トロッコ問題再論

御田寺 圭氏の『「人を助けず、立ち去れ」が正解になる日本社会』という文章が掲載されている。(https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%ef%bd%a2人を助けず、立ち去れ%ef%bd%a3が正解になる日本社会/ar-AAJ4zMH?ocid=spartandhp#page=2)
 以前岩国市での特別授業で、子どもが不安になったというクレームで、教委が謝罪した件を批判的に扱った文章である。この文章の趣旨は、何か新しいことをやろうとすれば、不安はつきものであり、ごく少数の不安でも、不安を呼び起こすようなことをやるなというのでは、何も新しいことはできない。困っている人がいたら、助けるのではなく、逃げることだということになってしまうという批判である。
 しかし、これは、この問題を曲解している。前にこのブログでも書いたが、この岩国の授業は、新しいことをやろうとしたことで不安を呼び起こしたわけでもなく、そのことで批判されるべきものでもない。違う側面で批判される内容があった。
 御田寺氏のいうように、トロッコ問題は、古くからある有名なもので、倫理や正義の問題を考える材料として扱われている。そのためには、たくさんのバリエーションをあわせて提示する必要がある。サンデル氏が行ったように、同じ人が全く逆の選択をしてしまうという結果から、どうしてそういう違う判断が出てくるのか、その判断の基礎にあるものは何か、ということを考えさせるための素材である。そして、この材料を使って授業をするのは、それほどやさしくない。サンデル教授のように、豊富な知識をもち、様々な学説に対する批判意識が確立している者でないと、なかなかうまくいかないのである。私が大学で担当している授業で、この材料を使った、模擬授業を試みた学生がいる。ところが、3つくらいの事例を出したところで、さっぱり進行しなくなってしまった。最初の単純にポイントを切り換える場合と、太った人を落とす場合では、かならず多数派が逆転するのだが、その逆転の意味をきちんと理解するだけでも、かなりの知識が必要だ。
 岩国の授業の問題は、そもそも教材の意味を取り違えていて、さらに、きちんとした整理をしていないところにあった。つまり、報道されている限りでは、困ったときには、まわりに助けを求めることが必要だ、どうやって助けを求めることができるだろう、という授業課題が立てられていたという。その課題を考えるための素材がトロッコだった。しかし、誰が考えても、失踪するトロッコかあって、ポイントを切り換えるか否かを、瞬間的に決めなければいけない状況で、他人に助けを求めることなど不可能に決まっている。もちろん、他の事例もいくつかだしてのことだと思うが、結論を求めなかったとされている。しかし、どのような形で援助を求めるかと課題を提起すれば、いくつかの「こういう方法もある」「違う、こういうのもあるよ」と具体的な援助の求め方を提示することは、絶対に必要だろう。ひとつの正解があるわけではないのは当然だから、複数の可能な選択肢が回答になるはずである。それを示さないというのも問題だろう。
 5人死ぬか、1人死ぬか、どうやったら助けを求めることができるか、と問うて、決まった回答はないのよ、では、不安になる子どもがでてきてもおかしくない。不安になってしまう子どもが「必ず」でるような授業は、やはり、問題だろうということだ。
 教育委員会の問題としては、(学校の管理者の問題かも知れないが)心理が専門の人に倫理の問題での授業をさせたことも見逃せない。私が見る限り、心理学というのは、倫理問題から自由になることに重点を置いている。教育学は、価値論的な考察が不可欠だが、心理学は、価値論的考察をしないことによって、科学性を担保しようとする傾向が強い。だから、この授業が、「人を助けず、立ち去れ」と教えたわけでもない。御田寺氏の曲解といわざるをえない。 
 氏は次のように書く。

 「今回の事例でいえば「トロッコ問題」などという思考実験を授業中に提起さえしなければ、「問題」や「クレーム」が発生することもなかった。「物事の当事者になる」という選択肢を回避しさえすれば「責任」が問われるようなこともなかったのだ。たとえ大勢にとって有意義な学びの機会が提供できたとしても、ごく少数者が(「不安」を覚えて)犠牲になるのであれば、当然ながらその代償は発生する。場合によっては犠牲を出したことの責めを負うことになる。
 たとえ動機がどのようなものであれ「ただしいこと」を追求するのではなく、だれかから「ただしくない」と論難・非難されるリスクを回避することに全精力を投入せよ――それが「トロッコ問題」から考えるべき答えだ。」

 問題のたて方が間違っているので、こういう結論になる。もちろん、氏は、最終的にこの結論を提示しているわけではなく、「不安だから排除」ということが間違っており、おそらく、不安があっても大胆に提起していくことが重要だといいたいのだろう。しかし、正しく課題設定することによって、不要な不安を起こすことなく、思考が展開できるようにすることが、一番大事なわけである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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