川崎での事件は、教育学の人間としては、何よりも、登校中であり、しかも、最も安全な登校方法であるとされてきたスクールバスに関連して起きたこと、更に、学校関係者が警戒し、何人か保護者もいた中で起きた事件であるという点が、最大の考察課題となる。しかし、ここまで瞬間的ともいうべき短時間で犯行をされては、対応を考えることも難しい。これは対応のしようがないという人も少なくなかった。当日見守るためにそこにいた人もいるということであれば、(まさかあのようなことが起きるとは思っていなかったので、警戒をしたわけではないのだろう。)武器をもつわけにはいかないから、学校のように、刺股でももち、全方位を見守っているしかないのかも知れない。警官に見回ってもらうことができれば、ベストだろうが、「警官見回り中」との看板を立てておくというのも、若干の抑止にはなるかもしれない。
この点については、別途考察したいので、今回話題になっている件について書きたい。
川崎での事件をきっかけに、「一人で死ね」という書き込みがSNSに殺到し、それに対して、藤田孝典氏が、制止する書き込みをヤフーにしたことで大論争になっている。当初2チャンネル等での議論(圧倒的に、「一人で死ね」派が優勢)、ワイドショーでのやりとり、そして、新聞やブログでの多少落ち着いた記事と移ってきた。
私は、「一人で死ね」「巻き込むな」という感情はもちろんもっているが、それを生の形で表明しようとは思わない。もっと事態を分析したいと考える。他方、藤田氏のような書き方にも、違和感がある。
一般論を自分のこととして受け取る日本人の感覚
「一人で死ね」というネット上の叫びと、「そうした発言はしないで」という藤田孝典氏の発言、そしてその後の大論争をみると、TBSが放映した「安楽死」のドキュメントをめぐる騒動を思い出した。ALSにかかったオランダの商人が、安楽死を選択し、それが実行されるまでの経過を、丁寧におった映像だったが、それをみたALSの患者や患者団体から、猛烈な抗議が寄せられた。TBSはそのこともあって、半年後に、安楽死した人の妻、つまり、安楽死を実行したときに、見守った人と実行した医師を訪ね、現在どう考えているかを改めてインタビューしたのである。そちらの録画はないので、記憶であるが、妻は、まったく後悔していないと答えていた。
では、何故、日本の患者団体は抗議をしたのか。あの番組は、現在同じ病気で苦しみ、懸命に生きようとしているひとたちを傷つけ、「おまえも安楽死したらどうか」と勧めているようなものだ。患者たちは、自分が安楽死を勧められたように感じている、という批判だった。念のため、私は、オランダの友人に、この番組が放映されたときの世の中の反応について聞いてみた。この番組自体は、オランダの安楽死協会が中心となって作成したオランダ向けのドキュメント番組だったから、当然、オランダで最初に放映されていた。
友人の反応は、極めて単純で、「たいした話題にならなかった」というのである。オランダでは、安楽死はごく当然のこととして受け取られており、特に、話題性をもった番組としては受け取られなかったようなのだ。
もちろん、実際に安楽死を実行している現場が撮影され、それが放映されたのだから、オランダと異なる日本では、大きな話題になったわけである。しかし、このような受け取りの違いが生じた理由は、安楽死が合法化され、頻繁に行われているオランダと、合法化されておらず、表立っては行われていない日本との相違もあるが、それ以上に、ものごとの「受け取り方」の相違があるように感じたのである。つまり、オランダ人は安楽死を90%以上の人が容認しているが、それは、自分が安楽死を選択するという意味ではない。安楽死をどうしても実行して、苦しまずに死にたいという人がいれば、そういう人の希望はできるだけかなえてあげるべきだ、しかし、自分がそうするかはまったく別問題である、という意識なのである。だから、あの番組をみたオランダ人は、ひとつの事例として受け取っただけであり、同じ病気のひとたちも、自分たちに安楽死を勧めているのだと感じたわけではないのだ。
ところが、日本人は、ある特例に対する批判があったときに、それに自分が合致する部分があると、自分が批判されているわけでもないのに、自分が批判されたかのように受け取るという傾向がある。もちろん、すべての人がそうであるとは言わない。だが、TBSの番組をみた人たちの中で、同じ病気で苦しんでいるひとたちは、自分たちへの意思表示であるかのように受け取った人が少なくないということは、この傾向の現われであると思うのである。
こうした感覚は、社会的に微妙な問題、特に、関係者がいるようなことを議論しにくくする。そんなことを議論すると、関係するひとたちを傷つけるのではないかという非難が起こるわけである。
今回の「一人で死ね」論争への批判者たちも、似た側面がある。
「一人で死ね」といわれると、自分が死ねといわれたかのように受け取る、あるいは、彼らを支援しているひと達(藤田氏のような)が、彼らも同じように受け取るに違いないと「忖度」する。
藤田氏主張の背景と主張への疑問
藤田氏の主張は、次のような経験を背景にしている。羽鳥モーニングショーで羽鳥氏が紹介したところによれば、次のような話だったという。
いじめなどを受けて、病気になり、引き籠もりになっていた男性が、テレビを見ていた。一種のショー番組で、二人の男性がやりとりをしているなかで、一人が「お前なんか生きている価値ない、死んでしまえ。」といい、「死んでやる」というようなやりとりを聞いて、自分が不安になり、藤田に電話してきた。そして、「死にます」というのを、説得した経験があるというのである。そして、かなり広くひとが見る場で、「死ね」というようなことを書くことは、実際に死ぬ気になるひとが出てくる、というので、今回のような書きこみをしたと、取材に答えたのだという。
やはり、自分と他人を区別しない「感性」がここではっきりと見て取れる。テレビのやりとりは、あくまでもショーであり、しかも、視聴者に向けられた言葉ではない。それを自分に向けられたように受け取ってしまうというのは、そういう精神状況として特別なものかもしれないが、それにしても、だから、「言うな」という主張では、本当に必要な議論もでき
藤田氏の主張は、感情的レベルではわかるが、いくつかの疑問を感じる。
・では、どのような書けばいいのか、あるいは、感情的なことは書くなということなのか。
・同じような環境にいて、似た感じをもっているひとたちがいる、そういう人たちが、「一人で死ね」という言葉を受け取って、再び凶行に及ぶ人が出てくるかも知れない、ということだが、そうなると合理的に判断できるメカニズムが示されていない。「一人で死ね」といわれると、それまで、迷っていた人が、自殺ではなく、誰かを巻き沿いにして死ぬ選択をしがちであるというのであれば、何故そうなるのか。
・どのように彼らに対処すれば、防ぐことができるのか、あまりわからない。
LITERAは、藤田氏の提起や、番組での古館伊知郎のテレビでの発言に賛意を示しつつ、次のように書いている。
親族による相談とその後の経緯
「29日に川崎市が行った会見のなかで、岩崎容疑者の親族が一昨年の秋から今年1月にかけ14回にわたって川崎市健康福祉局精神保健センターに相談していたことが明らかになった。社会による効果的なサポートがあればこの事件は防ぐことができたかもしれないのだ。」LITERA 2019.5.30
しかし、この相談は、継続したとしても、効果があったかどうかは、微妙なところだろう。
この相談というのは、報道によれば、80代の老夫婦には、介護が必要となるが、まったくコミュニケーションのない同居人(岩崎のこと)がいて、大丈夫だろうか、という、別の親族による相談だった。
詳しいことはわからないが、そのとき、岩崎に対しては、コミュニケーションを図ったらどうだろうという助言があり、老夫婦がメモを渡したという。文面は公表されていないと思うが、岩崎は、自分のことはやっているから、と相談の姿勢を示さなかったという。そのために、この相談は1月段階で様子を見ようということになった。しかし、2月になって、岩崎は包丁を買い求めたというから、メモをみて、犯行を少しずつ考えだしたことになる。そして、老夫婦に介護のひとが実際に、やってくるようになって、現場の調べなどをして、決行に至る。岩崎は、海外での猟奇的殺人事件の資料をもっていたというから、ある段階で決意をした計画的犯行だったろう。
親族による相談は、かなりの頻度で行われたわけだし、岩崎への働きかけに対する助言もあった。老夫婦が相談の場に赴くなり、あるいは、相談員が訪問するなどのことがあれば、また違ったかもしれない。しかし、おそらく現在の相談活動の体制では、老夫婦がやってくることがなければ、それ以上のことはできなかったのではないだろうか。これ以上のことを実際に可能にするためには、ソーシャル・ワーカーなどをもっと多く配置する必要があると思われる。
藤田氏は、もう少し詳しい事実が明らかになった段階で、どのような対応がとり得たのか、分析をする責任があるだろう。
羽鳥の番組には、解雇され、自暴自棄になって、岩崎と同じようなことを考えていたが、たまたまカウンセラーに恵まれて立ち直ったというひとが出演していた。そして、後日そのカウンセラーも出演していた。
しかし、この事例は、実はあまり参考にならない。そもそも自分でカウンセラーに相談にいくひとは、援助を求めており、なんとか脱出したいという意思をもっている。そうした意思が最も重要な要素なのだが、岩崎に対しては、やり方は適切ではなかったにせよ、働きかけを行い、それを岩崎が関係をもつことを拒否した。
立ち直って、今では似たような境遇にある人へのサポート・相談活動をしているという、その人が受けたカウンセリングは、解雇されて相談にいったときに、「お目でどう、これから新しいことを始められますね」といわれて、あまりに予想外のことをいわれたので、新たに考えなおすことができたというのだが、岩崎は、自分で相談には決していかないのだから、参考にはならない。
窪田氏による藤田批判への疑問
藤田批判の文章も検討しておこう。
窪田順生「通り魔事件「犯人叩き」の是非論争、科学者への過度な配慮が危険な理由」で、彼は、犯罪者をかなり取材した経験があるジャーナリストだそうだ。
https://diamond.jp/articles/-/203880
窪田氏の主張は以下の通りである。
藤田の批判するように、大量殺傷の背中を押していることになる、との指摘に「ごもっともだ」といいつつ、しかし、岩崎容疑者への非難を控えましょうという空気にも危うさを感じる。
疎外感をもっている者に対して、腫れ物に触るような扱いは、かえって逆効果だ。
例 として、1999年の池袋通り魔事件。アメリカにいって再起を図ろうとしたが果たせず、失意で帰国。そんななか、自宅に無限電話があった。そこで、キレた。
下関通り魔事件。 建築設計の仕事がうまくいかなくて、ニュージーランドに行こうとしたが、資金がなく、家族への借金も断られて、社会に復讐しようと思った。
以上の例から、こうした人物に親切にしてやろうという、藤田の主張は誤りだ、
しかし、窪田の説は、藤田氏のいっていることに対応した批判になっていない。藤田氏は配慮せよといっているのに、このふたつの例は、いずれも配慮を求めたが断られたとか、あるいは、自分への不気味な無言電話であって、いってみれば、冷たい仕打ちだったわけである。
岩崎容疑者は、死んでしまったし、同居していた老夫婦は、ほとんど接触がなかったし、もちろん、近所のひとたちも、まったく知らないということであり、かつ、少し前に同居するようになったが、専門学校卒業から、それまで何をしていたかが、まだまったくわからないという。日常生活においても、同じ屋根の下で生活していながら、ほとんど顔をあわせず、食事や必要な金銭も、決まった場所に老夫婦がおいておき、岩崎がそれを受け取るという形だったという。
事実が明らかになって、もう少し、生産的な議論ができるようになるだろう。しかし、すれ違った議論はいくらやっても、有用な結論、対応は出てこないし、いくら善意でも、議論を抑圧するようなことは、問題を解決するとは思えない。論点が対応した議論というのは、難しいのだが。