前回の結論は、つまり、「入試には使わない」という指導と「道徳の教科化」とは、基本的に矛盾しているということであった。
では、広い意味で道徳的要素を、入試に一切使わないほうがいいのかというと、そう単純ではない。
かつて「内申書裁判」というのがあった。現在は世田谷区長をしている保坂展人氏が、高校受験の際に、内申書での総合評価の欄の記述故に、ほとんどの高校で不合格になったことで、その記述の不当性を理由として訴えたものである。当時は大学紛争の時代で、高校や中学にも波及していたのである。彼は、政治集会などに参加し、学校の行事等への批判活動をしたということが記述されていたことが、訴訟で明らかになっている。この訴訟後に、入試に使うための調査書(いわゆる内申書)への記述に大きな変化があったとされる。単純にいえば、否定的なことは書かないようになった。以前からそうだったと思われるが、一層徹底されたわけである。
また、一時愛知県で行われていた人物評価の扱いも有名なものだった。当時、相対評価の人物評価欄があり、ABCでつけるのだが、C評価を付けられた生徒は、まず高校に合格しないと言われていたために、教師はCを誰につけるか、苦悩しなければならなかった。相対評価だから、かならずつけるべき人数が決まっていたからだ。これは、当時「愛知の管理教育」の象徴だった。もちろん、今では行われていない。 “教育行政学ノート 道徳と入試2” の続きを読む
月別: 2019年6月
鬼平犯科帳 密告 罪を犯す子を親はどうしたらよいのか
鬼平犯科帳には、母子の関係を描いた物語が極めて少ない。そのうちのひとつが「密告」である。子どもが犯罪者になったとき、親はどうすればいいのか、という問題を突きつけている。練馬の元事務次官が息子を殺害した事件、また、警官を刺し、銃を奪って逃げた男が、自分の息子ではないかと通報した親、このできごとは、「密告」に描かれたことと、通じるものがある。
ある日、平蔵に、今夜盗賊が押し込むという密告があった。時間と場所が書いてある。この手の情報提供は、たくさんあり、ほとんどがからかいやガセネタなので、出動する同心たちは、疑問をもちながらだが、平蔵はどんなときにも、それが正しいものと仮定して行動する。このときも、直ぐに出動せよと言われた忠吾は、いやいやでかける。しかし、その密告は事実で、既に盗賊たちは、家に入って殺戮に及んでいたのだが、少数を除いて捕縛された。 “鬼平犯科帳 密告 罪を犯す子を親はどうしたらよいのか” の続きを読む
慰安婦問題を扱った『主戦場』を見て
普段映画を見にいくことはほとんどないのだが、左右の論客にインタビューしたというドキュメント映画『主戦場』はぜひ見たいと思ってでかけた。驚いたことに、平日の昼間なのに、客席が8割くらい埋まっていた。年に2回程度はいくのだが、ほとんど2割以下なので、かなり注目されているのだろう。(もっとも、インターネットで評価を読むと、連日満員で立ち見もでるという地域もあるらしい。)また、ネットで、ここに登場した右派のひとたちが、扱い方が公正でなく、自分たちの主張が、一部を取り出されることで歪められていると抗議の声をあげているという記事を読んで、そこに注目した。慰安婦問題については、最初に知ってから50年以上たっているし、私自身の立場は固まっているから、この映画をみて、考えが変わったことはないが、新しく知ったことはいくつかあった。(慰安婦問題などないという人を右派、あるという人を左派とここでは書く。)
ただ一度、映画館でみただけだから、正確に憶えているわけではないが、慰安婦像設置をめぐる対立、河野談話、日韓の協定、アメリカのグレンデール市、サンフランシスコでの慰安婦設置、強制連行、性奴隷、国際法違反、教科書扱い等々、様々なトピックごとに、相対立する立場の論者のインタビューを重ねていく。右派たちから抗議があがったということでわかるように、彼らの主張に論理の強さは感じられない。 “慰安婦問題を扱った『主戦場』を見て” の続きを読む
教育行政学ノート 道徳評価と入試1
教育課程や教育内容にかかわる行政を扱ったが、そこで、道徳の教科化に関連し、入試にはどのように扱われるかという問いがあったので、多少調べてみた。
道徳が教科として動き出している。既に成績をつけた教師もたくさんいるだろう。成績がつけられると問題になるのは、入試でどう扱うのかということだ。これまで文科省は、道徳は入試に使わないようにという、かなり強力な行政指導をしてきた。しかし、長妻議員(民進党当時)が、自分のホームページで、入試に使われるようになるだろう、という批判的キャンペーンをしていたという報道もある。長妻議員は、国会で質問もしており、そのときには、林文部大臣は、明確に否定している。
しかし、文科省が入試に使わないようにと指導しているからといって、実際に今後使われない保証はないし、また、使うべきだという意見だってあるだろう。そもそも戦前は、修身の成績が、中学入試には大きく影響したと言われているのだ。教育勅語を復活させるべきだというひとたちは、今でも多いのだから、道徳こそ人間評価の中心だと考えるひとたちがいても不思議ではない。更に、そもそも道徳を評価するということは、成績だけで行われているかという問題もある。面接は人物評価をしているわけだが、その中に道徳的観点がないとはいえないだろう。 “教育行政学ノート 道徳評価と入試1” の続きを読む
官庁審議会答申が政府見解と違う? 有り得ない麻生答弁
金融審議会市場ワーキング・グループの報告書「高齢社会における資産形成・管理」が大きな議論を巻き起こしている。私も高齢者であるし、関心もあるので、専門家ではないが、読んでみた。しかし、正直いって、そんなにどんでもない報告なのか、よくわからない。
金融審議会というのだから、当然金融庁の審議会であって、その立場から高齢社会をどう乗り切るかをまとめたものだ。厚生労働省の立場からすれば、当然異なる内容になるだろう。例えば、次のような記述がある。
「わが国の高齢者は総じて元気である。これは、他国に比して、また過去と比較しても当てはまる。2016 年においては、65 歳から69 歳の男性の55%、女性の34%が働いており、これらの比率は世界でも格段に高い水準となっている。 “官庁審議会答申が政府見解と違う? 有り得ない麻生答弁” の続きを読む
読書ノート『ひきこもりだった僕から』上山和樹
本書は、自分自身がひきこもりであった上山和樹氏が、ひきこもりから脱却しつつあり、ひきこもりの相談活動をしている段階に書かれた、体験と相談活動を踏まえた分析との二部構成になっている。2001年12月にだされた本で、2000年に起きた西鉄バスジャック事件と、新潟少女監禁事件の発覚とを契機に、執筆依頼されたと思われる。私が、今回この本を読もうと思ったきっかけは、もちろん、川崎と練馬の事件である。上山氏が本書で批判しているように、ひきこもり相談をしている精神科医、カウンセラー、行政などは、実際にはひきこもりの当事者の内面について、ほとんど理解していないのだろう。なぜなら、ひきこもりといっても、その多い実数に比較して、相談に訪れる人はごく少数しかおらず、しかも、相談にいくのは親である場合がほとんどだろう。しかし、親はひきこもり当人の「敵」であるので、親から語られることがらは、ひきこもり本人の実態とはずれているという。そういう意味で、自身がかなり長期のひきこもりの経験者であり、(この本執筆当初、完全に払拭していたわけでもないようだ。)たくさんのひきこもりの相談活動をしている人の書いたもので、参考になるだろうと考えたわけである。 “読書ノート『ひきこもりだった僕から』上山和樹” の続きを読む
読書ノート『天皇と東大』Ⅰ-Ⅳ 立花隆
大分前に購入したが、必要な部分だけ読んで、あとは積んどく状態だった本を読み終えた。厚い文庫本4冊だから、トルストイの『戦争と平和』にも匹敵する量だ。明治の当初から敗戦(多少戦後も含まれる)まで、日本の「国体」をめぐる相剋を描いたノンフィクションだ。戦争が終わったとき5歳だった立花が、ずっと疑問に思っていた「なぜ日本はこんな酷い国になってしまったのか」という自問に答えるための書であるという。また、これまでの敗戦に至る歴史分析を、多くの人は左翼的な観点からのみみて分析していたが、それだけでは不十分で、右翼的な側面から分析がないと、本当のところはわからないという問題意識を重視して書かれたものだ。
明治初期のある程度リベラルの状況から、次第に国家主義的な体制、しかも一切の自由な言論を許さない社会になっていく過程を、東大を主な舞台とした左右の対立相剋を中心に叙述している。個別的な評価はそれぞれになされているが、全体としては、事実をもって語らせる方法なので、著者の独自の歴史観などがだされてはいない。が、逆にそのことで、様々な立場からの事実を知る上では、有意義な本だ。 “読書ノート『天皇と東大』Ⅰ-Ⅳ 立花隆” の続きを読む
ベルリンの教師不足
日本では、教職は人気の職業だと言われている。団塊の世代が退職して、教師の大量採用が続いたころ、大学では小学校免許取得のコースがかなり新設され、志願者も多かった。中学・高校の免許取得の課程は、ほとんどの大学に設置されているが、小学校の免許取得課程は、かなり限定されていたからである。私の大学は教員養成で有名なので、学生募集で有利な状況だったといえる。
しかし、私自身は、やがて教職を目指す学生は減少してくるし、また、現場で教師不足になると危惧していた。ブログでも何度も書いたし、授業でも話していた。教職に就く魅力とされていたことが削られ(ex. 奨学金返済免除)、教師批判が強まり(M教師批判、いじめ問題の不手際)、そして、なんといっても殺人的な過重労働などが要因であろう。
そして、それは次第に現実となりつつある。
小学校の教員採用試験の倍率が2倍いかないところが、けっこうあるのだ。特に、地方は例外なく、教師になるのがかなり難しかったのであるが(だからこそ、大分県での不正事件なども起きた)、地方に倍率の低い県が少なくないのである。これは、民間企業の採用が増え、「売り手市場」になっていることも影響しているようだ。確かに、民間企業への内定は順調である。民間企業の採用が多いと、公務員や教員志願者が減り、不況になると逆になるのは、戦後ずっと続いている現象であるが、教職への志願者が減っているのは、ブラックと化した学校の実状が知られるようになったからだろう。 “ベルリンの教師不足” の続きを読む
学校教育から何を削るか13 入学試験制度
本シリーズ(学校教育から何を削るか)の最後にする予定で、以後、これまで書いたものを整理する予定。
最後に最も大きく、かつ困難な課題を提起することにした。
最初に確認しておきたいことは、日本の入学試験は、日本の学校教育に甚大な影響を及ぼしているし、進学ということがある以上、上級に進学するために「入学試験」があることは、当たり前のことであり、それは万国共通だと、多くの人が思っているが、それは間違いだという点である。上級学校に進学するために、何らかのハードルがあることは、ほとんどの場合当てはまるが、日本のような入学試験は、教育制度が発達した先進国では、実は少数派である。だから、入学試験システムは、廃止することができると考えている。
私が学生時代、教育法の第一人者であった兼子仁先生の授業で、兼子教授は、「日本の入学試験というのは、なんとしても廃止したいですね。」と主張したことがある。学生たちは、意外な主張に驚き、ほとんど茫然自失の体だったと記憶している。私もそうだった。「そんなことできるはずがない。」そのときだけではなく、ずっとそう思っていた。 “学校教育から何を削るか13 入学試験制度” の続きを読む
鬼平犯科帳 敵討ち
江戸時代の話だから、敵討ちが何度も登場する。しかし、ルールに則った事例は、ひとつもない。実は、江戸時代の敵討ちには、厳格なルールがあるのだ。そのポイントが、『鬼平犯科帳』にも説明されている。市口瀬兵衛という71歳の老武士が、自分の息子の敵討ちをする「寒月六間堀」にこうある。
許可された敵討ちとは
「武士の敵討ちの場合、肉親の尊属のためにすることなら正則のものとして届出が許可される。つまり父や兄の敵を討つというのならゆるされるけれども、子や弟妹、妻などの場合は変則となる。これが掟であった。
なんといっても日本の諸国は百に近い大名や武家によって、それぞれに統治されている。殺人を犯して他国へ逃げてしまえば、自国の警察権もおよばなくなる。そこで殺された者の肉親が、死者のうらみをはらすのと共に、自国の法律の代行者として犯人を探し出し、討ち取る。これが[敵討ち]なのだ。
それがためには、どうしても正則のものでなければならない。変則のもので、公の許可のない敵討ちは、却って法を犯すことになるのである。」 “鬼平犯科帳 敵討ち” の続きを読む