「国際社会論」で、国際人権を考える例として、慰安婦問題を扱うことにしたので、いろいろと読み直したり、まだ読んでいない本を読んだりしている。「国際人権」を一回取り上げることにしているが、毎年具体的対象を変えて考えており、今年度が最後なので、「主戦場」をみたこともあり、史上最悪の日韓関係と言われる要因のひとつである「慰安婦」を取り上げようと思った。しかし、調べれば調べるほど、また考えれば考えるほど、難しい問題だ。単なる「歴史」問題、人権問題ではなく、政治、情報戦争でもある。そして、完全に対立し、冷静な議論ができない状況でもある。対立の双方の意見を丁寧にインタビューして、交互の見解を提示する形の映画を作成したら、一方から提訴がなされてしまう。下手に意見表明もできないような雰囲気もある。
このふたつの本は、慰安婦問題の双方の立場を代表するもののひとつであろう。そして、それぞれが、重要だと位置づけている「一次資料」を豊富に使って書いているのだが、その一次資料が全く異なる。吉見氏は、研究書と日本軍が残して、廃棄を免れた記録を主な素材として使っている。日本軍や日本政府は、敗戦を受け入れてから、不都合な資料をどんどん焼却処分にしていったが、すべてを廃棄することはできなかった。吉見氏が軍の資料として使用したものは、氏によれば、米軍が接収したあとに返還され、防衛庁(当時)に保管されていたものから、氏が見いだしたものである。それに対して、本間氏が使用している主要な材料は、戦時中の朝日や毎日がだした報道である。まずここに、両者の大きな姿勢の相違が表れている。信頼できる資料は、完全に吉見氏の使用したものである。本間氏の姿勢は、この資料の選択によく示されている。
本間氏の基本姿勢は、慰安婦問題の唯一の争点は、日本軍が慰安婦を強制連行したか否かだとするものだ。この唯一争点は、肯定しがたいが、重要な争点であることは間違いない。しかし、日本軍は強制連行していない、つまり、軍の関わりという点で、日本軍に責められる点はないのだ、という立場なのだから、それを一番証明できるのは、日本軍の書き残した書類のはずである。しかし、本間氏は、それはほとんど使っていない。そして、当時の朝日や毎日新聞を使用しながら、いかに、女子挺身隊が生き生きと頑張っていたか、現地の慰安婦も楽しく生活していたかを、当時の記事や掲載されている写真を使って、これでもかというほどたくさんの情報を紹介している。しかし、周知のように、当時の新聞は、完全に日本軍の宣伝機関であって、実は負けているのに、勝利に継ぐ勝利だなどという雰囲気で報道していたのであり、慰安婦を報道しても、酷い状況に置かれていたことを、たとえあったとしても、それを報道するはずがないのである。そういうことは、誰でも知っていることだろう。この点で、本間氏の主張は、資料採用ということから、妥当性を疑わざるをえない。慰安婦は軍とともに行動したのだから、その実態を知るには、軍の資料が不可欠であることはいうまでもない。その点で、採用資料の点からは、吉見氏の叙述に信頼性がある。
慰安婦を扱った本だから、当然、共通の話題がいくつか出てくる。そのなかで、慰安婦だった文玉珠を双方が扱っているのだが、これも全く違う内容になっている。吉見氏は、韓国の慰安婦だった人に、直接インタビューしたと書かれているが、おそらく文玉珠に会ってはいないと思われる。彼女は1996年に亡くなっているので、1990年代になってから調査を始めた吉見氏が会うことはできたろうが、氏の記述からみて、直接ではないと思われる。もちろん、本間氏は会っていないだろう。全文は、まだ読んでいないのだが、(抄録はウェブ上に多数ある)森川万智子氏がインタビュー構成した「文玉珠 ビルマ戦線楯師団の慰安婦だった私」という本があるので、双方がこれを元にしていると思われる。しかし、その記述は全く異なっている。きっかけとなったことも違う。吉見氏は、軍服を着た日本人が近寄ってきて、何か日本語でいったあと、引っ張られて、憲兵隊と思われることろに連れて行かれた、と書いている。ところが、本間氏は、「食堂の仕事」という募集広告に応募したら、ビルマの慰安所に連れて行かれた、だまされたのだ、となっている。ウィキペディアの年表には、一回目は騙されたが、一端朝鮮に帰国したあと、今度はお金を稼ごうと思って慰安婦に応募したとされている。従って、ともに強調したいことがでている回だけ書いたと解釈できる。大きく異なるのは、それからの記述だ。本間氏は、慰安婦としてお金をたくさん稼ぎ、贅沢もして、いかにも楽しく過ごしたと、当時のアサヒグラフなどの写真を挿入しながら、綴っていく。そして、いろいろな人が話題にしていることだが、2万円もの貯金をして、5000円を家族に送金した、そして、それは偶然残っていた貯金通帳で確認できると、通帳の写真を出している。よい暮しをして、戦後も裕福になったかのような印象を与えている。
吉見氏は、2万円の貯金や5000円の送金という事実を提示しながら、しかし、戦後その預金を引き出すことはできなかったと書いているだけである。戦前の2万はかなりの高額である。財産ともいえるだろう。しかし、これは他の何人かがウェブ上で指摘しているように、ビルマの占領地でのことだから、円の現金ではなく、軍票での支払いであろう。5000円を国内に直接送金することはできなかったそうなので、軍票をそのまま送ったのではないかと推測されている。もちろん、ビルマで発行された軍票を半島や日本国内で使用できるはずがない。そして、戦後のハイパーインフレを恐れて、政府は戦後直ちに預金の引き下ろしを不可にしてしまい、再び可能になったときには、円の切り換えが行われていて、貨幣価値はほとんどなくなってしまった。
彼女は、おそらく将校相手の慰安婦だったので、確かに現地では羽振りがよかったのかも知れない。そして、二度目は自分で慰安婦に応募したというのだから、そのなかで積極的に生きていたのだろう。しかし、将校以外の兵卒を相手にしていた大多数の慰安婦の生活は、もっとずっと悲惨なものだったに違いない。
この事例でも、多くの慰安婦の状況を伝えているのは、吉見氏のほうだと思わざるをえない。