都響の「千人交響曲」を聴いて

 昨日都響の定期演奏会にでかけた。曲目は、マーラーの交響曲第8番、いわゆる「千人交響曲」だった。もちろん、生で聴くのははじめてであり、今後もおそらく聴く機会はないだろう。ぜひ聴きたいとも正直思わなかった。私は、50年以上のマーラーファンだが、8番と7番はどうしても、あまり聴く気がおきない。聴きだしてもたいてい飽きてしまうのだ。8番は、マーラーの生涯のなかで、最高の称賛をえたものだとされるが、それがどの程度音楽に対してであったかは、疑問だ。というのは、初演は万国博覧会での催しの一環として行われ、実際に、演奏人数が千人を超えたというのだし、その人数でのあの圧倒的な迫力だから、聴衆たちは度肝をぬかれたに違いない。そして、拍手喝采を送ったのは、ごく自然のように思われる。マーラー自身は、とても自信があったようだし、万博での初演だから、要人たちもたくさん参列していたようだ。だから、初演成功となったのだろうが、しかし、当然ともいえるか、滅多に演奏されない曲になった。なんといっても、あまりに必要演奏人数が多すぎる。どんなに豊かな経済基盤をもったオーケストラでも、めったなことでは演奏するわけにはいかないだろう。曲の存在は有名だとしても、実際に接する機会が少ないのでは、ポピュラーにはなりにくい。 “都響の「千人交響曲」を聴いて” の続きを読む

ウクライナ戦争に少し光がみえてきた

 イランや中国の混乱が起きているなか、あまり注目されなくなっているが、ウクライナの戦争が動き始めたような感じである。今後どうなるかはわからないが、現時点では、ウクライナの要請によって、アメリカというかイーロン・マスクがスターリンクをロシア側に対して使用不可能の措置をとり、それによって、ロシア軍の統制が乱れ、そのすきをついて、ウクライナ軍が攻勢をかけている。そして、もっとも困難であった南部戦線も動きがでていて、ロシア軍が退いている。ウクライナは、ここぞと畳みかけたいところだろう。大きな混乱がおきれば、ロシア軍は、大きく崩れる可能性もあるだろう。日本が兵器以外の援助をより強化することを決めたことは、必要なことだろう。

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天皇制というシステムの継承を考える

 昨年くらいから、特に今年になって、天皇制というシステムの運用に関して、大きな変化が感じられる。ひとつは、これまで大手メディアが持ち上げてきた秋篠宮家を批判的に扱うSNSが活発になったこと、それに対応するように、天皇家、特に愛子内親王を持ち上げる動向が顕著になっていることである。現在の皇室典範の規定によれば、男系男子によって皇位が継承されるから、今上天皇が亡くなれば秋篠宮に皇位が移ることになる。しかし、いかなる報道規制をしても、現在のネットの発展を考えれば、実情を隠すことはできないのは明らかだから、秋篠宮、あるいは悠仁親王が天皇という日本国の象徴の役割を担う力量があるとは、とうてい思えない事実を考慮すれば、システムの自壊がおきると予想される。私は、天皇制というシステムを維持すべきであるという見解ではないので、そうなってもいっこうに構わない。というより、もっと積極的になれば、そうなったほうがいいかも知れない。しかし、社会の安定をもたらすシステムとして、正常に機能するのであれば、あってもよいという程度には支持している。ただし、秋篠宮や悠仁親王に、「正常に機能」する天皇を期待するのは無理というものだろう。それは、冷静にみている人にとっては、自明のことである。

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ピアニスト角野隼斗氏をめぐる議論について

 今、ネット上で、クラシック音楽界ではめずらしい「騒動」が起きている。最初に知ったのは、Windows Edge を開くと出てくる記事のなかでだった。そのときブログで書こうと思ったのだが、書かなかった。数日後、あちこちで議論が沸騰していることを知った。全部をフォローしているわけではないし、また、議論の全体像を知りたいとも思っていないので、これまで読んだなかで知ったいくつかの論点について考えてみたい。論点は
・来日する北欧の名門オーケストラであるヘルシンキ・フィルの独奏者となっている角野隼斗氏が客寄せパンダのようになっている。
・角野氏に関しては、オッカケの集団が異様に多く、通常のルートではチケットが入手できないことがほとんどで、彼の「音楽」「演奏」を聴きたいのではないのではないか。
・ヘルシンキ・フィル来日の宣伝文に、指揮者の名前が入っていないのはおかしい。
・角野氏は、もっとオーソドックスなクラシックの演奏家としての活動をやるべきではないか。 “ピアニスト角野隼斗氏をめぐる議論について” の続きを読む

ヒューマノイド・ロボット「モヤ」

 最近の中国におけるロボット開発の進んでいることには驚くが、「モヤMoya」というヒューマノイド・ロボットの記事があったので、映像を探して、いくつかみてみた。日本はロボット先進国などといっている人が多いが、こうした映像をみると、日本が進んでいるようにはとうてい思えないのだ。
 モヤというのは、女性で165センチのロボットだ。まず驚くのが、歩き方の自然さだ。まるでモデルのように歩く。そして、さまざまな表情をする。もちろん、まだ人間とまったく同じというわけにはいかないが、それでも、微笑んだりするのは、たしかに、微笑みと受けとれる。教師役とか、いろいろな仕事に活用できると想定しているようだが、こうしたヒューマノイド・ロボットが自然な人間と同じようなことができるのだとしたら、どのような活用が可能なのか、あるいは、それがいいことなのかを考えてしまう。 “ヒューマノイド・ロボット「モヤ」” の続きを読む

五十嵐顕の人間類型的考察4

五十嵐は、レーニンの膨大な文章群から、教育に関係する文章を抜粋して、「レーニン教育論」を著作として刊行したが、その構成について、村山士郎氏が強く批判していることがある。それは五十嵐が、レーニンの否定的な側面は無視しているということである。レーニンは間違いなく、優れた政治指導者であり、理論家であったが、実際の政治活動のなかで、批判されるべきいくつかの選択をしている。革命後、選挙を実施したが、自党が敗北したために、議会を解散したり、教育においては、党が教育を指導し、また校長に権限を集中させるなどの政策をとったといわれる。そうしたレーニンの主張は、五十嵐「レーニン教育論」には含まれてこない。議会の解散は、教育の領域ではないにしても、おそらく、そうしたレーニンの行動は、五十嵐のレーニン像には入ってこなかったのだろうと思われる。五十嵐には、おそらく、レーニン、マルクス、社会主義についての、つよい世界観、倫理があって、それにそうレーニンの叙述を探し、構成したのだと思う。 “五十嵐顕の人間類型的考察4” の続きを読む

五十嵐顕の人間類型的考察3

 宗教的人格・人間という点について。
 人間は多様な性格や人格をもっているから、人間類型というパターンに当てはめてその人の評価を固定的にするとしたら、おそらく誤解することのほうが多いだろう。しかし、ある人の行動が、なにかいつも共通の性質をもっているとしたら、そこに「人間性」、類型化できる人格を想定することは、その行動を理解することに役立つのではないだろうか。 “五十嵐顕の人間類型的考察3” の続きを読む

映画「砂の器」、原作よりずっと感動的

 「砂の器」のBDが来たので早速見た。
 小説については、かなり疑問を呈したが、小説で不自然なところ、がっかりしたところは、映画版ではほとんどが変えられていて、自然な進行になっていた。ただ、そのためともいえるが、逆にかえって不自然になっている面もあった。原作小説と映画化、ドラマ化の比較は興味ある作業だが、多くの場合、名作をドラマ化すると、不満が残る。しかし、この「砂の器」の映画化は、完全に原作を上回っているとおもう。
 主な殺人事件とその捜索の進行は、ほぼ原作と映画は同一だが、原作では3つの殺人と1つの自殺があるが、映画では、主要な殺人と自殺が事故死のように扱われて、その他は出てこない。したがって、推理小説的な複雑さは映画では単純化され、逆に不自然な殺人が行われないので、すっきりしている。ここが大きな違いだ。 “映画「砂の器」、原作よりずっと感動的” の続きを読む

五十嵐顕の人間類型的考察2

 たしかに五十嵐は、当時の有力な理論であった「国民の教育権論」について、基本的には支持しながらも、批判的な見地を遠慮なく提起していた。また政府批判などもきびしいものがあった。こうした姿勢は、「環境適応型」とは違うのではないかという疑問も当然ある。
 しかし、「国民の教育権」への批判的な見解についても、「国民の教育権論」の骨格そのものを批判、つまり、否定しているわけではなく、部分的な疑問を述べているに過ぎない。政府や権力への批判も、批判的陣営にいたわけだから、それは、むしろ陣営的に適応していたといったほうが、実態に近いだろう。
 逆に、もし、環境適応型ではなく、真に主体的自律的人間であったなら、違うように振る舞ったのではないかと考えられることがいくつかある。 “五十嵐顕の人間類型的考察2” の続きを読む

五十嵐顕の人間類型的考察1

 ここ数年間五十嵐顕の可能な限りたくさんの、つまり、全集に収録される文章のすべてを読んで、それまでの大学時代に受け、全集編集に参加するまで抱き続けてきた五十嵐顕像は、かなり根本的に変化することになった。それまでは、常識的に、戦闘的なマルクス主義教育学者だと思っていたが、そのこと自体は間違いないが、その前後にさまざまな変遷をしていること、そして、ずっと継続していた基本的人間型があることに気付いたのである。それは、端的に「環境適応型人間」と「宗教的人間・人格」である。その考えを共有する編集委員はなく、私の独自の規定であるが、私としては、かなりの確信をもってそう考えている。ただし、これは、非難とか批判ではなく、人間類型に属する人間であったとのリアルな認識である。
 まず「環境適応型人間」について、そう考える理由をあげよう。 “五十嵐顕の人間類型的考察1” の続きを読む