教育実習の授業をみて 学校文化への疑問

 今、教職課程を履修している4年生は、多くが教育実習の期間中だろう。今週2人の実習の授業を見にいった。いろいろと考えたところがあるので、それを書いてみる。しかし、以下の文章は、今週見た実習生の授業に対する評価ではない。むしろ、普段から感じている日本の学校教育の「教え方」に対する疑問に関するものである。それが現われていたということだが、それは、ほとんど日本の学校教育文化ともいうべきものであり、その授業の欠点と認識されるものではない。授業そのものは、学生としてはとてもよかったと思うし、子どもたちもよく反応していた。
 まず「国語」。国語の授業では、決まったパターンがあるようなのだ。新しい文章にはいると、まず全文を読む。そして、新しい漢字を書き出して、読みと意味を確認する。意味のわからない言葉を辞書で調べる。次に、段落分けをする。それから、分けた段落にそって、文章の解釈をしていく。もちろん、みながこのように統一されているわけではないだろうが、多くのパターンがこのようになっていると思われる。
 実習の授業は、「段落分け」だった。そして、私が普段から最も疑問に思っていることが、この段落分けのやり方なのだ。日常生活ではやらない作業方法
 まず、教師が、この文章は3つの段落に分かれています、それを分けてみましょうと課題をだして、タイマーをセットする。最近の学校には、必ずといっていいほど、タイマーがあり、「この課題は*分でやります」といって、時間がくるとタイマーがなり、「終わり」ということになる。この種のやり方も、私には違和感がある。それはおこう。
 前の時間までに、形式段落で番号が振られているので、子どもたちは、すぐに分ける作業にはいる。時間がくると発表である。
 この授業では、4通りの答えが出た。そして、それぞれ何故かを説明させる。そして、子どもたちの説明から、実習生は、内容に関する共通点を引き出して、3つの内容に分け、それが一番適合しているのは、*番目だね、といって正解答を示す。要するに、導入と本論とまとめのような感じとなって、しかし、本論が長いので、次にそれをふたつに分けようということになり、ふたつに分ける課題をだす。時間がきて発表されると、二通りの答えが出た。同じように、子どもに説明をさせ、正しいのは、こちらだと正答を示して、予定通り時間となった。当初の授業案の計画の通りに進行して、ちゃんと終わったわけである。
 さて、私が普段感じている国語の授業に関する疑問が、そっくりここにも現われていた。ほとんどの国語の授業の定型にそったものであり、また、担当教師の指導を受けているものなので、再度いうが、この授業に対する疑問ではない。
 第一は、「正答主義」である。扱っていた文章は、生物体は円筒形だという全体の主張があり、この本論部分は、前半が円筒形になっている具体例が様々書かれている。そして、後半は何故円筒形がよいのか、実験をしながら追求している。ふたつの見解が出たのは、前半と後半をつなぐ移行段落のような部分だった。これを前半にいれる考えと、後半にいれる考えとに分かれたわけである。私は本文をもっていたわけではなく、覗き見をしていた感じなので、自信があるわけではないのだが、要するに、これまで具体的に円筒形の生物をみてきたが、それを実験で確かめてみましょうというようなことが書いてある短い段落だ。極端な話、どっちにいれてもよいし、また、つなぎの部分の独立した部分だと解釈しても、本文全体を理解する上では、別に差し支えない。私からみると、正答は3つあるとしてもよいような文章だ。もし、時間があり、自由な議論がなされるクラスならば、違うとされた子どもたちは、異論を述べたに違いない。しかし、その時間は、後ろに見学者が数名いたし、時間も迫っていたので、子どもたちは、素直に受け入れていた。
 授業が終わって、「指導」ということになるのだが、そのことを早速問題にしてみた。ドラエモンの「どこでもドア」を使って、のび太の部屋から雪国にいけるとする。「どこでもドア」を通ったらすぐに雪国になる。では、「どこでもドア」は、のび太の部屋にあるのか、雪国にあるのか、それともどっちでもないのか?もちろん、実習生はその意味するところはすぐに理解した。つまり、どれも絶対的な正解ではなく、どれでもいいのだ。そもそも文章の解釈で、そういうことを決めなければ文章を理解できないなどということは、実生活では存在しない。決めなければいけないことがあるとすれば、それをそういう試験問題がだされたときだけだ。しかし、それは本末転倒だろう。試験のために解釈があるわけではないのだから。
 「でも次に文の構造を分析するのに、段落分けは一応しておかないと」
 「どれも正しいけど、次のことをやるのに、全部正しいだとやっかいなので、これを採用しておこう、というのでいいのではないか?」
 そんなやりとりをした。
 第二は、段落の分け方の方法である。だいたい、学校の国語の授業では、最初にいくつの段落に分けられるかを決めて、次にどこで分かれるかを考えていく。それ以外の方法に出会ったことがない。私は、本を読むのが商売の一部分だけど、そんな読み方をすることは絶対にない。まず、形式段落ごとの内容を把握して(必要なときには要約)、それから、内容の関連をつけながら、必要に応じて、大きなまとまり(段落)を分けていく。そうして文の構造を把握する。だから、いくつに分かれるかということは、最後に決まることで、最初から決まった数値で段落分けなどは絶対にしない。そう指摘すると、それは自分でもそうしていると答えた。おそらく、だれだってそうするだろう。では、何故、日常的にはやらない方法を、学校ではさせるのか。それが私にはわからない。学校の方法では、文章の読解力は、通常の方法よりずっと身につきにくい。では何故。
 たぶん、学校教育によくみられる「形式主義的発想」なのだろう。最初に作業の形式を決め、その形式にあわせて内容を処理していく。そうすると、枠からはみ出にくい、ということなのだろうか。しかし、枠からはみ出るような解釈が出てくるところに、みなで考え、解釈する面白さがあるし、そうしてこそ、読解力がつくのだが。

考えるとは
 次に算数の授業。
 近年、学習指導要領での強調点の影響だろうか、やたらと「考える」ことが、算数の授業で強調される。「**のやり方を考えてみよう」という課題がでて、一通りでてくると、となりの人に話してみようとか、他の方法がないか出し合ってみようとか、次に、コミュニケーションが指示される。しかし、算数で、毎時間「考える」要素などあるのだろうかと思うのだが、実際に、子どもたちに「考えさせている」授業には出会ったことがない。その証拠に、「考えてみよう」というと、すぐに子どもたちは手をあげるのが普通だ。すぐに出てくる答えは考えた結果ではありえない。既にわかっていることを言おうとしているだけだ。考えるということは、これまでの知識では解けないことがあるから、何か違う知識や方法を持ち込む必要があるということだ。しかし、私がこれまで見た算数の「考えさせる」場面は、すべて、既に子どもが充分にわかっている組み合わせを思い出させている作業でしかない。既にわかっていることを、時間をとったり、クラスメートとコミュニケーションさせる必要があるのだろうか。時間を無駄に使っているとしか思えないのである。
 これは、学習指導要領を充分に現場が理解していないからなのか、あるいは、学習指導要領そのものに生煮えなところがあるからなのか。私には、後者のように思われる。
 実際には、「考える」作業をさせていないのに、「考えている」と思って授業が進んでいくのでは、本当の「考える力」などつくはずがないと思うのだが。

 以上のことは、当然本人には伝えたが、指導として了解された授業であるので、あくまでも今後教師になったときに、考えてほしいことだ。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です