大谷最大のピンチ?

 韓国におけるドジャースの開幕戦の最中に、とんでもないニュースが流れ、多くのニュース番組がこの問題に覆われた感じすらあった。ニュースで詳しく報じられているので、内容には触れないが、最大の問題は、水原氏の説明の逆転の真実と、それによって、大谷自身が水原氏を援助したのかということに尽きるだろう。とくに、大谷が罪に問われるのか、大リーグにおいてなんらかのペナルティを課されるのかということである。 “大谷最大のピンチ?” の続きを読む

読書ノート『国体の本義』

 五十嵐顕著作集準備のために、様々な本を読んでいるが、『国体の本義』もその一環であった。五十嵐は、戦争をどうして防ぐことができなかったのか、とずっと問い続けたわけだが、『国体の本義』は、国民の意識をどのように形成してきたのかを探る上で、非常にわかりやすい文献であるといえる。もちろん、この本によって、新たな国民形成が行われるようになったというよりは、それまで営々と築いてきた国民教化の内容を体系的整理して示したものだろう。
 最初に「大日本国体」という章では、建国神話が書かれ、日本は国土ができてからずっと神代から天孫降臨し、天皇が一貫して統治してきた歴史として描かれ、様々な外来思想(仏教、儒教、西洋文化等々)が学ばれたが、日本的な「和」の精神で日本化してきた。つまり、国体とは、現人神たる天皇が統治していることであり、これは永遠のものだと強調している。 “読書ノート『国体の本義』” の続きを読む

小学校卒業文集廃止の動きについて


 確かに、これまでは卒業文集なるものを作成するのが普通だった。少なくとも小学校においては。中学校や高校ではなかったと思うし、大学では当然ない。しかし、小学校でも卒業文集を廃止する動きがひろがっているのだそうだ。
「小学校で広がる 「卒業文集」廃止の動き 背景に先生の業務過多も保護者たちの反応は?」
https://news.yahoo.co.jp/articles/d199210f44f58bc44436695de04f3a856d05ffc5

 結論からいえば、廃止はごく自然なことだと思う。 “小学校卒業文集廃止の動きについて” の続きを読む

PTAからの卒業記念

 PTAから卒業生に記念品を贈る慣習は、いまでも残っているようだ。大分前(10年以上前)に、大きな議論になったことがあった。それと同じ議論が繰り返されているのだが、その結論に関しては、多少の力点の変化が起きているようだ。 “PTAからの卒業記念” の続きを読む

最近のウクライナ情勢を考える

 ウクライナの状況が厳しいことが、かなり頻繁にいわれるようになり、領土をロシアに一定割譲しても、和平をすべきではないか、という意見が、日本だけではなく、ウクライナ内部においてもでているように報道されている。そして、ウクライナでも最高軍司令官が交代になるなど、ウクライナを支援するひとたちにとっても、全面的に信頼していいのだろうかという要素もでてきている。
 ただ、これまでの支援する側の対応をみている限り、ウクライナが苦戦することは、ごく当たり前のことであり、支援する側が、支援の姿勢をかえることで、現状をかなり打開できることも間違いないのである。そして、ウクライナがロシアに領土を割譲するような状態で停戦すれば、つまり、ロシアが政治的にも軍事的にも勝利するようなことがあれば、その国際的な影響は測り知れないものがあり、真の意味で第三次対戦を誘発する要因にもなりえるのである。 “最近のウクライナ情勢を考える” の続きを読む

原作改変を考える1 オペラの場合

 「セクシー田中さん」の問題から、原作改変について、私のよく知る分野で考えてみたいと思った。というのは、私が最も好きな芸術であるオペラこそ、この改作が最も酷い状況にあると思われるからである。オペラになじみのない人がまだ多いと思うが、近年上演されるオペラのドラマの要素を、原作に忠実に演出されることのほうがめずらしいといえる。極端な例では、まったく時代も登場人物も粗筋も変わっている場合すらある。そして、どこまで許され、あるいは許されないのか、改作の結果どうなっているのか、といろいろと考えてみたい。

 まずオペラで改作が普通になっているのには、明確な理由があると思う。それは、オペラの新作があまりなく、あったとしても人気を獲得するオペラは、皆無といっていい状況だからである。いわゆる人気オペラと一般に認められる作品の最後は、リヒャルト・シュトラウス作曲の「ばらの騎士」だといわれている。これは、1911年に初演されているので、100年以上前のことになる。つまり、100年にわたって、人気オペラは登場していないのである。新作オペラが上演されても、だいたい新演出に到るものは極めてかぎられている。つまり数年経過しても、なお上演されており、新しい演出で再登場するということは、近年の新作オペラではきいたことがない。アルバン・ベルク、バルトーク、ストラビンスキー、ショスタコーヴッチ、その他わずかな作曲家のオペラが、継続して演じられているが、ポピュラーな人気オペラとはとうていいえない。 “原作改変を考える1 オペラの場合” の続きを読む

小沢征爾さんが亡くなった

.小沢征爾が亡くなった
 小沢征爾氏(以下むしろ敬意をこめて、敬称を略す)が亡くなったというニュースが流れた。大分前から癌を患い、演奏活動は激減していたから、いずれこういう日がくることは、大方予想されていたが、いざとなると、やはり、戦後日本の音楽の歴史が変わっていくだろうと思わせる。
 私自身は、指揮者としての小沢征爾のファンではなかったし、むしろ批判的な感情をもっていたが、ただ、実演に接したときには、いずれも非常に感心した。ただ、感動したというのではないのだ。そこが微妙なところだろう。

 小沢征爾の実演を聴いたのは、あまり多くない。
 最初は二期会の公演によるムソルグスキー「ボリスゴドノフ」だった。それから、近所の音楽ホールにきたときに、新日フィルでモーツァルトのディベルティメント、プロコフィエフのピアノ協奏曲3番、そして、ベートーヴェンの7番の交響曲というプロで聴いた。 “小沢征爾さんが亡くなった” の続きを読む

ボクシングはスポーツか?

 昨年の12月26日に行われた日本バンタム級王座に挑戦したプロボクサーの穴口選手が、試合後倒れ、病院で手術を受けたが、意識が戻らず2月2日に死亡したというニュースが、大きな話題を呼んでいる。死因は右硬膜下血腫ということだ。

 様々な論議を呼んでいるが、そのなかで、「だからボクシングはスポーツではない、という議論はおかしい」というような意見が多数あった。こういう事故がおきることとは関係なく、私は、ずっと以前から、ボクシングをスポーツとして扱うことに反対してきた。それは、ボクシングという競技がスポーツとしての基本的性格から逸脱していると考えるからである。もちろん、ボクシングという競技そのものを廃止すべきであると主張する気持ちはない。やること、みることが好きな人がたくさんいるのだから、危険な競技であることを承知でやることまで反対する理由はない。しかし、スポーツであると位置付けられ、オリンピックはもちろん、学校の部活になっている場合もあるのだから、本当にスポーツとしての意味があるのかどうかは、きちんと議論される必要がある。 “ボクシングはスポーツか?” の続きを読む

漫画のドラマ化で原作者が自死

 この問題を知ったのは、事件(原作者の自死)の前に、さっきー氏のyoutubeを見たからだった。テレビの裏側を解説するというyoutubeで、なるほどと思うことが多いのだが、このなかで、「セクシー田中さん」というドラマで、原作者と脚本家の争いになっているということから、珍しい揉め方として紹介していた。原作をかなり改変してドラマ化することはよくあることだが、通常は、表立ったトラブルにはならないというのだ。というのは、ふたつのパターンがあって、改変されることを嫌う原作者が、ドラマ化を断るか、改変されるのは、いっても無駄とあきらめて、任せてしまう場合のどちらかがほとんどだという。もちろん、当事者にとっては、どちらかが不満足な展開になるのだが、トラブルにはならないという。今回の場合には、原作者が、原作を改変しないことを条件にしたが、それにもかかわらず改変が行われ、原作者が自分で脚本を書くという事態になったことが、極めて例外的だという解説をしていた。そして、この問題が難しいのは、だれもがよかれと思っていることだ。改変する脚本家やプロデューサーにしても、面白くなくするために改変するのだ、などということは絶対になく、このほうが面白いと考えて、改変する。原作者は原作の形をベストと考えているのは当たり前だ。善意と善意がぶつかり合って、トラブルになると、解決が非常に難しいというのが、さっきー氏の結論だった。 “漫画のドラマ化で原作者が自死” の続きを読む

中学生にも麻薬汚染が

 9月に大麻所持で中学生が逮捕されて話題になったが、大麻に汚染されている中学生が多数いると、テレビに対して証言した中学生が現われて、更に問題になっている。
「大麻に手を染める生徒は「沢山いる」隣の子に「見て見て」 中学生が激白、薬物がまん延する沖縄の現状」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e17fe066f14515515152079ca764db8fea2c6d14
 逮捕された生徒と同じ学校の生徒が証言したものだが、だいたいは先輩から入手し、入手すると、まわりにみ見せびらかすことが多いと語られている。つまり、違法薬物で、逮捕される可能性のある「物」だという認識が、極めて薄いようだ。
 日大のアメフト部での大麻汚染問題は、まだ泥沼状態が続いているが、社会に拡大していることが事実であるとすれば、本当に由々しき状況である。

 気になることのひとつに、大麻はたいした害がなく、煙草より安全だから、煙草が合法なら、大麻も合法にしてもいいのではないか、という見解や、大麻は医療的な効果があるので、合法にすべきという、ふたつの合法論があることだ。もちろん、意見は自由だが、合法化論には、まったく賛成できない。

 まず医療的な効果があるというのは、麻薬というものは、多くの種類のものが、治療用に、厳密に管理された中で使用されているのだから、医療的な効果があるということは事実だろう。しかし、だから、一般的な使用を合法化することとは、まったく別の問題であって、専門医によって厳格に管理された上で使うのと、一般人が、「注意書き」があったとしても、自由意志によって使用することとは、まったく意味が異なる。麻薬は麻薬であって、基本的には身体的には害があるものである。
 煙草より害が少ないという点についても、煙草自体の害が認識され、事実上多くの場で喫煙が禁止されていることを見れば、煙草もやがて、より厳しく禁止されるようになるべきであるとも考えられ、煙草より害が少ないことは、合法化の理由にはならない。
 大分前のことだが、ある心理学者が、政府の煙草審議会に参加して、そこで議論されていたことを紹介している本があった。それは、煙草を容認しておけば、政治に対する不満が弱まる、しかし、禁止すると政府に対する不満が、煙草禁止と合わせて強化されるので、合法にしておくことがよい、という理由で、煙草の禁止措置をとらないことが確認されたという。
 煙草の合法措置は、こうした市民の不満解消のためであるとすれば、大麻の合法化が行われたとしても、実はそうした意味合いかも知れないのである。

 ここでもう少し考えたいのは、世界で大麻などソフトドラッグが合法化されている国があることだ。いわゆる先進国でソフトドラッグ合法化したのは、オランダが最初だった。オランダは、バードドラッグは現在でも厳格に禁止して取り締まっており、ソフトドラッグは使用場所や量を制限して、その限りで合法化している。そして、現在でも実施されているかは、確認していないが、かつて麻薬バスを走らせていた。大麻などを希望する者が、所定の場所、所定の時間にいくと、医師が麻薬を射ってくれるのである。
 問題は、何故そうした措置をとったかである。決して、大麻が煙草より安全だから、合法化してもいいだろう、などということではないのである。当時、麻薬に関連して、深刻に恐れられていたことはエイズだった。アメリカではエイズが同性愛の行為から伝染していたといわれたが、ヨーロッパでは、主にドラッグの注射針から伝染したと考えられていた。注射器をまわしながら、ドラッグを注射していたから、そこにひとりエイズ感染者がいれば、多くの人に伝染してしまうわけである。だから、なんとか、そうした行為を止めさせるために、医師が安全に注射してあげるかわりに、それに違犯した者には、厳罰を課すという方法をとったのである。大麻は吸引する方法をとることが多いので、場所を指定して(コーヒーショップといわれる場)合法にしたのである。もちろん、麻薬バスでは、投与の量を少しずつ減らすことによって、中毒状態を治療する効果も狙っていた。
 つまり、エイズが蔓延することを防ぐために、より害の小さい方法をとったのが、オランダのドラッグ合法の目的だったのである。

 現在日本では、大麻などの合法化によって、より大きな害を効果的に減らすことができる、などという対象が存在するわけではない。かつては、犯罪組織がドラッグを扱っているのが普通だったから、合法化することによって犯罪組織の資金源を絶つという目的もありえたが、今は暴力団への取り締まりが徹底していて、暴力団が主体となって、ドラッグが拡散しているわけではなく、むしろ、「普通」のひとたちのビジネスと興味によって拡散していることがめだつ。したがって、身体的害の小さなドラッグを合法化することの社会的メリットは存在しないのである。害は小さいといっても、害であることに間違いはない。むしろ、若者がドラッグに近づかないように、可能な限りの方法を実行すべきである。