21世紀になって、官庁の統廃合の結果として生まれた文部科学省。それまでは文部省と科学技術庁だったふたつが統合されてできたわけだが、文科省になってからの大学に対する指導、あるいは介入は次第に強まっている。かつて文部省tが、教育行政当局として積極的に関与していたのは、高校までであった。もちろん、大学政策はあったが、やはり大学の自治が尊重されていたといえる。しかし、2004年に国立大学が法人化されたころから、少しずつ大学への文科省の管理的介入が増えてくる。認証評価などが皮切りだっただろうか。今では、シラバスなど、形式的なことだが、本当に細かいことにも口出しをしてくる。そして、そうしたひとつとして、「学修成果の可視化」なる取り組みがある。
いくつかの大学の広報や推奨プログラムを見てみたが、首をひねるようなものばかりだ。とにかく、ある種の「形式」を押しつけて、これを実施せよ、しないと補助金を出さないというような「誘導」をしてくるわけである。
「学修成果の可視化」というのは、文字通り、学修成果が目に見えるようにするということだが、「学修」とは何か、「成果」とは何か、「可視化」はどうやって行うのか、等々が、極めてあいまいである。いろいろとウェブ上にある情報をみると、「学習」といわず「学修」というのは、授業で獲得する能力だけではなく、サークルやボランティア、アルバイト等、多様な場で学生は学んでいるので、そうした内容も可能な限り取り入れていくということらしい。それはそれで間違いではない。いくつかのカテゴリーを「学修」ということで設定するとしよう。次に「成果」とは何か。そもそも、「成果」は、それぞれの授業で固有の基準で出されているものであり、まして、サークルとか、ボランティアの成果などというと、明確に表現できるとも限らない。しかし、なんらかの基準を設定したとしよう。次に「可視化」の方法である。多くの事例では、学生のポートフォリオを継続的に作成させ、それを参照可能な形にするということらしい。
そこで、複雑にしてしまうとわかりにくいので、学修=授業、成果=成績、可視化=ポートフォリオということで、単純化して考えてみよう。授業の成果は、どの事例をみても、基本は成績である。しかし、成績は単純にAとかBの評価だけではなく、GPAや獲得単位数も使用する。大学によっては、単にAなどとつけるだけではなく、こまかいカテゴリーを設けて、小中学校の通知表のような科目ごとの個別の評価を設定していることもある。それをポートフォリオに、おそらく自動的に転記され、そして、学生は自分自身による学習記録を記入する。
ここまでみれば、誰でも感じるだろうが、では、そのポートフォリオを誰がみることができるのか。成績や取得単位数などが記入されたものを、他の学生がみられるようにするわけにはいかない。教員でも、誰でもオーケーということにはならないだろう。おそらく、学生は自分のものしかみることができないわけだ。すると可視化は、ある学生に関係する教員に対してのみということになる。
「可視化」は、もちろん、教育の質向上のための手段だから、それを使って質の改善に努めることが、教員に求められることになる。まずポートフォリオをみる必要がある。単位数が不足していたり、あるいは、単位はとっていても成績の悪い学生に対しては、個別指導が義務化されるだろう。ポートフォリオに教員として書き込んだり、あるいは面接をして指導をする。教員の負担は確実に増大する。しかし、そのことによって、教育の質が改善されるかどうか、私には大いに疑問である。なぜなら、教育の質を高めるためには、研究をしっかりと行い、授業科目にふさわしい充分な授業準備をすることが、何よりも大切だからだ。しかし、可視化に伴う事務量の増大は、確実に、こうした研究や授業準備の時間を減らしてしまうだろう。だから、おそらく、大半の教師は、形式的にはどうあれ、可視化以後の作業を一生懸命に行うとは考えられない。それを防ぐために、可視化作業を行っている教員の割合などをださせて、補助金に軽重をつけることを考えているらしい。
教員が熱心にやらなければ当然だが、やったとしても、これが教育の質を高めるとは、私には思われない。それは確信をもっていえる。その理由を述べる前に、私がやってきた教育活動の「可視化」を簡単に説明しておこう。というのは、私自身、可視化が大事だと思って、大学教師になってから、かなり早い時期から実践してきたからである。だが、その方法は、上に紹介したものとは全くことなる。教育の質を高めるという目的は同じである。
まず、私は、講義科目については、すべて教科書を自分で執筆した。最大8科目あったので、8種類の教科書になる。それをPDFファイルにして、ホームページに掲載して、ダウンロードして入手させている。無料だから、ほぼ全員が入手しているだろう。自分の講義用だから、内容としては学生に有用であると思われる。量的には、普通の大学の教科書と変わらない。次に、講義で使うパワーポイントのファイルもホームページに事前に掲載して、できるだけ授業前に読んでおくようにさせている。講義中はスクリーンに写すが、スマホやタブレットでみてもいいようにしているので、紙は配布しない。講義は、できるだけ録音して、そのデータファイルをホームページに掲載する。しかし、これは、すべてではない。とり忘れもある。
最後に提出物は、基本は毎週授業でえたことを元にして、更に調べて小レポートを書かせているが、それは全員が掲示板に投稿するようになっている。また、mediawikiを使ったウィキページに書かせる授業もある。
以上からわかるように、私の講義は、ほとんどすべてが「可視化」されているのである。そして、一番大事なポイントは、最後の「成果」をウェブ上に書かせることである。インターネットが使用できないときには、提出された「優秀レポート」だけを選んだものを製本して、学生に回覧させていた。そのときには、名前が書かれているので、当人の了承をとっていたが、けっこう多くの学生が読むために研究室にきていた。インターネットが使用可能になってからは、掲示板を利用してきたが、名前は書かないようになっているので、もちろん、学生間ではわかるが、一般には誰が書いたものかはわからない。
なぜ、そうした可視化、とくに成果の可視化をしているのか。それは、学生は、どういうレポートを書いたらいいのか、実はきちんと指導をされたことがほとんどないから、他の学生の文章を読んで、参考にしながら書き方を学んでいくように意図したのである。自分の成績がなぜ、そうなっているのかもわからないことも多いだろう。しかし、全員のレポートが読める状態になっていれば、自分がCであると、Aをとった学生のレポートを読んで比較すれば、自分の足りないこと、評価の高いレポートの実例をしることができる。そうすることによって、少しずつ、どのように書けば、高い評価がえられるのか、そして、最終的に優れた文章の書き方を掴んでいくことができると考えたわけだ。もちろん、学生には、この掲示板をそのような趣旨で設置していること、できるだけ、よい書き方を学ぶ材料としても利用することを、最初に説明する。
さて、このブログを読んでいる人は、どちらの可視化が、教育の質を高めるために有効性をもっていると判断されるだろうか。私は、もちろん自分のやっている方法が有効だと思っているが、もうひとつ、よい点がある。それは、教師が余計な事務量を課せられないということだ。教師にとっては、紙で提出されても、ウェブ上にあっても、評価する際の労力は変わらない。むしろ、自分の成績はなぜCなのか、なぜAでばないのか、というようなクレーム対応など、Aのレポートを示して、自分のものと比べてみなさい、といえば、まず納得する。他方、学生にとっては、さまざまなレポートを読むことで、勉強になるし、また、自分の欠点を知ることができる。こうしたことが、「可視化」の利点なのである。しかし、いま進んでいる「可視化」の方法では、学生は他のひとの成果を知ることができない。個々の学生の成果を知ることができるのは教員だけである。そして、更に、統計処理された「成果」もでるが、その時点になれば、もはや個別教育活動からは、無縁のものになるだろう。
私の所属する学部では、単位数の不足しがちな学生などへの対応はすでに実施しているから、こうした「可視化」を伴わなくても充分にできるのである。
文科省は、いいかげん、こうした形式的作業の押しつけが、大学教育をかえって阻害するということに、はやく気がつくべきだ。