流山のいじめ放置

 昨日から、メディアを賑わせている「流山いじめ放置事件」とでもいう事態について、触れないわけにはいかない。私自身、流山の住民だから。まだ、詳細はわからないが、流山市の小学校で、6年生が酷いいじめを受けた。犯罪ともいえるようなこともあったらしい。学校への対応を保護者は求めたが、適切な措置はとられず、重大事態として届ける義務がある欠席30日以上に該当したにもかかわらず、届出をせず、事実と異なる23日欠席という記録にしていた。卒業して、中学に進学してもいじめは継続し、自殺を考えたほど深刻な状況が継続していた。市のいじめ問題を調査する専門家会議の責任者であった千葉大学の藤川教授が、申し入れをして初めて、重大事態と認めたが、それでも第三者委員会を開かず放置したために、藤川教授が記者会見を開いて明らかにしたという経緯のようだ。
 学校の詳細、教育委員会の扱いの詳細については、まだ明らかになっていないので、住民として、普段感じていることをふくめて、この問題について考えてみたい。
 まず第一に、流山の教育が荒れていくであろうことは、数年前から予想していたことであり、早くもそれが健在化したという印象である。では何故、これから荒れていくと予想せざるをえなかったのか。それは、流山の市政が間違った方向をとっていることである。今の日本は、人口減少社会であり、人手不足社会である。人口減少という社会的現実を踏まえた、冷静な施策をとられなければならないところを、流山市は、人口増政策をとっており、急激な開発が実施されている。私が住んでいるところから、遠くないところにあった広大な田んぼの地域が、半分が流通センターに変化しつつある。市長が企業誘致の政策をとっており、「1万人以上の雇用を創出します」と語っていたのを、直接聞いたことがある。これほど深刻な人手不足の社会で、雇用創出に邁進するという認識なのである。また、ツクバエクスプレスの駅周辺でも開発が進行し、大小のマンションがどんどん建設されている。そして、「子育てのしやすい流山」をキャッチフレーズにして、どんどん若い夫婦を呼び込んでいる。保育政策が充実していると宣伝しているが、実態はかなりお寒い状況である。そして、マンション建設地域の学校は、異常なパンク状態になっている。ひとつ小中併設の学校ができたが、信じられないくらい大きな学校で、文科省の学級数標準を何倍も越えてしまっている。従って、今後も学校を増設しなければならない。学校は設置義務があるから、予算がそちらにとられて、乳児、幼児の施設のためには、宣伝ほどに予算がまわらないと思われる。
 流山の教育が荒れていくと考えざるをえないのは、この異常な大規模学校や、マンション群近郊の学校の過密ぶりである。子どもの数が急速に増えて、学校があふれる状態になれば、教師たちの充分な対応が難しくなることは、目に見えている。そして、新設校は通常、比較的優秀とされる教師が集められる。しかも、当初から異様に大きな学校だから、集められた教師の数も多い。その分、近隣の学校からは、優秀とされる教師が引き抜かれるわけである。このことによって、近隣校においても、また、新設の大規模校においても、荒れる条件が生まれる。教育委員会も、こうした子どもの急速な増大に対応しなければならないから、そうした荒れ(いじめはその中心)に対応する余裕を失っていることは、充分に考えられる。
 しかし、流山特有の問題だけに帰すのは、間違っている。2019年10月18日の東京新聞によれば、いじめ「重大事態」は最多になり、前年より27%も増えている。いじめ、不登校は全国的に確実に増えているのである。もちろん、その理由は、複合的なものであって、ひとつふたつの原因に限定することはできないだろう。ただし、やはり、重要な原因、解決しなければならない原因は考えられる。
 私は度々指摘しているので、繰り返しになるが、ひとつは、教師の過重労働であり、教師への管理体制の強化である。教師による教師へのいじめ事件が連日報道されているが、現在の過重労働と管理体制が続く限り、この手の事件はもっと増えていくだろう。もちろん、加害者の人間性が問題なのだが、引き金をひきやすくする「環境」は無視できない。今のような過重労働が続く限り、子どもの問題に、充分対応できない教師が出てくるのは、無理からぬところだ。それから、もうひとつの背景的原因は、「いじめ防止対策推進法」そのものである。この法律ができたときから、この法律が施行されれば、いじめはかえって増えると主張してきた。何故かは、さんざん書いてきたので、ここでは省略する。以上が第二。
 第三に、こうした問題が起きると必ず出てくる「教育委員会」のだらしなさについてである。これも、ごく自然だと思っている。教育委員会は、そういう組織なのだ。最近は、まったく問題にもならないが、教育委員会は、第二次大戦後の教育改革のなかで、アメリカの制度を日本に導入したものである。しかし、実際には、似て非なるものだった。アメリカの教育委員会は、教育を管轄する「学区」に置かれ、財政基盤をもち、決定権をもった公選の組織である。しかし、日本には、「学区」は存在せず、一般行政区に置かれ、財政基盤をもっていなかったし、従って、充分な決定権ももっていなかった。それでも、議会への予算提出権や予算執行の優先権をもっていたが、それが逆に一般行政側から攻撃され、公選ではなく任命制になり、予算提出権も予算執行の優先権も剥奪された、まったく別の組織となって、今日に至っている。更に、現在では、以前教育委員のなかから、委員長が選出されたが、現在では、行政側から出る教育長が兼務することになっている。ある役職をもった人間は、自分を選んだ人のために仕事をするものだ。だから、現在の教育委員会は、委員を任命する首長の意向にそって仕事をしているのである。事務機構としての教育委員会は、いうまでもない。そういう教育委員会が、子どもが困っているときに、何よりも住民や子どもの側にたって、問題解決に努力するというのは、人々が考えるほど、当たり前のことではないのである。首長が、人口増加をめざし、大規模な企業誘致政策をとり、学校が過密状態になって、とにかく、過密解消を優先しなければならない、そういう状況では尚更のことなのだ。
 こうした大きな背景は、直ぐにかえることはできないのだから、藤川教授のような告発が大きな意味をもつのだが、背景そのものの改革もやはり必要だろう。教育委員会については、公選が不可欠である。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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