教育行政学では、古典的な論争として「重層構造論」と「単層構造論」というテーマがある。古くは、東京教育大学の伊藤和衛が前者、東京大学の宗像誠也が後者の代表的な論者だった。今は、法的に前者が規定されているから、表立った論争はほとんどないようだが、理論的な問題としては厳然として残っており、後者の立場にたつ者からみれば、改革の必要性が大きい課題となっている。
端的にいえば、「重層構造論」とは、校長をトップとして、教師が階層的に位置づけられ、ラインの命令系統で仕事をすることが、最も学校の目的をよく達成できるとする論である。それに対して、「単層構造論」とは、校長以外の教師はすべて平等な立場であり、係やその責任者は随時交代して行うのが、学校として最もよい教育ができるとする論である。
教育組織として見れば、単層構造論が正しい。単純に、学校の主要な構成員である教師は、みな同じ仕事をしているからである。つまり、基本的に、自分の教えるべき教科について教え、担任としての役割を果たす。このふたつの機能において、新人もベテランもなんら変わらない。
重層構造は企業の論理
重層構造論は、企業の組織を学校に導入した論理なのである。しかし、企業と学校はかなり違う。一般的に企業には、様々な部署がある。経理、人事、営業、企画等々。更に、別に現場をもっている場合も少なくない。このようなところでは、経理には経理としての人的構成があり、人事や営業もそうだろう。経理や人事を同じ平面において、社長がひとりで統括するわけにはいかない。中間管理職が必要であり、更に部は課に分かれてもいる。そして、それは各々違う仕事をしている。更に、一般的に企業はかなり大きな組織であり、数百人、数千人、大規模な企業では数十万人の従業員がいる。そこで単層構造といっても、空想でしかない。しかし、学校は平均的に50人程度の教職員で構成されている。しかも、やっていることは同じである。
こう考えれば、単層構造論が学校のあり方に適合した原則であることは、多くの人が認めるだろう。
しかし、法は明確に重層構造論に基づいて規定されている。もともと重層構造論は、権力的理論だから当然のことといえるだろう。学校教育法は、小学校の教職員について次のように規定している。
第三十七条 小学校には、校長、教頭、教諭、養護教諭及び事務職員を置かなければならない。
○2 小学校には、前項に規定するもののほか、副校長、主幹教諭、指導教諭、栄養教諭その他必要な職員を置くことができる。
○4 校長は、校務をつかさどり、所属職員を監督する。
○5 副校長は、校長を助け、命を受けて校務をつかさどる。
○7 教頭は、校長(副校長を置く小学校にあつては、校長及び副校長)を助け、校務を整理し、及び必要に応じ児童の教育をつかさどる。
○9 主幹教諭は、校長(副校長を置く小学校にあつては、校長及び副校長)及び教頭を助け、命を受けて校務の一部を整理し、並びに児童の教育をつかさどる。
○10 指導教諭は、児童の教育をつかさどり、並びに教諭その他の職員に対して、教育指導の改善及び充実のために必要な指導及び助言を行う。
○11 教諭は、児童の教育をつかさどる。
ここで不要な部分は省いたが、校長-副校長(教頭)-主幹-指導教諭-教諭という「ライン」が想定されている。副校長と主幹教諭は、管理職として新しいが、日本ずれも「命を受けて」という言葉が挿入されていることに注目すべきである。それまで「命を受けて」という言葉、この教職員の項目には存在しなかったのである。もちろん、副校長や主幹教諭が導入される以前にも、ライン的管理を指導していたわけであるが、このふたつの管理職の導入によって、完成させたということであろう。
教育活動に上下関係は不要
しかし、よく考えなければならないのは、学校と教師にとって最も重要な仕事は、教育活動そのものである。そして、教育は校務と区別され、監督命令の対象ではなく、校長が監督命令権をもっているのは、学校教育法の規定の通り「校務を司る」ことなのである。しかし、校務というのは、日常的にあるものではない。例えば、生活指導の委員、その責任者生活指導主任が、校長に指名されたとしても、実際に活動を始めれば、それは「教育活動」の一環となり、あくまでも教育の論理によって処理されるべきものである。いじめが起こって、学校全体として取り組むとして、それは、校長からの監督命令によっていじめに対応するのではなく、校長が行うのは、指導助言であるべきなのである。指導助言というのは、別に地位が上のものでなければできないのでなはく、要は教育的識見をもっているかによる。もし、校長がおかしないじめ対策をしたとして、(隠蔽などという形で実は珍しくない)それをラインの論理で監督命令などしたら、学校はよい教育ができるはずがない。逆に、関わっている人たちが自由に意見を言い合うことができ、みんなが納得できる方策が採用されていくときに、最もよい解決が可能になるものだろう。校長が優れたアイデアを出したとして、それをみんなが納得すれば、命令する必要など全くないのである。
教育活動において、上下関係はないほうがよい。それは、多くの教育実践の中で、教師と子どもの間でも、同様なのである。
近年、スクールカーストという言葉が広く知られるようになった。学生たちに聞いても、ほとんどの学生が経験している。子どもたち間に、リーダーシップがあることは望ましいが、「カースト」は形成させない教師の実践が必要だろう。子どもは、人間的な価値において平等でなければならないからだ。
しかし、それは教師の間でも同じはずである。もし、教師が違う仕事、困難な度合いが違う仕事をしているのならば、その待遇や給与に、仕事の違いに応じた差を設けることはよいだろうが、教科を教えたり、担任をすることにことについては、大きな違いはない。(指導困難な子どもがいるというようなことは、ここでは別の問題と考えておく。)だから、単層構造こそが、学校の組織としてふさわしいことは自明である。
では、学校教育法で規定されているような身分的な職階をなくしてやっていけるのか。それは、大学を見れば、可能なことが理解できる。大学では、学部長も含めて、交代していく。校務分掌として、それぞれの役割を任期を決めて、選び直し、人が変わっていく。学部長をやった教授が平の教授に戻ったり、あるいは、教務委員として選ばれた人から、教務委員長が選出されて仕事をする。
大学の教師のできることが、小学校や中学校の教師にできないはずがないのである。小中学校の教師のほうが、よほど組織として活動することに慣れているし、スキルも高い。
また、現在はインターネット時代である。インターネットこそ、組織内の平等なコミュニケーションを促進し、かつ能率的にするものだから、単層構造論によりなじむものである。
校長だけは、管理者だし、特別な知識・技能が必要であるので、特別な職階として存在するのがふさわしいかもしれない。しかし、あとの部分は、すべて校務分掌として仕事の分担をすればよいのである。そのほうが、ずっと学校の教育機能は向上するに違いない。