もうひとつのベートーヴェンへの疑問が、オーケストレーションが下手だというものだ。あまり詳しく書かれていなかったので推測にすぎないが、この方は、ラベルとかマーラーなどを念頭において、ベートーヴェンのオーケストラ曲が、色彩感が乏しいと思っているのではないだろうか。しかし、ラベルやマーラーを基準にべートーヴェンを批判するのは、いかにも当時の状況を無視している。ラベルの時代には、楽器改良がほぼ完成し、更に奏者の技量もあがった。音楽学校が整備されてきたことも影響している。オーケストラの編成も大きくなり、華麗な響きだけではなく、さまざまな多様な音色を高い技巧で表現できるようになっていた。更にマーラーは、優れた指揮者だったから、自分のオケで試しの演奏をして、そのあとで修正することが充分に可能だった。
では、ベートーヴェン時代の考慮すべき事情とは何か。
第一に、ベートーヴェンの時代には、貴族のお抱えオーケストラ以外には、プロの常設コンサートオーケストラは存在しなかった。貴族のお抱えオケでは、ベートーヴェンの交響曲などは演奏できなかっただろう。ハイドンの交響曲を念頭におけばわかる。だから、ベートーヴェンは、自分の交響曲を演奏するときには、知人友人を集めて臨時のオーケストラを編成した。当然、現代のオーケトスラのようにはいかなかったはずだし、また自分の理想的な演奏ともならなかったに違いない。しかし、それでも、当時の時代性を超えたオーケストレーションを実現していたと思う。
古典派の作曲家のなかで、最もオーケストレーションが優れていたのは、もちろんモーツァルトである。モーツァルトは、どんな楽器編成であっても、個々の楽器の性能を最大限に引き出し、かつ、その楽器を演奏する人の技量にあわせて最適な作曲をした。モーツァルトは注文作曲家であったために、実に多様な楽器編成で曲を作っているが、それにあわせて効果を引き出すテクニックは本当にすごいものがある。例えば、交響曲40番には、クラリネットがあるバージョンとないバージョンが存在するが、どちらで聴いても、少しも不自然さがない。ふたつのバージョンがあるのは、クラリネット奏者のいる楽団と、ない楽団がそれぞれ演奏したということだが、どちらを聴いても、これこそ最適の編成だと思ったに違いない。
ベートーヴェンは、モーツァルトとは全く違う意識で作曲をしたといえる。注文主の依頼にぴったり合わせて曲を作ることを常に追求したモーツァルトに対して、ベートーヴェンは、自分のつくりたいように曲をつくり、それを表現するのに最適に楽器編成を構想した。それは大きな効果をあげている。(実例は下記に)
第二に、ベートーヴェンの時代は、楽器が改良されていく途上にあったことが考慮される必要がある。弦楽器は、既に現在のものとほぼ変わりはないが、管楽器は、ベートーヴェン以降、大きく改善されている。音程がより正確に出せるようになり、音域も広がった楽器が多い。その一例がフルートだ。ベートーヴェンの時代のフルートは、高いラまでしかでなかった。第九には、シラソファミレと高い音域で下がってくるが、フルートだけは、最初のシがオクターブ低く書かれている箇所がいくつかある。他の楽器は単純におりてくるから、これは、フルートの音域による仕方ない措置といえる。また、ティンパニは、現在では12の音をきちんと区分して出すことができるが、ベートーヴェンの時代には、出せる音が限られていた。だから、ベートーヴェンの書いた楽譜通りにティンパニが演奏すると、和声がかなり崩れてしまうとされる。あえてそうしたと考えることもできないわけではないが、やはり、楽器の制約によって、そうせざるをえなかったというのが事実だろう。
そういう制約のなかでの作曲であるにもかかわらず、ベートーヴェンのオーケストレーションの見事さは、いくつも示すことができるが、ひとつだけ「田園交響曲」の嵐の描写をあげておこう。嵐の音楽は、たくさんの作曲家が書いており、作曲技術が端的に示されると考えている。有名なものとしては、ヴィバルディの「四季」、ロッシーニの「ウィリアムテル序曲」、リストの「前奏曲」などがあり、先日の私の所属オケの演奏会でとりあげた「ルーマニアの詩」にも嵐の部分があった。これらの曲を比較して聴けば、ほとんとの人は、ベートーヴェンの嵐の描写の見事さに軍配をあげるだろう。どの嵐の音楽も、最初に嵐が近づいてくる不気味さ、生暖かい風が吹いている感じがあって、それから、ドーンと嵐がやってくる。そして、風雨が暴れ回る様が描写され、やがて静かになっていくという経過が音で示されるのだが、どれをとっても、「田園」のリアルさが光っている。ディズニーのアニメ「ファンタジア」では、「田園」の嵐が使われ、馬たちが逃げまどう姿が描かれるが、嵐の音楽として、ベートーヴェンを選んだディズニーの選択は、ごく自然に理解できるだろう。