未来の教育研究3 教育の自由・新自由主義

  私が学生時代以来、最も重要な理論的基本として考えてきたのは、堀尾輝久氏の「教育の自由」論から、教育や教育制度を構築する議論だった。しかし、「教育の自由」という概念は、公教育では、歴史的にもほとんど認められてこなかったもので、唯一、憲法上、教育の自由を認めているのは、オランダ憲法のみであるとされている。そもそも、公教育は、社会権としての教育権を実現したもので、自由権はその論理のなかに含まれていない。もちろん、実態として、自由に教育が行われている、つまり、教育の内容について、政府、公権力が規制しない時代(国によって、相当異なるが)があったことは事実であるが、それはまだ、教育内容を詳細に規定するほどの、政治情勢がなかったか、あるいは、政府にそれを実効的に規定できる力がなかったからである。
 最も、伝統的な教育、庶民の学校では3R、中等教育機関では、古典文化を学ぶなどの伝統的な内容はあった。更に、職業教育の要請は、内容上明確であるから、あえて国家的に規制する必要もなかったといえる。オランダの教育の自由も、実際に存在する学校が教えていることを追認するものであったといえるのである。 “未来の教育研究3 教育の自由・新自由主義” の続きを読む

未来の教育研究2 三分岐・総合制・単一学校制度

 三分岐型は、多くが、伝統的なエリート学校で、大学に接続する学校(グラマースクール、ギムナジウム(ドイツ)、VWO(オランダ))、義務教育となった小学校の上に接続する高等科が発展した学校(モダンスクール、ハウプトシューレ、MAVO)、そして、従来からある職業学校・実科学校(テクニカルスクール、レアルシューレ、LBO)の三つのタイプに分かれる。実科学校のレベル、評価は、国によって異なる。イギリスやドイツでは比較的高いが、オランダでは低い。そのために、MAVOとLBOは統合されている。(オランダでは、その統合前は4つに分かれていたが、統合によって3つのタイプになった。)
 総合制の学校制度は、この三分岐制度に対抗して構想されたものである。従って、1960年代になり、提案がなされ、政治的な争点となった。保守党は三分岐維持で、社会民主党(労働党)が、総合制を支持したために、自治体の政府をどちらの政党がとるかによって、左右された。 “未来の教育研究2 三分岐・総合制・単一学校制度” の続きを読む

未来の教育研究1 最初のメモ

2016年に「未来の研究に関する研究1」を『人間科学研究』(紀要)に書いて、その後、2、3と書きついでいく予定だったが、研究が膨大に膨らんでいったために、書かずにきた。定年となるので、その後にじっくり取り組もうと思っていたのだが、事情があって、今年書くことになった。未来の教育の構想がさかんに出ているのだが、実は、それほど革命的に新しいものではなく、過去の教育論とつながっていることを示したのが、1だった。しかし、現代の科学技術の発展を踏まえて、当然装いは新しくなっているし、学ぶ内容も変わっていく必要があると思われている。そうした動向が、顕著になる80年代、90年代に、教育制度の世界では大きな変化があった。それを扱うのが2で、いよいよ21世紀にはいって、21世紀の教育構想がだされ、実際に変わりつつある面と、そうそう変わり得ない部分がある、それを踏まえてどこに行こうとしているのか、あるいはいくべきなのか、そこに踏み込むのが3の予定であった。
 膨大なものになってしまったのは、戦後改革も経過せざるをえないと考えて、資料を集めだしたからだ。私の博士論文は、大戦間の教育制度改革(統一学校運動)だったので、やはり、その後の戦後改革があって、80年代につながることを無視するわけにもいかないと考えた。今年書かねばならないことになり、とりあえず、一番大事な21世紀に焦点をあてた考察にしようと考えている。時間があまりないので、ここに草稿を書きながら、完成させることにした。これまで書いたような内容から、急にアカデミックな研究の舞台裏のような文章が多くなる。 “未来の教育研究1 最初のメモ” の続きを読む

鬼平犯科帳 浪人になると

 失業は今でも大きな人生上の困難である。失業保険や生活保護などがあるけれども、それでも、失業すれば生活の保障がなくなる。江戸時代は、多くの者は生まれついた職業、身分をもっており、ほとんどの者は一生変わらずそれを保持する。農民などは飢饉で苦しむことはあっても、それは一時的であるし、農業そのものが倒産したりということは、おそらくあまりなかっただろう。しかし、武士には、失業の危機は少なくなかった。自分の家だけではなく、主家が潰れてしまう。家の跡取りがいなければ、家そのものがとりつぶされるし、また、主人に不祥事があれば御家断絶となる。その場合、家来や家人は、生活の糧を失うことになる。失業である。
 武士が失業、つまり浪人になるとどうなるのだろう。鬼平犯科帳には、多数の浪人が出てくる。そして、その生きざまは実に多様である。しかし、犯科帳であるから、犯罪者を扱った小説なので、当然、悪の道に落ち込んだ浪人が、たくさんでてくる。しかし、ここでは、そうではないふたつの物語を考えてみよう。「乞食坊主(ドラマでは「托鉢無宿」)」「用心棒」のふたつである。 “鬼平犯科帳 浪人になると” の続きを読む

大坂なおみの不調 「迷ったら苦しい方を選べ」

大坂なおみが、また破れた。ウィンブルドンは最初の試合での敗退だ。全豪オープンでの優勝後、ほとんど活躍できていない。しかし、こうなるのではないかと、大坂が全豪オープンのあと、コーチを突然変えたときに予想した。もちろん、今後どうなるかはわからないが、また、コーチを変えた真相は知るよしもないが、とりあえず、想像した仮定での考察をしてみたい。それが事実とは違っていたとしても、考察の筋道そのものは意味があると思う。
 大坂がコーチを変えたときに、まず思い出したのは、天才ボクサーのマーク・タイソンのことだ。 “大坂なおみの不調 「迷ったら苦しい方を選べ」” の続きを読む

名古屋城の木造復元問題 復元でも新築は現代の基準で

 世界中から注目されているG20挨拶で、安部首相が、大坂城はすばらしい復元だったが、唯一エレベーターの設置はミスだったと述べて、顰蹙をかっている。社会的弱者のことなど、つゆほども考えていない首相らしい発言だと思ったが、もしかしたら、名古屋城で散々揉めていることを意識し、エレベーターなど作るなと、作らない派にエールを送っているのかも知れない。
 名古屋城問題は、あまり関心がなく、詳しいことは全く知らなかったのだが、調べてみた。2009年からの毎日新聞の記事を検索にかけて、目を通した。これほど膠着していたのかと驚いたが、安部首相の応援は、かえって河村市長にとってプラスにはならないに違いない。
 一応、経緯と論点を整理しておこう。
 名古屋城は、明治初期の城の破壊を免れたが、第二次大戦の爆撃で消失してしまったので、コンクリート建築で再現されたのが、今の名古屋城である。もちろん愛知県の観光の重要な名所のひとつだが、耐震の問題があるので、補強工事を計画していた。しかし、2009年の市長選で河村氏が当選し、彼の強い意欲で、木造の復元にする方向に舵をきった。名古屋城の図面など、江戸時代の復元に可能な資料がかなり揃っているのだそうで、コンクリート建築であれば、耐震補強したとしても、建物自体の寿命があるので、木造として復元したほうが、長持ちするし、また、観光的な意味でも歓迎されるという判断のようだ。そして、2020年のオリンピックにあわせて、完成するという構想だった。 “名古屋城の木造復元問題 復元でも新築は現代の基準で” の続きを読む

『教育』2019.7を読む 自由と向き合う自由の森学園の模索

自由の森学園とは
 「子どもが決める」特集のひとつとして、自由の森学園の校長新井達也氏の「自由という難解と向き合う」という文章が掲載されている。「自由の森学園」は、埼玉県飯能市にある私立の中学・高校である。非常にユニークな教育をすることで、注目を浴びており、私のゼミの学生が卒業論文で取り上げたこともある。何度も、学園にいってインタビューをし、特に通常とは全くちがう卒業式も見に行って映像を撮ってきたのを見たが、興味深かった。細かい校則や指定の服などがないだけではなく、いろいろな行事を生徒が主体となって行うことで知られている。
 しかし、そこにはなかなかたいへんな事情もあることが、新井氏の文章で紹介されている。
 まず「生徒会」がなく、行事などは、その都度「実行委員会」によって運営する。「今年はこの行事をやるのかやらないのか」から始まって、コンセプトが決まると各係の活動が始まる。体育祭、学園祭、音楽祭の三大行事とともに、入学式、卒業式も生徒の実行委員会で行うという。 “『教育』2019.7を読む 自由と向き合う自由の森学園の模索” の続きを読む

犯罪加害者の表現の自由2

 では、犯罪者自身が、表現活動を行うことをどう考えるのか。
 まず、事実として、インターネットが普及している現在では、それを完全に禁止することはできない。できないことをやろうとすることは無意味である。また、話題性をもつものであれば、営利的な公表手段を提供する企業が出てくることも避けられない。もちろん、それを野放しにしていいかは、別問題としてあるだろう。今でも話題になる女子高校生を40日間監禁して死に至らしめた事件は、単にニュース、ワイドショー、週刊誌で大々的に取り上げられただけではなく、映画にもなり、私は見ていないかが、報道によれば、興味本位的、醜悪な内容で、被害者の関係者を酷く不快にするものだったという。被害者側に精神的打撃をあたえるような内容の公表に対しては、不法行為を積極的に認定するという抑制手段もある。
 犯罪加害者側が表現活動を行うとすると、それはどういう目的があるのだろうか。 “犯罪加害者の表現の自由2” の続きを読む

京都工芸繊維大学教授諭旨懲戒解雇 多少疑問だが

 毎日新聞2019.6.27によると、京都工芸繊維大学の教授が、学内で無断の営利行為をしたということで、解雇されたという。
 自分の専門にかかわる企業3社に学内の機器を使わせるなどして、設備使用料や技術指導料など、合計170万を受け取り、更に09-16年に学長の許可なく5社で兼業したという。ただし、受け取った金は研究費などにあて、私的流用はなかった。教授は事実を認め、「手続きや規則を認識していなかった」などと弁明したが、学長は「極めて遺憾。学生や社会に深くおわびします」とのコメントをだしたとされる。同趣旨の記事は多数あったが、どれもほぼ同じである。

 あまりに簡単な記事なので詳細がわからず、材料不足でもあるが、可能性をいくつかあげつつ考えてみたい。 “京都工芸繊維大学教授諭旨懲戒解雇 多少疑問だが” の続きを読む

犯罪加害者の表現の自由1


 松井茂樹氏の『犯罪加害者と表現の自由 「サムの息子法」を考える』(岩波書店)を読んだことと、ある放送局で、犯罪加害者のドキュメントを作成することに関連する相談を受けたことがきっかけで、犯罪加害者の表現問題を考え直してみた。かなり難しい問題で、日数がたってしまった。実は、まだまだ考えがまとまったとは言い難い。そこで、部分的に少しずつだしていくことにした。
 松井氏の著作は、専門的な法律の書物で、法律的な論点を詳細に論じているが、それ以前の、単純な考え方として、この問題を考えてみたいと前から思っていた。これまでに、犯罪加害者の家族の問題を、考える機会がけっこうあったが、犯罪加害者、あるいはその家族、関係者の「表現問題」は、異なる側面からの考察が必要だろう。
 犯罪加害者自身の著作として、松井氏は以下のものをあげている。
 『絶歌』-神戸の少年A(当時14歳)による小学生2名を殺害した事件の当事者の著作
 『無知の涙』『人民を忘れたカナリア』『木橋』- 連続射殺事件の永山則夫の著作
 『霧の中』-殺害後人肉を食べた佐川一政の著作
 『逮捕されるまで-空白の二年七カ月の記録』-英国人を殺害後逃亡していた市橋達也の著作
 更に、安部穣二『堀の中の懲りない面々』や堀江貴文の『刑務所なう』も犯罪を犯して刑務所に入ったために書くことができた本としてあげている。
 私自身は、『絶歌』『無知の涙』『木橋』は読んだが、『絶歌』だけは、あえて古本を購入した。著者に印税が入ることを拒否したかったからである。 “犯罪加害者の表現の自由1” の続きを読む