夫人は、イルクーツクの長官に、引き止められる。皇帝から、モスクワに引き返すように、何がなんでも説得せよ、という命令を受けているのだ。一週間にわたって説得するが、積極、夫人は心を変えることなく、ネルチンスクに向かう。
 そのやりとりが、トゥルベツカーヤ公爵夫人の詩の中心をなしている。
 
長官
 しばらくのあいだおまちください
 こちらの道はひどく悪くて
 ご休息なさらなくては・・・
公爵夫人
 ありがとう!わたし、元気ですの・・・
 もはやそれほど遠くもないし
長官
 やはりまだ、八百ヴェルスタはござります
 それにいちばんいけないのは
 これからの道はずっと悪くて
 あぶないお旅でござりますぞ!・・・役目がら
 ふた言ばかり申し上げなくては。それにわたくしは
 しあわせにも、伯爵さまをぞんじあげておりますので。
 あのお方のもとに七年間
 おつとめ申したことでござります。
 あなたさまのお父上はまれに見るお方
 そのおこころも、そのお知恵も。
 
 こうした長いやりとりが続く
 
長官
 あそこは、烙印なしの人間はまれ
 それも無情な手合いです
 そこらを勝手にとびまわっているのは
 シベリア徒刑の囚徒ばかり。
 あそこの牢獄はおそろしく
 鉱坑といえば、深い地の底。
 ご主人とさしむかいでおられることなど
 ものの一分間もできますまい
 追い込みのバラックに住み
 たべものとてはパンとクワスだけ
 あそこには五千の囚徒
 おのが運命をのろっていて
 夜毎のけんか、人殺し
 また強盗が絶えませぬ
 
 こうして説得するが、結局、夫人は断固として馬を用意することを要求し、とうとう長官は精神的ストレスからか、寝込んでしまう。無為の5日間を過ごし、更に口論が続き、等々最後に、長官が馬を用意しろ、と命じるところで終わる。ドルベツカーヤ公爵夫人は、シベリアで亡くなったとされており、したがって、ネルチンスクに到着したあとの話は、聞くことができなかったのだろう。
 
 ヴォルコーンスカヤの場合は、シベリアに着き、夫と再会する。そして、帰還者であることが確認されている。詩の内容は、結婚の事情から始まり、ネルチンスクについて夫に会うところまでである。
 彼女の結婚は、完全な家と家の結婚だった。ほとんど知らない男性と結婚して、しかも、新婚間もない時期に、夫のヴォルコーンスキー公爵は、どこかにいってしまい、その後全然帰って来ない。夫人は病気で倒れてしまうが、その後尋ね歩いて、やがて叛乱を企てた罪で収監されていることを知る。そして、一年後監獄で再開することになる。そして、助命嘆願も虚しく、シベリア送りになり、夫人は生まれて間もない子どもをおいて、夫のあとを追うのである。シベリアで、夫は坑夫として働いており、夫人も共に働くことになるのだろうか。そこは明示されずに、終わっている。 
 ほとんど知らない男性と結婚し、しかも、ごくわずかな新婚生活(2,3週間だったようだ)のあと、夫はいなくなってしまう。逮捕されていることを聞かされているときには、既に子どもがいた。それだけの関係で、シベリアまで夫を追いかけていくというのは、本当に驚きだ。
 彼女は、父からヴォルコーンスキーという名前を結婚相手として聞かされる。
 
 -でもお父さま!あの方はほんのちょっと
 わたしとお話しなさっただけですわ!
 そういって、わたしは顔あからめる・・・
 「あの男といっしょになれば、おまえはしあわせ!」
 老人はおごそかにいいわたした!わたしは反対できなかった
 
 こうして年配の将軍と結婚することになる。しかし、数日の新婚旅行のあと、彼は出かけて、そのまま帰って来なかった。彼女は散々探し回るが、まわりは誰も教えてくれない。かなり経ってしまう。
 
 父にちかって、たしかめてみたが
 彼もまたまわりの者も
 ただおしだまっているばかり
 愛するのあまり、かわいそうな父はわたしを苦しめ 
 あわれむが故に、悲しみを二倍にした・・・
 だがしかし、とうとう知ったのだ わたしは知ったのだ
 かわいそうにセルゲイが
 謀反人であった ということを
 当の判決文で読んでしまった
 
 そして、牢獄に会いにいく。彼は死人のようで、かがやきもなく、悲しみの色が濃かったが、妻をみて、たちまちよろこびにかがやいた。ペテルブルクの名門貴族だった夫の親類を尋ねて、助命運動をする。しかし結局、シベリア流刑に。
 彼女は、夫のところに行く決意をするが、当然、家族は猛反対をする。最後の手段として、彼女はニコライ皇帝に手紙を書き、シベリアに行く許しを求め、許される。そこで決心して、シベリアに向かうのである。
 
 わたしの生活は
 平和にすぎたことであろうか?
 わたしはかずかずのことを学び
 三か国語を読めもした
 上手におどり 演奏もして
 上流の客間でも 舞踏会でも
 わたしはひとめをひいていた
 たいていのことはなんでも話せたし
 音楽にも通じ うたえもした
 馬にさえ上手に乗れたのだ
 けれど、考えることは少しもできなかった
 ようやくはたちになってから
 人生は遊びではない ということを
 やっと思い知ったのだ
 
 ネルチンスクにつき、坑道にくだっていって、そこでとうとう夫に会う。
 
 セルゲイはこころせいていた だが足どりはのろのろと
 枷がもの憂く鳴っていた
 はたらく者も現場監督も
 だまって道をあけるのだった・・・
 ああ 彼は見た わたしを見た!
 「マーシャ!」両手をこちらへさしのべたが
 まるで力がぬけたように
 遠くの方で 立ちどまった・・・
 
 「事実は小説より奇なり」というのは、テレビ開局間もない時期の、大ヒット番組「私のひみつ」で、最初アナウンサーが話す言葉だった。デカブリストの反乱でシベリア流刑になったのは、106人で、既婚者は18人で、そのうち11人の妻がシベリアに向かったとされている。そして、当時から、非常に大きな話題となり、ロシアの妻という呼び方をされていた。軍隊を動員した反乱ではあったが、掲げたのは、農奴解放などの民主主義的な内容であったために、多くの共感者を生み、有名人も多かった。プーシキンは、デカブリストたちを交遊があり、ヴォルコーンスカヤの篇にも登場している。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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