愛知トリエンナーレ問題4 内容への口出し

 奥村氏の「支援するが内容に口出ししない」という問題をどう考えるかという点が残った。これまで、主に毎日新聞の記事を参考にしていたので、バランスをとるという意味ではないが、産経新聞の「表現の不自由展その後」に関する記事をまとめて読んでみた。奥村氏の見解と正反対なのが、八木秀次氏の「表現の不自由展 公的空間での展示の線引き必要」(産経新聞2019.10.8)という記事である。
 八木氏は、そもそもこの企画そのものが問題だ、という立場であり、更に以下のように述べる。

 「芸術については、たとえ主催自治体のトップであっても『中身についての議論はしてはいけない』『金だけは出せ』というような風潮が一部にあるようだが、多額の公金を使ったイベントで、芸術といえども表現の自由において特権的な地位はない。」

 奥村氏と八木氏とでは、どちらが正しいのだろうか。 “愛知トリエンナーレ問題4 内容への口出し” の続きを読む

化学物質過敏症で通学困難な生徒

 今日のHarbor Businessに「学校に通いたい……教室に充満する過剰な「香り」で化学物質過敏症に苦しむ女子高校生」という記事が出ている。化学物質過敏症に罹患している女子高校生が、生徒たちが使っている様々な化学物質で処理した服などの香りで、目眩、頭痛、過呼吸などを引き起しているので、母親が、クラスの保護者に丁寧な事情説明の手紙をだして、原因となる柔軟剤や合成洗剤などを控えるようにお願いしたところ、そのクラスでは協力的で改善されたのだが、学校全体としては取り組まれていないし、また、通学途上の交通機関で体調が悪化するという事態になっている」という記事である。
 この化学物質過敏症は、診断が難しく、他の病気と間違えられやすく、また、病気と認めないような医師もいるのだそうだ。診断ができる病院が全国的に少数で、正しい診断と治療をしないために、どんどん病状が悪化する事例が多数あるという。ある調査によれば、可能性の高い人が全体の0.74%、可能性のある人が2.1%なのだそうだ。正確な診断が難しい病気なので、ウェブで調べる限り、書いている人たちによって数値が異なるのはやむをえないが、可能性が高い人0.74%というと、大雑把にいうと、300人いれば2人はいることになる。高校などは、通常1000人近くいるわけだから、7名程度の人が該当する計算になる。 “化学物質過敏症で通学困難な生徒” の続きを読む

キャンプで行方不明、大人たちの安易な計画ではなかったのか?

 山梨県道志村「椿荘オートキャンプ場」で、行方不明になった小学一年生の当日の経過が、両親によって明らかにされた。毎日新聞掲載の内容をそのまま引用する。

21日午前
9時    一緒にキャンプするメンバーの一部が到着
  午後
0時15分 美咲さんと母、姉がキャンプ場に到着
1時    昼食後、子供たちがテントを張った広場近くで遊ぶ
3時35分 おやつを食べ終えた子供たちが沢に遊びに行く
  40分 美咲さんが後を追いかけて行く
  50分 大人が子供たちを迎えに行く
4時    美咲さんがいないため、捜し始める
5時    日没が近づき警察に通報
6時    警察官が到着
8時    子供たちを寝かせ、大人は捜索を継続
22日午前
1時30分 仕事を切り上げた父が到着。3時まで捜索を続ける “キャンプで行方不明、大人たちの安易な計画ではなかったのか?” の続きを読む

大学入学共通テストの延期要請から、考えてみる

 現在行われているセンター試験に代わって、来年度から「大学入学共通試験」が導入されることになっている。最初に、大学入試センターの試験は、「共通一次試験」という名称だったから、「共通」が復活したわけだ。何が「共通」なのかは、正確にはわからない。というのは、少なくとも私立大学の多くが参加するが、義務ではないし、私立大学の場合には、センター試験は、おそらく別枠になっていると思われる。当初、センター試験の改革案として、大学に入学する者全員が受けなければならない「資格試験」という構想もあった。それが採用されていれば、明確に「共通試験」だったと思うが、採用されなかったので、率直にいって、「共通」の意味はよくわからない。
 それはさておき、大きな改革点は、国語と数学に記述式問題が導入されることと、英語に民間検定試験が採用されるという点だろう。問題の作成理念として、考えさせる問題を含むというようなことが解説されているが、およそ問題を作成するときに、まったく考えなくてよい問題など意図しないのだから、これは、大きな変更点とはいえない。 “大学入学共通テストの延期要請から、考えてみる” の続きを読む

グレータ・トゥンベリの国連演説への非難は的外れ

 昨年から気候変動への対応策があまりに不十分だとして、学校ストライキを始め、それが国際的に運動を引き起こしたグレータ・トゥンベリさんが、とうとう国連の会議に招待されて演説をした。彼女を招待した会議主催者に敬意を表したいし、それを評価する人たちが多いが、なかには、様々な批判をする人たちもいる。
 まずは、Foxニュースのコメンテーターだったマイケル・ノウルズ氏である。氏は、彼女のことを「精神的におかしい」と誹謗して批判が集中し、担当を解任されてしまった。さすがに、大きなメディアでここまで露骨に批判する人はほとんどいないが、ネット上の個人レベルの発信では、多数似たような非難がある。
 精神的におかしいという非難に対して、グレータ自身は、自分はアスペルガーであると公表し、アスペルガーであることで、逆に物事をあいまいにではなく、真正面からみて、それを素直に表現できるのだと返している。見事な切り返しだといえる。 “グレータ・トゥンベリの国連演説への非難は的外れ” の続きを読む

愛知トリエンナーレから考える2

 愛知トリエンナーレにおける「表現の不自由展 その後」の中止を検討する委員会が発足し、議事録が公開されている。準備の問題や運営の問題、そして、責任等について議論されているが、そうしたことは、様々に議論されているので、ここでは、別の点について考えたい。それは、慰安婦を描いたとされる「平和の少女像」を、批判する人たちが、それを見たことがあるのかという点である。おそらく、韓国やアメリカで実物をみたことがある人以外は、みたことがないに違いない。日本には、展示されていないはずだから。
 こうしたことは、実は少なくないように思われる。デンマークでムハンマドの風刺画事件が起きたとき、イスラム国家の多くで暴動や抗議デモが行われた。それを実際に現地に赴いて、抗議に参加したり、あるいは指導者にインタビューをするドキュメンタリーがあった。そして、インタビュアーは、彼らに、実際にその絵を見たことがあるのかと質問する。すると一人の例外もなく、「見たことはない」と答えるのである。そこで、実際に絵を見せる。もちろん、その絵は、当初からムハンマドの風刺をするという募集で寄せられたものだから、イスラム教徒が見れば不快感をもたらすことは、ごく当然のものであり、見た彼らは一様に批判していた。しかし、見ての批判と、見ないでする批判とは異なるはずである。 “愛知トリエンナーレから考える2” の続きを読む

小泉環境相のニューヨーク訪問 ステーキを毎日食べたいって?

 追加の記事なので、簡単に。どうしても必要だと思ったので。
 小泉環境相は、期待されているようだし、大きく取り上げられている。国連の会議出席のためにニューヨークを訪れたと、今日ニュースで報道していた。いろいろと勉強して、吸収したいと語っていたそうで、それはとてもよいのだが、気になるのは、ステーキを毎日でも食べたいと述べ、早速、ステーキ店を訪れて食べたというのである。
 おいおい、という風に思った人は、環境問題を真剣に考えている人だろう。
 現在の環境問題のもっとも大きな柱のひとつが、温暖化を抑えることである。そのために必要だとされていることはたくさんあるが、牛肉問題もその主要なひとつだ。 “小泉環境相のニューヨーク訪問 ステーキを毎日食べたいって?” の続きを読む

福島原発事故 東電幹部の無罪判決は日本の劣化を促進する

 今日(9月19日)、東京地裁で、福島原発事故を巡る判決がだされた。おそらくそうなるだろうとは思ったが、やはりそうかという感じだ。
 福島原発事故に関しては、検察が不起訴にしたので、検察審査会が実施され、そこで強制的な起訴に至ったものである。検察が起訴しないということ自体が、検察の堕落だとしかいいようがない。あれだけの大事故を起こし、近隣の人たちだけではなく、日本中の、そして、国際的な被害を与えたにもかかわらず、誰も刑事責任を負わないというのであれば、地位の高い人は、決して罰せられない、無責任な仕事をしても許されるという、社会全体の弛緩と頽廃を生むに違いない。
 争点は、事故が予見できたか、予見できたとして、回避可能だったかが争われたという。予見できたかというレベルの話ではなく、実際に、何年も前から、警告がなされ、実際に国会で質問もされていたのである。その都度、政府も東電も、そのような心配はない、対策はとらないと答弁していた。そして、実際警告が多方面からなされていたにもかかわらず、対策をとっていなかった。それは記録に残っている。 “福島原発事故 東電幹部の無罪判決は日本の劣化を促進する” の続きを読む

多文化主義は終焉したのか

 現在のヨーロッパでは、ポピュリズム政党が大きな力をもつようになっているが、その躍進のひとつの理由が、多文化教育に対するネガティブな感情である。移民受け入れの積極派であるドイツのメルケル首相が、以前「多文化主義は敗北した」と発言したことはよく知られている。少なくとも、多くのヨーロッパ諸国が、政策としての多文化主義教育をやめたことは間違いない。しかし、ことはそれほど簡単ではないようだ。
 多文化主義は様々な定義があるが、共通項を整理すれば、ふたつの要素から成り立つ。
 第一に、公用語以外の言語の尊重である。そして、第二に、マイノリティの文化の尊重である。
 19世紀は、ひとつの民族がひとつの国家をつくるという「国民国家」が成立し、そこで成立した国民国家は、現在多くが先進国としての地位を保持している。しかし、ひとつの民族によって構成されている国民国家といっても、実は少数民族や、国民国家が採用した公用語とは異なる言語を用いている人たちが、ほとんどの国民国家内部に存在した。特に、そうした存在が多かったのがオーストリー帝国である。 “多文化主義は終焉したのか” の続きを読む

NHKスクランブル放送化を考える

 N国党が当選者を出すことによって、NHKをめぐる状況が変わっていくだろう。通勤で使う駅で時々演説していたので、パンフももらったし、存在はよく知っていた。しかし、あまり賛成はできないと常々思っていたが、いよいよ現実的な課題になり、また、NHKのスクランブル放送化に関する世論調査も行われた。だいたい賛否が3割ずつで、拮抗しているらしい。政党では規制の主な政党はだいたい反対の姿勢なので、当分N国党の主張が通ることは、しばらくの間ないだろう。
 スクランブル放送とは、許可した者だけが視聴できる仕組みで、NHKの受信料を支払った者だけが視聴できるということだ。スカパーがそうだ。アナログ放送では不可能だが、現在のテレビ放送はすべてデジタル化しているので、技術的に可能になっている。私はデジタル化した理由が、スクランブル化のためだと思っていたので、もっと早く問題になるのかと思っていたが、これは私の判断ミスだった。しかし、技術的に可能なことは、必ず実行しようとする者が現れるし、大きな流れで見れば、実現の方向に進んでいくものだ。 “NHKスクランブル放送化を考える” の続きを読む