新学習指導要領で「鎖国」がなくなるというが

 いろいろなところで、新学習指導要領になると、当たり前のように教えられてきた「鎖国」が教えられなくなる、「鎖国」という言葉は消えると書かれている。何故、そう書かれたりするのか、私には、ちょっと理解できないでいる。
 念のため、平成29年に改訂され、平成32年(令和2年)から施行される中学校の学習指導要領には、以下のように書かれている。

 イ  江戸幕府の成立と対外関係  江戸幕府の成立と大名統制,身分制と農村の様子,鎖国などの幕府の 対外政策と対外関係などを基に,幕府と藩による支配が確立したことを 理解すること。

 「鎖国」という言葉は入っているし、付帯文書ともいうべき「解説」にも書かれている。これは、文科省のホームページで確認することができる。
 もちろん、「鎖国」ということの理解に、変化があることは確かである。特に影響があったと思われるのは、ロナルド・トビ氏が書いた小学館の歴史講座9の「鎖国という外交」という書物がある。私も読んだが、少々驚いた記憶がある。鎖国などしていなかったというのが趣旨といえるが、そのことに驚いたのではなく、日本の学校では、外国とのつきあいがまるでなかったかのように教えている、というような書き方がしてあったことに驚いたのである。私自身、はるか昔の学校で学んでいたころ、鎖国のときにも、オランダや清と貿易しており、朝鮮とは外交関係があったと習った記憶があるし、その後の教科書でも一貫してそのように書かれていた。そして、オランダ人がもたらす欧米の事情説明を、幕府は把握しており、医学書などは、蘭学者たちの間で知られていた。「解体新書」の翻訳の苦労なども教えられている。従って、トビ氏のいうような「誤解」を日本人がしているわけではないのになあ、というのが、トビ氏の著作の読後感である。
 この著作がどの程度影響したのかわからないし、歴史学の研究も進んだのは事実だろう。そして、「鎖国」という言葉を、政策を示す言葉として、日本人が使用していなかったことも事実である。長崎に滞在していたことがあるエンゲルベルト・ケンペルが書いた「日本誌」を翻訳した志筑忠雄が「造語」したものだという。翻訳は1801年というから、当然まだ江戸時代だ。だから、「鎖国」という言葉が、江戸時代に存在しなかったというのは、厳密には正しくない。ただ、江戸幕府が自ら「鎖国政策」を掲げたわけではない。
 近年の研究で、かなり活発な外国との交流があったという「事実」が強調されるようになってきた。しかし、では、日本は、「国を開いていた」といえるのか、という問題はどうなのだろう。
 通常鎖国政策として、学校で教えていることは、以下のことである。
1、ポルトガルやスペインの宣教師がキリスト教をもたらし、その教えに不安をいだいた秀吉や徳川政権が、キリスト教を次第に禁止し、過酷な弾圧を加えるようになった。キリスト教をもたらすヨーロッパ人を警戒した。それは、オランダ人に対しても同様であった。
2、ヨーロッパにおけるスペイン・ポルトガルとオランダ・イギリスの勢力関係が逆転し、オランダはスペイン勢力を排除した。
3、大名が貿易で力をつけることを嫌う幕府と、他のヨーロッパ諸国が日本と貿易することを嫌うオランダ(当時はヨーロッパ第一の世界帝国だった)の利害が一致し、独占貿易関係が築かれた。しかし、オランダ人は、出島に閉じ込められ、年一度の江戸参府以外は外出が厳重に制限されていた。
4、清や朝鮮との交流は維持された。
5、日本人が海外に出ること、海外に出た日本人が帰国することは、厳格に禁止された。
6、世界の情報を得ることは、オランダ人の年一度の報告書に限定され、それは一般には秘密にされた。ヨーロッパ文化は、医学書等のごく一部の分野のみ許可された。
7、上記以外の外国人が来航することも禁止し、実際にくるようになると、当初は武力で追い返した。(後には、次第に妥協的になっていき、結局開国せぜるをえなくなった。)

 以上のようなことが、学校で教えられる内容であり、これを「鎖国」と称している。もちろん、まとまった形で一気にだされたものでもなく、個別の政策がさまざまな時期に積み重ねられていったわけである。
 このような状況を踏まえて、江戸時代は、国を開いていた政策が基本であったのか、閉じていたのが基本だったのか。私は、歴史の専門家ではないが、基本は「閉じていた」のだと考えざるをえない。決定的に重要なのは、5と7である。日本人も外国人も、日本への出入国を厳重に制限していたことは、間違いなく、それは、基本的には、「鎖国」と呼ぶのがふさわしいと私は思っている。第二次対戦後も、アルバニアが鎖国政策をとっていたくらいだから、まだ近代以前は、程度の差はあれ、鎖国政策は、それほどめずらしいものではなかったといえるのではないだろうか。
 そうした国を閉ざした結果の評価をしっかりする必要がある。当然、閉ざすことがすべてマイナスではない。マルクスは、「資本論」で、幕府が鎖国をしたのは、欧米列強の植民地拡大政策から守る意味で、有益であったと評価しているが、とにかく、平和が続いたことは、鎖国政策のひとつの帰結といってよいだろう。
 しかし、経済的にも、文化的にも、そして政治的にも、内発的な発展があったが、それを抑圧するブレーキがかけられたことも事実である。そうして、開国せざるをえなくなったとき、不平等条約に代表される、著しく不利な状況を押しつけられたのは、さまざまな面での遅れが災いしたからだと考えざるをえない。海外との交流によって、国内の発展があり、明治維新につながったという研究もあるが、もし、国を開いて、自由な往来を実現していた場合に比べれば、圧倒的にそうした進歩は小さかったといわざるをえないだろう。鎖国を否定して、逆に活発な交流があった、だから、充分に発達していたのだ、などという評価になるとしたら、それこそ事実を見ないことになってしまうのではないか。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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