ブロムシュテット・N響の演奏会

 普段演奏会には行かないが、たまにいくのは専らオペラとたまに合唱付きの曲(ベルディのレクイエムとかベートーヴェン荘厳ミサ等)を聴きにいく程度だ。純粋にオーケストラの演奏会にいったのは、記憶では、小沢征爾指揮の新日フィルで、それは近くの音楽ホールにきたためだった。小沢が新日フィルをふっていたのだから、ずいぶん前のことになる。それが、定期会員になっている妻の親友が、急にいけなくなったので、代わりにでかけたというわけだった。
 NHKホールもまたずいぶん久しぶりだ。全盛期のポリーニを聴くために、N響の会員になったのだが、ポリーニが手の故障で衰える前だから、これも何十年ぶりということになる。オーケストラは毎週自分で経験しているので、聴くほうはすっかりご無沙汰というところだが、今回心が動いたのは、指揮がブロムシュテットだからだ。もちろん、はじめて生を聴くのだが、CDやyoutube、テレビではけっこう試聴してきた。そして、がっかりしたことが一度もないから、実演を聴けるのは、これが最後であることは確実で、逃したらやはり後悔しただろう。前にブログに書いたが、ベートーヴェンの第九の演奏(ライチチッヒでのライブ映像)は、ほんとうに感心した。

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近来稀な自民党の権力闘争

 自民党の総裁選から、総理大臣の選出、そして、その前後の石破茂氏の変容、これは、自民党支持ではない、まったくの傍観的立場でみていて、興味深い展開のように思われた。当事者たちは、生き残りをかけた闘いだろうから、必死だろうが。
 総裁選の優劣の変動がまず第一幕だったろう。当初は、小林鷹之氏か小泉進次郎氏が圧勝するだろうという予測だったことも興味をかきたてた。なにしろ二人とも40代であり、これまでの常識でいえば、立候補すらできないような経歴にみえたからだ。すくなくとも前回までは、派閥を背負って選ばれた人が自民党の総裁選に立候補した。だから、派閥の数よりずっと少ないし、また、大物感はたしかにあるひとたちが多かった。しかし、今回は最初に話題に昇ってきたのか、この若手二人であり、そして、当初は12名もの立候補があるのではないかと予想された。実際に、意思表明したひとはそれだけいたのである。そして、まずは小林鷹之氏の印象が薄くなり、小泉圧勝のような雰囲気に一時はなった。しかし、実際に立候補を表明した記者会見で、はやくもつまずく。抜粋をみただけだが、よくもまあ、こんな反感をかうようなことを、堂々と述べるものだ、と通常経験しないような感心をしてしまった。小泉氏の真意かどうかはわからないが、企業が労働者を解雇する自由を拡大しようなどということが、国民だけではなく、おそらく自民党支持層からも受け入れられるはずがない。既に、日本は、大リストラ時代を経ており、実態として解雇が不自由だとは、一般に思われていない。リストラと非正規の拡大という、企業の横暴としかいいようのないことを、そして、現在ではさすがに、保守的な人ですら、そんなことをいう人はあまりいないときに、これほど、あっけらかんと主張したのだから、びっくりしたというのが、多くの人の実感だったろう。その後小泉氏は軌道修正というか、「より丁寧」な説明を試みたようだが、最初の記者会見の、しかも冒頭で述べたことだから、最後まで、解雇自由の小泉、という印象がつきまとった。

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ファミリー・コンサート

 昨日は、私の属する市民オーケストラ(松戸シティフィル)のファミリー・コンサートだった。ほとんどその話題では書いたことがないのだが、今回はいろいろとおもうところがあって、演奏会のことを書こうとおもう。
 まず、プログラムだが、前半にベートーヴェンの7番の交響曲、後半に、サウンド・オブ・ミュージックの抜粋接続曲(オーケストラ用の編曲なので、歌は入らない)、スター・ウォーズ組曲というものだった。このプログラムが団員に示されたとき、私も含め多くの団員は、「えっ、ベートーヴェンが前プロなの?」と驚いた。実は、指揮者が、けっこう練習が進んだ段階で、そのことを知り、「ほんとうですか、はじめて知りました」とやはりびっくりしていた。ベートーヴェンの交響曲が前半にある場合は、私が知るかぎり、ほとんどベートーヴェンプログラムで、前半に偶数番号あるいは1番、そして、後半に1番以外の奇数番号の交響曲を配置するものだ。7番は長く、激しい曲だから、前半というのは、聞いたことがない。

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結社の自由と訴訟

 松竹伸幸氏が、共産党を除名処分になったとき、いくつか文章を書いたが、その後、とくに追いかけていなかった。たが、最近第二の著書を出して、党員資格の保持を求めて、共産党を司法に訴えたことを知った。おそらく、類似の訴訟もないような、新しい挑戦ではないかと思うし、人権論としても、非常に興味深いと思った。
 結局、結社の自由に関わることであるが、法論理としては「部分社会の法理」に関わることだろうと思う。
 通常結社の自由とは、ある団体(とくに政治団体)を結成したことによって、国家権力の干渉を受けない、国家にたいして、結社を禁止したり、結成に関わった人を逮捕したりすることを禁止するものである。松竹氏の除名にたいして、朝日新聞が社説で批判をしたときに、当時の志井委員長は、「朝日新聞は結社の自由を侵すのか」と非難したが、朝日新聞に、政党の結社を禁ずる権限などありえないのだから、この非難は的外れもいいところであった。

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悠仁親王「東大進学反対書名」騒動について

 8月30日に「週刊ポスト」の記事がウェブ上にアップされた。「「あまりに悪質」悠仁さまの「東大進学に反対署名1万人超」運営サイトが署名ストップさせた理由」という記事である。25日に秋篠宮夫妻とともに「国際昆虫学会議」に出席したあと、同会議のポスター発表をすることを報じたあとに、以下のように書いている。
 
 「一方で、悠仁さまをめぐっては看過できない問題が起きている。この開会式前日まで「悠仁さまの東大進学に反対する署名活動」がオンライン上で2週間にわたって続いていたのだ。8月24日を境に署名ができないようになっているが、何が起きたのか。署名活動が展開されていたオンライン署名サイト「Change.org」の広報チームに問い合わせるとこう回答があった。」

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鬼平犯科帳 がっかりする話3 瓶割り小僧

 鬼平犯科帳ネタで「がっかりする話」を2回、中途半端になっているので、もう少し続けてみたい。優に100を越える話があるのだからは、どれもが優れた出来ばえというわけにはいかない。何度か書いているように、ある回の話と別の回の話が、辻褄が合わないことも、けっこうある。しかし、それでも全体として、小説、ドラマを含めて、鬼平犯科帳の面白さはとびきりのものだと思う。
 そういうなかで、がっかりする話として、今回とりあげるのは、「瓶割り小僧」だが、これは、実は、作者の池波正太郎が、気に入った話の5つのなかにいれているものなのだ。だから、池波は、この話を非常によくできたものだと考えていたことは、間違いがない。しかし、私は何度読んでも、あまり感心しないのだ。

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途上国からの脱出4 悠仁親王の進学問題

 今日は終戦(敗戦)の日とされている。正式に戦争が終ったのは9月の降伏文書の調印であるが、一般的には8月15日に戦争が終了したとされている。これは、天皇がポツダム宣言の受諾をラジオ放送したことによって、戦争が終ったのだという、一種の天皇制の意味づけを行っていることだと解釈できる。だが、戦前は決して許容されなかった天皇への批判も、戦後は可能になった。現在でもタブー視されている面はあるが、戦前に比較すれば、健全な状態になっているといえるだろう。しかし、しばらくは国民にも支持されてきた天皇制度も、近年不祥事もあり、国民の信頼はかなり低下しているように思われる。そしてそれが加速するような事態が起きつつある。

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オリンピックのボクシングの性別問題を考える

 パリオリンピックが開催中であり、さまざまな議論がなされているが、大きなひとつが、女子ボクンシグにおけるふたりのトランス・ジェンダー選手の問題であろう。世界選手権では、男性だと判断されて出場を認められなかった二人の選手が、パリオリンピックでは、パスポートに記された男女別によって認めるという形で、出場が認められ、イタリア選手が、かつて経験したことのない強力なパンチを受けたとして、途中棄権する事態になった。

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「鬼平犯科帳」殺人者となった武士の処遇

 鬼平犯科帳の魅力のひとつは、人間を単純なパターンに押し込めない点である。人は悪いことをしつつ、善いことをする、善いことをしながら、悪いことをする、善人と悪人の差は紙一重だというのが、基本にある。だから、盗賊であっても、許して密偵にする場合もあるし、容赦なく磔の刑にしてしまう、あるいは切り捨てる場合もある。
 そして、自分の部下も悪事に染まってしまう例がけっこうある。その事後措置はけっして一様ではない。

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オペラの筋を転換させる重唱

 前に「美しいメロディー」をあげたが、その多くはオペラのアリアだった。西欧クラシック音楽の最も魅力的なメロディーはオペラにあるのは、オペラがしめている位置から当然のことなのだが、ただ、オペラの最大の魅力は、実はアリアではなく、重唱にある。名曲オペラの、音楽的に最も素晴らしい場面は、大抵アリアよりは、何人かがやりとりをする場面であることが多い。
 今回は、そうした音楽的な魅力にあふれた重唱の場面を選んでみた。その条件として、更に、その場面で大きく筋が転回すること、そして、それが主に歌の内容になって起きることという条件で考えてみた。

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