教育実習生への叱責 「怒るべきとき」ってあるのか

 昨日18日の読売新聞に、「 他の教員らの前で「こんなことも出来ないのか」…教育実習の男性、抑うつ状態に」と題する記事が出ている。日頃教育実習生を送り出している側として、似たような事例に遭遇することがある。もちろん、大多数の実習生は、よいアドバイスを受けて、最初はうまくできない授業も、少しずつ自信がもてるように成長するものだ。しかし、たまに、指導の教員とうまくいかず、納得ができないまま帰ってくるものもいる。
 普通、優秀な教員が実習生を指導するものだろう。だから、自分なりのやり方をもっているし、つたない実習生の授業が歯がゆく感じる場合が多いはずである。しかし、なかには、自信過剰だからか、自分のやり方をむやみに押しつける指導の教員がいる。教え方は、多様性があるはずだから、実習生の考えも尊重しながら、指導してほしいと思うのだが。それはまだよい。一番送り出し側としてこまるのは、実習生がうまくできないことを、子どもたちの前であげつらったり、あるいは、途中で授業を取り上げて、自分で始めてしまう教員がいることである。
 こんな事例があった。指導の教員は、ある特別な指導法をとっている教育団体の熱心な会員で、確かに、子どもの指導は上手だが、それ以外のやり方を認めない。しかし、その教育方法には、批判もかなりあり、その教員についた学生は、もともとその方法には、疑問が強かった。自分なりのいいと思う手法をもっている学生の場合であれば、一般的なやり方に合わせることは、それほど難しくない。たとえ、自分のやり方のほうが優れていると思っていても。しかし、こうしなさいと言われた方法が、特殊な方法で、世間的に少なくない批判があり、普段から自分も疑問に思っている場合には、その方法に合わせて授業をすることは、納得できなくても仕方ないように思う。結果として、その学生は、授業をほとんどやらせてもらえなくなり、課題が継続するわけではない「道徳」を少しだけやらせてもらって実習を終えた。
 実習中は、自分で授業ができないので、指導の教員の授業を見学するように指導され、指導の教員は、その学生の授業より、自分の授業がいいだろう、というようなことを、子どもたちに語っていたというのである。実習生の授業より、担任の教員の授業がうまいのは当たり前のことだ。こういう事例は、多いとは思わない。しかし、たまにあることは間違いないし、私の大学の実習生が、そうした体験をしたことも事実である。
 読売の記事では、一端社会に出た男性が、教師になるために、有給休暇をとって、教育実習に出たという。そして実習のときに、他の教員の前で、「こんなこともできないのか」と叱責され、無視されることが度々だったという。男性は、不眠や湿疹に悩まされ、抑鬱状態と診断されたと記事に書かれている。仕事を2週間も休むことになったので、会社が問い合わせたに違いない。「 学校側は取材に「言い回しや接し方の詳細はわからないが指導役の教諭らに聞き取ったところ、現時点ではパワハラがあったとは認められない」と説明。市教委が男性と学校側の聞き取りを始めた。」とのことだが、私には、パワハラであるように思われる。しかも、教員たちの面前で叱責しているのだから、学校が把握していないはずはない。
 もちろん、実習生もいろいろいるから、実習生に自覚が足りないために、どなりつけたくなることがあるのは理解できる。しかし、未熟だから実習をするのであって、教師としての活動がなんとかこなせるなら、実習など必要ない。それをできるように指導するのか、先輩である担当教員の役割だ。教師たちの前で、叱責するその教師と実習生の間をとりもって、うまく治める教師はいなかったのだろうか。
 話題となっている神戸市の4人の先輩教師による対教師いじめ(ある部分は犯罪というべき内容だが)の気分と、同質なのだろうと思う。教師は常に、極めて弱い、自分とは圧倒的に能力差のある存在を相手にしていて、子どもたちを動かしているから、人を動かすことに、歪んだ陶酔感をもってしまう危険がある。子どもたちも、それが指導力だと思って、「いい先生、力のある先生」と勘違いするかも知れない。神戸の教師たちが、子どもに人気があると考えられていたのは、そうした構造なのではないか。
 意識構造を変えていくには、どうしたらいいのだろうか。
 逆に、実習生の側から考えてみる。毎年、実習を終えた学生から、報告をしてもらう。以前は、特別に集合させていたが、現在は、「教職実践演習」という必修科目が4年生の後期にあるので、その時間を利用している。いろいろな話がでてくるが、毎年出てくるのが、「怒ることができなかった」という反省である。これは、怒るべきときはしっかり怒り、褒めるときには、たくさん褒めてやる、これが重要だ、という思いを、学校の教師や、教師を目指す学生たちはもっている。しかし、人間は、怒られて、自分の行動をかえることはできるのだろうか。一時的に、怒られないために、抑制することはできるし、するだろう。だが、それは、そういう行動をとってしまうような性向をなおすことにはならない。ごく一部の人は、しっかり反省して改めるかも知れないが、多くの者は、叱責に対しては、運が悪かったとか、みつからないときにやろうとか、自分にいいわけするような気分になるのではなかろうか。
 大人でも、例えば、鼠取りにあって、速度違反をとられたり、あるいは、たまたま一時停止をしなかったところ、警察が監視していて、つかまったりというとき、今後しっかり交通規則を守ろうと反省して、それを実行する人は、少数のはずである。
 「怒るべきとき」というのが、絶対にないとまで断定する気はないが、学校という機関で、怒ったから教育効果があるということは、極めて稀であると、私は考えている。改めなければならない行為をする子どもがいたら、やはり、じっくり一緒に考えながら、どうしてそうした行動をとってしまうのか、その結果どうなっているか、その結果はいいことか、悪いことか、悪いとしたら、そういう行為をしてしまいそうになったら、どのように、自分を抑えたらいいのか、等々を時間をかけて答を見つけていく以外に、有効な方法があるとは思えない。
 教師たちの面前で叱責した実習指導教員は、よく解釈して、怒ることで改善させられる、と思っているのかも知れない。だが、叱責して、「こんなこと」ができるようになるはずがない。やり方を合理的に説明してあげることによって、できるようになるのだ。あまりにも当たり前のことだが。
 教師は、「怒るべきとき」など、存在しないのだ、と考えをまず転換させるべきではないか。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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