大分前に購入したが、必要な部分だけ読んで、あとは積んどく状態だった本を読み終えた。厚い文庫本4冊だから、トルストイの『戦争と平和』にも匹敵する量だ。明治の当初から敗戦(多少戦後も含まれる)まで、日本の「国体」をめぐる相剋を描いたノンフィクションだ。戦争が終わったとき5歳だった立花が、ずっと疑問に思っていた「なぜ日本はこんな酷い国になってしまったのか」という自問に答えるための書であるという。また、これまでの敗戦に至る歴史分析を、多くの人は左翼的な観点からのみみて分析していたが、それだけでは不十分で、右翼的な側面から分析がないと、本当のところはわからないという問題意識を重視して書かれたものだ。
明治初期のある程度リベラルの状況から、次第に国家主義的な体制、しかも一切の自由な言論を許さない社会になっていく過程を、東大を主な舞台とした左右の対立相剋を中心に叙述している。個別的な評価はそれぞれになされているが、全体としては、事実をもって語らせる方法なので、著者の独自の歴史観などがだされてはいない。が、逆にそのことで、様々な立場からの事実を知る上では、有意義な本だ。
明治から昭和前半までの政治的争いに関して調べるときには、随時参照することになるだろう。
この本をよんで、初めて知ったこと、中でも「ほーっ」と思った逸話をいくつか紹介したい。
加藤弘之の変節
明治初期に明六社という、開明的な知識人の集まりがあったということ、その中心が福沢諭吉や加藤弘之だったということは、学校の歴史で習う。福沢は終生変わらぬスタンスを貫いたと、私は思っているが、(脱亜論で右傾化したという説もあるが、私はとらない)加藤が大きく変節したことの理由がいままでわからなかった。加藤は当時最も高いアカデミズムの「地位」を得ていた人物であるが、明六社的リベラリズムを捨て、国家主義的な思想に転向し、その変化が極めて大きいのだ。立花によれば、それは明治の代表的なテロリストと言われた海江田信義に、直に脅されたからだという。海江田信義は、元薩摩藩士で、有名な生麦事件でイギリス人を切り殺した人物であり、またその弟が、桜田門外の変に参加した唯一の水戸浪士以外の武士(有村雄助のことだろう)という存在で、当時明治政府の高官であったが、そういう過去のことはよく知られていた。それにしても、西洋の人権思想の熱心な紹介者で、天賦人権説にたっていた加藤が、ある日突然転向し、国家主義者になったしまうのだから、世間も驚いたと思うが、転向後の加藤は、社会的地位の高さは保ったものの、学者としての尊敬は失ったしまった。立花は、似たような立場に遭遇した美濃部達吉が、暴漢に襲われながらも、自分の学説そのものは決して撤回しなかったことと対比させている。
北里柴三郎の業績の横取り
北里柴三郎の逸話も興味深かった。
北里は東大医学部時代の成績が極めて悪く、落第もしたようだが、ヨーロッパにいってから極めて優れた研究をして、ノーベル賞に最も近い日本人と言われ、欧米各国から教授として招かれたが、それを振り切って帰国したところ、日本ではほとんど評価してくれない。それに憤慨した福沢諭吉が奔走して、伝染病研究所(北里研究所)が設立された。そして、様々なワクチンや薬を発明し、膨大な利益をあげた。すると、東大医科大学長が、あのような研究所は文部省管轄にすべきだと進言して、結局東大に編入してしまったのだそうだ。もちろん、東大としては、北里を迎えたわけではない。立花は、東大による乗っ取りとしている。その後北里は自分で研究所を作るとともに(現在北里大学になっている)、慶応大学の医学部の創設と発展に尽くしたという。北里を東大が冷遇した理由は、東大時代の成績のためだ。
それるが、森鴎外がなぜ東大医学部の教授になれなかったのか、長いこと疑問だったのが、森は、家計を助けるためと、とにかく優秀であったために、年齢をごまかして、まだ入れないはずの年齢で東大の医学部に入学したのだが、さすがに、3歳くらい下だったので、トップの成績をとれなかったのだそうだ。1番か2番でないと、教授にはなれないということで、軍医として生きることになったわけだ。
戸水博士の誇大妄想的言論
日露戦争の前から、あとに至るまで、戦争を焚きつけるような言論活動を行った東大教授(七教授とされるが、他大学の教授も一名いた。中心は戸水博士)のことは、学校でも教えるが、どのような言論活動をしたかは、ここでは資料が大量に引用されているのでよくわかる。満州をとれというだけではなく、ウラルまで進軍せよ、というようなホラとしかいいのようのない、空論・放言を新聞などに書きまくっていた。実際に日本は戦争が継続できる状態ではなく、早い時期に講和条約を結ぶ必要があったわけだが、戸水博士の無責任な言論によって、国民が過大な期待をもち、ポーツマス条約に不満で日比谷焼き討ち騒動などがおきる。もちろん、対露との関係で、日本の苦しい状態を国民に説明することなども不可能だったのだろうから、政府としては、難しい舵取りだったろうが、論理的に戸水の誤りを指摘するような対抗言論を、立花は紹介していない。おそらく、内村鑑三などの戦争反対論という、まったく逆の立場の意見はよく知られているが、客観的な事実をもとにした議論はほとんどなかったのだろう。
内村鑑三不敬事件の真実
内村鑑三のいわゆる「不敬事件」が、伝えられていることと多少事実が違うと書いている。
一般的には、キリスト教徒であった内村鑑三は、天皇の御真影に敬礼を拒んだので、免職になったとされている。
実は、内村は、普段から天皇に対する尊敬の念をもっており、また愛国者でもあったので、御真影への敬礼は普段からしていたのだという。一高には、謄本の教育勅語と御真影が配布されていたので、敬礼は御真影だけだったのだが、問題となった年度には、親署の教育勅語がきたので、親署の教育勅語にも敬礼をするための儀式が行われた。キリスト教徒の教師は他にもいたのだが、彼らはあえて出席せず、内村は寮の舎監だったために出席が義務づけられた。教育勅語への敬礼には抵抗があったが、御真影だけに敬礼すればいいのだと確認した上で出席した内村は、当日になって、親署の教育勅語にも敬礼しなければいけないと伝えられて、まごついたのだそうである。それでも、少し頭をさげたのだが、突然学生のなかから、「頭のさげ方が足りない」と抗議があがり、それから、学生たちが内村を糾弾する行動に出たという。「少しさげた」が「全くさげなかった」と報道されたわけである。
内村の家にもたくさんの学生が押し寄せたのだが、たまたま近所に道場をもっていた柔道の嘉納治五郎が、「我が輩は内村君と面識はないが、愛国者であることを知っている。諸君が内村君をやっつけようというなら、我が輩がここで相手になろう」と叫んだので、その後学生たちは来なくなったと書かれている。敬礼事件で、内村は一高の教授を辞任し、以後伝道者として生きることになり、無協会派というキリスト教の宗派を発展させることになる。
血盟団事件
Ⅱでは、血盟団事件について詳細に書かれている。井上準之助と団琢磨を暗殺した一人一殺主義のテロとして習うわけだが、前の十月事件(クーデター未遂事件)、あとの五一五事件、二二六事件が一連の人的関係で起きていることが、よく理解できる。特に血盟団事件では、自分たちの行動が世の中をかえるというより、そういう動きが出てくるに違いない、自分たちは、そのための「捨て石」になるのだ、という意識で実行されている。井上日招という僧侶が主導するのだが、実行部隊は若者で学生が半数を占めている。実行されたのは2件だけだが、実際には、10名の殺害対象が設定され、動きだしていた。2名決行後に検挙されてしまうが、取り調べや裁判の記録を読むと、厳しく取り調べられている感じがしない。何かインタビュー記録を読んでいるような感じだ。こうした検察のある種好意的な姿勢が、「捨て石」が拡大された特攻隊の発想につながっていくのだろうか。
結局左右の政治活動家も思想家も、高校や大学の教育活動の影響が土台となっており、だからこそ、国家主義者たちは、気に入らない大学の教授たちに狙いを定め、追い出したり、更に逮捕させたりして、国家主義だけが大学に残る状況になる。
加藤弘之の変節から河合栄治郎の休職まで60年弱であるが、そこから国家の大日本帝国の崩壊までは6年しかない。
ⅢとⅣは、本格的な大学での学問への弾圧事件が取り上げられる。ここは、「矢内原ノート」の一環として、継続的に紹介していきたい。