大学の授業で出欠をとることは

 10月15日のAERAdotに「他人の得が許せない人々が増加中、心に潜む苦しみを読み解く」という文章が出ている。文字通り「他人の得」に対する怒りの感情の事例がいくつか出ている。
(1)定食で飯のおかわり自由にクレームが出た。おかわりしない客からみると「不公平だ」という。
(2)れいわ新撰組で当選した車椅子議員のために国会が改修されたことに、「自己負担でやるべき」という意見がネットで流れた。
(3)出席せずに単位をとるのはずるいから、出席をとってくれと要求する学生
(4)レッドカーペットを歩くアンジェリーナ・ジョリーのサインをもらうために、子どもを近づけた女性に反感を抱く女性
(5)早く結婚したのに子どもが生まれない女性が、自分より早く出産した女性を許せないと感じる
(6)若い人はどこでも就職できるけど、40代の自分はどこにも転職できない、と若い職場の同僚をいじめる女性
 この事例の間に、心理学者や宗教家のコメントが入るのだが、それはこの際取り上げないでおく。正直常識的なコメントに過ぎない。この文章を読んで、ブログを書いてみようと思ったのは、(3)に関してである。私にもこうした経験があるが、いくつか気になった。
 まず、(3)のように、「出席とってくれ」という要求に対して、ここで登場する准教授は、「最近の学生の傾向だろうか、授業にはほとんどの学生が出席していた」、だから、出欠をとって、全員に加点しても意味がないというので、必要に応じて、理解度を試す「レスポンス・ペーパー」を配って、内容に応じて加点するという提案をしたら、「それはやめてほしい」と言われたというのである。准教授は、それは「出来のよい学生に有利だから、いやだ」といっているのだろうと解釈している。それでよく聞くと「授業に出てこないのに、テストでよい点をとって、いい成績を取る子がいるんです。ずるくないですか?」と言われて体中の力が抜ける思いがしたという。
 以上が(3)の内容である。
 私は30数年間、大学で講義をしているが、最初の3分の2くらいまでは、出席をほとんど取らなかっただけではなく、講義のほとんどを1時間目に設定していた。だから、熱心ではない学生は、やはり出てこなくなるので、段々減っていったことは事実だし、それでいいと思っていた。それでも半分くらいは出席していたような気がする。「ある先生は、出席をとるんだけど、返事をすると、ぞろぞろ出ていってしまうんですよ」などと話してくれる学生もいたから、出欠をとらない一時間目の授業にしては、いいだろうと思っていたし、また、出席する学生は非常に熱心だった。「ぞろぞろ出ていってしまう」というのも、本当だろうかと、疑問には思ったが。
 そういうなかで、出欠をとってほしいと言ってくる学生が、たまにいたことは確かだ。不公平だという言い方よりは、自分たちはまじめに出席しているのだから、それを評価してほしいという理由を述べることが多かった。記事の准教授は、出欠をとってくれと言われて、「あきれかえるしかありませんでしたよ。・・・」ということだが、別にあきれたことはない。そして、もちろん、とりあえず応対はしていた。「まじめに勉強しているんなら、それをレポートに反映させればいいのではないか。授業に出ても寝ている学生がいるし、また、授業にでないけど、図書館で一生懸命勉強している学生がいるかも知れない。要は、授業で学ぶべきことが、どれだけ達成されたかを示せばいいので、あなたが、しっかり勉強しているなら、それでいいではないか」と返していたと思う。それに、授業の開始の際に、出欠に関しては、上に書いたように説明しているので、とってくれという学生は、ごくたまにしかいなかった。
 ただ、残りの3分の1は、形式的に出欠をとる授業をいくつかするようになった。そのきっかけは、ゼミの学生が、「出欠をとらないのは、先生くらいですよ」といったことがきっかけだった。ゼミの学生だから、既に私の講義などは、履修済みだから、自分のこととしてではなく、私も出欠をとったほうがいいという忠告をしてくれたわけである。ゼミの学生の忠告だから、受けとめておこうと思ったわけだ。しかし、名前を呼んだり、カードに書かせるという普通のやり方ではなく、名簿を置いて、自分でチェックする方法をとった。そして、出欠で成績を左右することはないし、欠席が多いから単位をあげないということもないと断っておいた。にもかかわらず、確かに、出欠を形式的にでもとると、出席率が高くなることは間違いない。正直、情けないと思う。
 そこで考えてみよう。大学の授業は、出席しないといけないという制度が適切なのだろうか。近年、文部科学省の大学へのさまざまな「締めつけ」が厳しくなっている。そのひとつが、出席管理の厳格化である。そのうち、授業で出欠を正確にとることが義務となるような気がするほどだ。現在は義務ではない。大人数の講義できちんと出欠をとるのは、大きな負担である。名前を呼べば時間がかかり、授業時間が削られるし、名前を書かせてあとで記入するには、けっこう労力がいる。そうしたマイナス面をなくす手法がとられない限り、義務とするのは強い反対があるはずである。スマホや学生証を利用して、自動的に記入されるようなシステムが、全教室に導入されて、義務化される日がくるかも知れない。現在でも技術的には可能だが、コストの面で、全面的に実施している大学は少ないと思われる。
 そういうことを実施するのは、私は、本来の大学での学びを低下させるのではないかと思っている。私の大学では、新入生に対して、かならず、「大学は高校までと違って、極めて自由な場である。」とオリエンテーションをする。大学が本当の意味で、自由な学びが保障されていることは、極めて重要だと思う。人が本当に学ぶのは、自分の意志で学ぶときである。必修科目だから、履修しなければならないが、この講義を受けるよりは、図書館でたくさん本を読んだほうが効果的に学べると思ったら、それを可能にするほうが、学生はよく学ぶのではないか。もちろん、単にさぼってしまう学生がいるだろう。そういう学生は、単位をとれないようにすればいいだけのことだ。要は、しっかり勉強することだ。課題をたくさん出すとか、厳しい試験を実施するとか、実質的に学生が勉強するように仕向けることは可能だし、それこそが大事なはずだ。出席しても寝ている学生がいることは、ほとんどの大学の講義(実技・実習などは違うだろうが)で普通のことに違いない。 
 教師側の努力の問題でもある。出欠をとることで出席を義務づけるのではなく、講義の魅力によって、出席を促すという姿勢を失いたくないものだ。(他人の得を納得しない心理について、AERAはいろいろ書いているが、その点については、次回に。)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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