本書は、自分自身がひきこもりであった上山和樹氏が、ひきこもりから脱却しつつあり、ひきこもりの相談活動をしている段階に書かれた、体験と相談活動を踏まえた分析との二部構成になっている。2001年12月にだされた本で、2000年に起きた西鉄バスジャック事件と、新潟少女監禁事件の発覚とを契機に、執筆依頼されたと思われる。私が、今回この本を読もうと思ったきっかけは、もちろん、川崎と練馬の事件である。上山氏が本書で批判しているように、ひきこもり相談をしている精神科医、カウンセラー、行政などは、実際にはひきこもりの当事者の内面について、ほとんど理解していないのだろう。なぜなら、ひきこもりといっても、その多い実数に比較して、相談に訪れる人はごく少数しかおらず、しかも、相談にいくのは親である場合がほとんどだろう。しかし、親はひきこもり当人の「敵」であるので、親から語られることがらは、ひきこもり本人の実態とはずれているという。そういう意味で、自身がかなり長期のひきこもりの経験者であり、(この本執筆当初、完全に払拭していたわけでもないようだ。)たくさんのひきこもりの相談活動をしている人の書いたもので、参考になるだろうと考えたわけである。
第一部の経緯については、省略するが、一点のみ紹介しておく。
外にでる決意をした上山氏に、同居しようと誘ってくれた友人が、「本当に我慢できないと思ったら、死ね。でも、最後に電話してくれよな。一人で死ぬな。最後、一緒に呑もう。」と言う場面が出てくる。
ここを読めば、現在なら誰でも、「一人で死ね」「そんなことは書かないで。」論争を思い出すだろう。もちろん、状況はまったく別であるが、ひきこもり本人に、「我慢できなくなったら、死ね」と直接言うというのは、思いきった話だが、上山氏本人は、つらくなると、この彼の言葉を思い出して乗りきってきた気がする、と書いている。
以下二部の紹介である。
ひきこもりとは何か
上山氏は、ひきこもりを「[現在]において、「怒り」と「恐怖」が表裏一体となって身動きできないまま硬直している」状態と定義している。(ただし、明確な精神疾患によるひきこもりは除外している。)
「ひきこもりは、最初から「価値観の葛藤」がある。」だから、親とのコミュニケーションがうまくいかない。親サイドと当事者サイドの価値観があまりに違うから、コミュニケーションが徹底して不足してしまう。氏が、相談された親に、最初に言われることは、多くが子どもとの「通訳」なのだそうだ。この場合の通訳とは、言っていることがまったく理解できないということではなく、そもそも会話が成立していないから、会話を取り持つことから始まるのだろうが、「怒り」と「恐怖」に囚われた子どもだから、何か言ったとしても、おそらく冷静な言葉ではなく、その背景を推測して、親にその意味を伝えることが必要になるのだろう。
ひきこもりとオタクの違いについて、「本人が安息感を得られるような快感の回路をもっているかどうかで分かれる」として、日常的に、オタクは快感を得ており、ひきこもりは苦痛と怒りに囚われている。したがって、上山氏からみれば、オタクは全く問題ない。
ひきこもりのとらえ方に「甘え論」と「炭鉱のカナリア論」のふたつの立場があるとし、上村氏は後者の立場にたつとする。そして、風当たりが強いから、カナリア派はもっと発言する必要があると主張している。「甘え論」は説明するまでもないと思うが、「炭鉱のカナリア論」とは、炭鉱にわずかでも有毒ガスが出てくると、カナリアは敏感に反応するので、探知機としてカナリアをかけておくわけだが、そのように、社会の矛盾などを敏感に反映しているのが、ひきこもりであって、弱い存在として援助する必要があると同時に、ひきこもりを通して、社会の矛盾を考察することができるとする立場である。
もうひとつ、ひきこもり把握で重要な点として、ひきこもりの人は、ひきこもりによって初めて、親の望まないあり方をするのだという。通常、子どもは第一次、第二次反抗期を通して、親からの自立的姿勢を獲得していく。しかし、親の期待に過度に適応して、親のいうことをよく聞く「よい子」は、往々にして、反抗期を経過せず、やがて、ひきこもりとして、親の期待しない生活をすることで、「自立」をするのだいう。もちろん、だからといって、ひきこもりが望ましい状況であると思っているのではなく、なんとか社会に出る必要があると、葛藤している状況なのである。
何故生じるのか
ひきこもりの直接のきっかけとなるのは、学校時代であれば、いじめ、社会にでてからは、会社の上司の「メンツ」による理不尽な扱いを受けることが多いという。
多くの人は、上司の理不尽な扱いを不本意ながら、受け入れてしまうのだが、ひきこもりになる人は、正義感が強いのだという。その正義感から、そんな会社にいることに耐えられなくなる。しかし、他の会社に勤めても、状況は似たようなものだから、結局、自分が居場所と感じられる会社はなくなってしまい、ひきこもりになる。つまり、「価値観の葛藤」があるわけだ。
あまり指摘されることがないが、性的な挫折が大きいという。第一部では、上山氏の性的挫折体験がかなりたくさん語られている。そこで、「ひきこもりからの自立とは、親とは関係ないところで自分独自の性的関係、性生活をつくっていくプロセスでもある」という見解になる。
ひきこもりの男女差では、男が圧倒的に多いことは、よく指摘されている。これは、男は仕事をもって、家庭を支えなければならないというストレスが大きいことによると上山氏は考える。確かに、25歳で外出をほとんどせず、親の家にいるとすれば、男なら確実に、変な人とみられる。しかし、女性の場合には、家事手伝い、花嫁修行中、お嬢様などとみられる可能性が高く、つまり、ストレスが少ない。ストレスがない分、ひきこもりにもなりにくいというわけである。
どうすればよいのか
抽象的な論にもとづく提言などは、ほとんど意味がなく、当人の状況に応じた具体的なやり方で対応していくしかないのだろう。解決とは、「価値観の問題を置き去りにしないで、経済生活を生みだすにはどうしたらよいか、これが最大」の課題だという。「高齢化によって、仕事のことで頭がいっぱいになる」が、挫折を繰り返し、更にひきこもりが深刻化しているのが、多くの事例だ。
解決は結局「仕事」であるかもしれないが、そこに直接いこうとすると失敗することになる。直接のひきこもり要因は、人間関係であり、価値観の葛藤だから、「まず仕事」ではなく、「お金のかからない人間関係」を築くことなのだという。お金を媒介としてない人間関係といったらよいのだろうか。マルクスのいう「資本主義社会における物神性」を否定した関係とでもいうべきものだろうか。
分かりやすくいうと、「上山を助ける」ではなく、「上山にきてほしい」という関係である。上山氏は、かの「死ね」といった友人としばらく同居するのだが、彼は、一緒に住もうと、強く誘ってくれたのであり、自分の意思として、上山氏と住みたいという希望を述べた。自分が助けてあげよう、というような雰囲気はまったくなかったようだ。そこが、上山氏に大きく響いた。「ひきこもりは、コミュニケーションへの絶望だから、ピンポイントでの「共感」を体験することが必要」と書いているが、そうした体験を「一緒に住もう」という提案で感じたに違いない。
こうして人間関係がわずかながらできていくと、少しずつ、外に出ることが可能になる。しかし、外に出ることは、問題の解決ではなく、上山氏によれば、そのように主張する斎藤環氏への批判として、実は解決への出発点であるとする。
ひきこもりの重大なトピックは、性・死・お金であるというが、いずれも、外出後に出会うことである。
最も、この場合の「死」は、自分ではなく、親の「死」が大きいのだが、その解決のためには、斎藤氏は、「遺言を書く」ことを勧めているようだ。上山氏も賛成している。大人のひきこもりは、誰でも親が亡くなったらどうなるのか、実は真剣に悩んでいる。それには、小細工ではなく、正攻法で向き合うことが必要であり、それには、「遺言書」を書いて、自分の財産の詳細と、どれだけ残せるかをはっきりさせる。そうすることで、親子関係が変わることが期待できるし、また、ひきこもり本人が、親の死後の生活を考える重要な契機となるという。
対応上の困難
しかし、解決に向かうには、様々な困難があるという。
「ひきこもり問題が経済的挫折にのみ限定されていて、価値観の葛藤が充分に論じられていない。」価値観対経済生活のジレンマである。経済生活をしようとすると自分の価値観を裏切る、自分の価値観に忠実であろうとすると、経済精察がなりたたない。まさしく「ダブルバインド」に陥ってしまうというわけだ。
価値観の葛藤が充分に論じられないと、甘え論、精神論にたつ説教になる。しかし、説教する親、あるいはその代弁者は、過去のことで責められることになる。「おれの今はお前のせいだ、俺の青春をどうしてくれる。」
それに対して、親に変われといっても、50年、60年生きてきた姿勢を変えろといっても、変えられるものではない。親自身の「解放」も必要なのだ。
様々な偏見も困難を生む。
犯罪予備軍という偏見。実際に犯罪者となっているひきこもりは、極めて少なく、一般人より少ないと上山氏は書いている。ただ、事件があると、書き立てられるので目立つことは間違いない。川崎の事件は、確実にひきこもり=犯罪予備軍という意識を広めたし、その影響もあって、練馬の事件が起きた。
偏見はひきこもり当事者にもあると上山氏はいう。自分だけ特殊なのだという意識だが、上山氏がたくさんのひきこもりの当人と話し合うようになって、実は、「いくつかのケースの順列組み合わせに過ぎない」と感じたという。つまり、同じ境遇の者がたくさんいると知ることは、気持ちを楽にするから、そうした情報を知らせることも役にたつということだろう。
また、なんとかひきこもり問題を解決したいと活動している人への偏見もあるという。
氏自身が、お金をもらって相談活動をしていることを非難されることがしばしばだし、また、それを知ったとたんに、ひきこもり本人が心を閉ざしてしまうこともあるという。お金は親がだすわけだから、親側の人間=敵になってしまう。また、自分の不幸をネタにして売名行為をしているという非難なども少なくないそうだ。「ひきこもり親の会」の活動に対して、家族の問題を社会問題にすりかえているという批判もある。
更に、上山氏は、ひきこもりに関わっている行政、精神科医、カウンセラーに対しても、厳しい目を向けている。特に精神科医に対しては厳しい。まずひきこもり当人は、相談にみずからいくことはほとんどないので、彼らが相談相手にしているのは親がほとんどである。しかし、いくら親の話をきいても、ひきこもり本人のことはよくわからない。だから、実態を踏まえた対策を提示できない。親と同じ立場の「説教」に近い対策か、あるいは親に変われと無理な注文をするか。精神科医の場合には、実際に患者をみることなく、精神疾患の病名をつけて、薬をだしたりすることがある。しかし、ほとんどのひきこもりは、上山氏によれば、精神疾患の患者ではない。氏は、精神科の診断をうける際には、かならずセカンドオピニオンを受けるべきだという。また、何か診断がだされたら、「ではどうすればいいんですか?」と質問すれば、診断の当否は判断できると勧めている。
結局、個別の状況に応じて、まずは、お金を介さない人間関係、つまり、「あなたにきてほしい」という人が現われること、これがまず第一歩なのだ、というのが、上山氏の最初の提言のように読み取れる。
一読して、ひきこもり問題というのは、本当に難しいのだ、と改めて思う。