『教育』を読む2019.6 市場化する学校4

 前2回は、かなり批判的な検討になったが、今回は、ほぼ全面的に賛成である。取り上げるのは、
 錦光山雅子「家計を直撃する『学校指定物品』制服報道からみえた消費者問題」
 中村文夫「激化する格差の連像 家庭と地域の経済格差と教育」である。
学校指定の曖昧さ
 錦光山氏はジャーナリストで、制服等にかかる費用と、指定に関わる問題を明らかにしている。氏がこうした問題に関心が向くようになったのは、2014年9月24日に千葉県銚子市で起きた母親が中2の娘を殺害した事件であるという。母親の非正規労働、児童扶養手当、元夫からの養育費(遅れがち)でかろうじて生活をしていたが、中学入学に際して必要とされた費用を、ヤミ金融からの資金でしのいだが、取り立てで家計が崩壊し、公営住宅を強制退去させられる日、娘を殺害したという事件である。年収は100万円程度で、市も生活の困窮状況は把握していたようだが、生活保護の申請については、用紙をわたすのみで、説明などはあまりしなかったとされ、また、公営住宅の家賃については、減免措置があるのに、それを知らせなかったとされている。もし、減免されていたら、この悲劇は起きなかったし、また、それほど滞納していたわけでもないことがわかっている。
 つまり、義務教育に家計を圧迫するほどの費用がかかることの問題と、法律上はほぼ援助される制度があるにもかかわらず、それが適用されない福祉の問題と、二重の問題がある。
 この事件をきっかけにして、いろいろと氏が調べたところ、わかったこと。
・SNSを使っての調査であるが、最も高い制服(体操服・ジャージなども含めて)代は97090円だった。そして、実際に店で購入するときに、不要なものまで「必要だ」といわれて購入した。更に、夏服・冬服の購入の必要について、学校内部で説明が異なっていた。
・男子制服は、比較的安価だが、オリジナリティを追求するモデルチェンジで高価になっていることがある。
・入学説明会で、校章入りのシャツを購入するようにいわれたが、入学後、教師から校章入りでなくてもよいといわれた。
・様々なものを指定するが、その値段等については、学校は無関心でノータッチである。
 制服問題が、大きな話題になったのは、東京の公立小学校で、アルマーニの制服が指定されたことだったが、それをきっかけに、公正取引委員会が調査をし、安価で良質な制服が提供される方策の提言などをした。そして、自治体によっては、負担を減らす努力も始まっているそうだ。
 この文章の意図は、学校側の無関心と不正確な情報提供によって、余計な物を買わされていること、そのあおりを保護者が受けていることを、事実によって示すことにある。だから、そもそも、教育費が徴収されること自体の問題を追求しているわけではない。それは次の中村氏の文章で扱われている。
義務教育の無償を実現している自治体もある
 氏が指摘することは、教育に徴収される費用だけではなく、塾などの私的な教育費もかかることで、ふたつの格差が生じている。それは、家庭の貧富の格差と、人口減少による学校統廃合が生みだす地域的な格差である。氏の基本的主張は、教育教育学校で家庭からの徴収は憲法に違反するということだと思うが、重要なことは、無償が「空想的」であるのではなく、実際に行われている地域があるのだということを知らせることだろう。氏は、まったく義務教育にお金がかからないようにしている自治体が11あるとその名前を列挙している。いくつかの自治体のホームページをみたが、そのことは書かれていなかったので、確認はできないが、氏が独自に調査してそう書かれているのだろう。更に、完全無償ではないが、補助教材や修学旅行など個別に無償化している自治体も少なくない。氏が重要なこととして指摘しているのは、これらの自治体が、決して豊かな財政基盤があるわけではないという点である。子どもが少なくなって、地域が消滅する危機意識から実施していることが多いそうだが、貧しい地域でできることが、豊かな自治体で不可能なはずはないのである。
 私の経験では、娘をオランダの公立小学校に1年間いれたが、その間徴収された費用は、2000円程度一回で、それは保護者会の会費であって、任意だった。つまり、強制的に徴収されることは一切なかったのである。教科書、副教材、ノート、鉛筆、遠足費用等も含めて、一切無償だったのである。これは、欧米では普通のことである。
 中村氏の文で、日本においても無償化をしている自治体があることを知って、勉強になった。こうした取り組みを紹介しつつ、他の自治体も応援していくことが重要だろう。
 憲法で義務教育の無償が規定されているにもかかわらず、それはプログラム規定だなどといいわけをして、私費負担を改善しようとすらしなかった政府は、憲法違反をし続けているわけであるが、中村氏のように、実際に憲法を活かす政策をしている自治体があることは、今後の可能性を示す意味で大きな意味をもっている。

生きる上で必要な「教養」
 福祉関係のひと達の熱意の問題はここでは省くとして、銚子の事件をふり返ってみて、強く感じるのは、「教養」は生きる上で不可欠だということである。教養や知識、考える力は、何か生活とは無関係なものだと思われがちだが、もし、この母親が、必要な手続きをどこで、どのようにすればいいのか、それがわからないときには、どこにいって聞けばいいのか、また、ヤミ金融に取り立てられていることが、不法であり、かつ利子についても制限があるし、強制的な取り立ての違法性等について、きちんと認識していれば、事態は変わっただろう。また、朝、強制立ち退きの人がやってくる前に、娘を登校させ、その朝自分が死ぬ決意だったのが、異常な雰囲気を感じた娘が登校しなかったために、殺害してしまったということだが、中学生であれば、事情を説明して、どのようにしたらいいかを一緒に考えることもできただろう。少なくとも、どちらかが死ぬというような選択以外の方法を二人で考えることができたはずである。
 もちろん責められるのは母親ではなく、必要な援助を与えることができたはずなのに、熱意のなかった担当者達だろうが。
 「何故勉強しなければいけないのか」という、子どもの問いに、「勉強しないと将来困るからだよ」とか「将来必要になるからだよ」というような「回答」は、よくない回答だ、と普段に学生たちにいっているが、しかし、このような事例から学ぶ「教訓」として、生きていくのに必要な「教養」があるのだ、と受とめる必要がある。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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