矢内原ノート 東大を追われた理由

 佐藤広美氏の『植民地支配と教育学』の感想を書いたが、そこに「矢内原忠雄論をいつか書きたい」と書いたので、ぼちぼち、少しずつ書きためていこうかという気持ちになってきた。なかなか進展しないとは思うが、50年以上考えてきたことなので、今始めないとできなくなってしまう。

 そこで、最初に考えてみたいのは、やはり、矢内原忠雄の東大追放に関してである。このブログの読者は、あまり矢内原忠雄という人物を知らないと思うので、ごく簡単に紹介しておこう。
 1893年に愛媛県に生まれ、父親は医者であった。近郊で唯一の西洋医学を学んだ医者であり、貧しい人からは医療費をとらなかったという、時代劇によく出てくるような人だったらしい。
 神戸一中から一高、東大へと進み、在学中に内村鑑三の無教会派のキリスト教徒となる。既に両親が死亡していたので、兄弟の面倒を見るために、住友に入社したが、新渡戸稲造が国際連盟の事務局次長で赴任したために、その担当講座(植民政策)の後任として、東大の助教授となった。3年のヨーロッパ留学の後、教授として、次々に優れた学問的業績をあげたが、満州事変後、政治の動向に批判的となり、平和主義的な観点から時局の批判を行った。そのために、東大の教授を追われることになり、戦争が終わるまでは、キリスト教の伝道の仕事に専念する。
 戦後東大に復帰し、経済学部長、社会科学研究所長、教養学部長、総長を歴任し、1961年に没している。
 岩波から全集がでているが、その他、戦時中に行った宗教的著作の講義を集めた『土曜学校講義』、個人雑誌として刊行していた『通信』『嘉信』が、出版されている。

 矢内原忠雄は、植民政策の学問的業績も一流であり、当時の「植民地政策」の片棒を担ぐようなものではなく、科学的な研究を志向したものだった。そして、内村鑑三が開いた無教会派のキリスト教の中心的な担い手であり、特に、戦争色が濃くなり、抵抗の姿勢を強めていったときには、預言者的自覚で伝道にあたった。
 戦後は大学復興のための組織者としての活動が増大し、少なくとも学者としての活動はかなり限定されていた。しかし、旧制大学から新制大学への以降期に、特に新しくできた教養課程(教養学部)の形成に尽力した。しかし、学生運動が激しい時代でもあり、その中で教育を守るための活動には、かなりの苦労があった。
矢内原事件とは 
 戦前は、思想の自由などはなかったから、大学に限らず、学問の自由や思想信条の自由をめぐって、いくつもの弾圧事件があった。なかでも、日本が15年戦争に入り、軍国主義化していくなかで、自治がかなり認められていた大学でも、弾圧が起きる。代表的には、美濃部達吉の天皇機関説事件、京都大学の滝川幸辰事件、東大の森戸辰男、津田左右吉の事件などが有名である。しかし、これらは、矢内原事件とは性質が異なる。美濃部、滝川事件は、それまでは官僚の世界の有力が考えであったのが、政治や社会が軍国主義に傾いていったために、許容範囲からはみ出したことによって、糾弾された性格が強い。別に時局に対抗して言論活動をしたために弾圧されたわけではない。また、森戸事件や津田事件は、学問の内容そのものに対する介入であって、その学問が、当時の政治批判のために行われたわけでもなかった。もちろん、そのような学問研究をすること自体が、勇気あることだったことは事実であるが。
 それらに対して、矢内原事件は、矢内原忠雄が、満州事変や蘆溝橋事件などの、戦争拡大政策に、はっきりと批判をしたために、東大を辞職せざるをえなくなったわけであるが、矢内原自身が、そのことは充分に予想していたに違いない。だから、預言者という自覚をもって、少し前から活動している。辞職後、岩波書店が、矢内原の生活を援助する目的もあったといわれているが、新しい「岩波新書」シリーズを創刊し、矢内原は、『余の尊敬する人物』『奉天三十年』上下、クリスチーの翻訳を刊行しているが、尊敬する人物として、エレミヤ、日蓮、リンカーン、新渡戸稲造をあげている。いずれも、時代の趨勢に反して信念を貫き、非難を浴びた人物である。エレミヤは文字通りユダヤ教の預言者であり、弾圧される。日蓮も同様である。リンカーンは、英雄でもあるが、暗殺されてしまう。反対者も多かったということだ。新渡戸稲造は、晩年、日米開戦の機運が高まってきたとき、日本の立場を理解させるためにアメリカに渡り、理解されないままなくなっていた。矢内原が実際に授業を受け、親しくした時期もあり、そして講座の後任でもあった。

追われた理由の3つの解釈
 さて、彼は何故昭和12年、東大を追われることになったのか。
 私は、ずっと単純に軍国主義的な戦争政策に真っ向から立ち向かったためであると、解釈してきたのだが、多少違う理解もあるようだ。日本の植民地政策に一貫して批判的であったから、右翼勢力からはずっとにらまれていたわけだが、それが次第に表面化してくるのが、満州事変である。満州事変を、ただちに日本軍のフレームアップだと見抜いた矢内原は、満州現地の軍や政府関係者からの招待を断って、独自の調査にいき、批判を強めていく。そして、決定的になるのが、蘆溝橋事件をきっかけに、日中戦争に進んでいく政治に対して、容赦のない批判を公表していくわけである。
 しかし、それは学問的な論文よりは、キリスト教徒としての立場からの批判という形をとっていた。『中央公論』に発表された「国家の理想」、藤井武七周年記念講演会の講演「神の国」が、東大経済学部教授会でやり玉にあげられ、前者だけのときには、長与総長も庇っていたが、後者が現われるに及んで、庇いきれないとしたので、矢内原が辞表を書いたわけである。「神の国」のなかには、「いったんこの国を葬ってください」という言葉があったことが、命取りとなったとされている。
 「国家の理想」も、ほとんどは聖書からの引用がなので、赤江達也『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』(岩波新書)は、矢内原への弾圧は、キリスト教に対する弾圧がより厳しくなって、矢内原に及んだのだという位置づけになっている。しかし、この立場は、あまり納得できない。やはり、単にキリスト教を広めていたからではなく、戦争を拡大していく政策を真っ向から否定していたから、許すことができなかったというのが、自然な見方だろう。東大を辞めてから、矢内原はキリスト教伝道一本に絞って活動していくのであるが、実際に彼が主張していることは、時局批判であるとしても、あくまでも「聖書講義」をしていたために、様々な圧迫はされるが、活動そのものを禁止されることはなかったのである。
 第三の解釈がある。それは立花隆によるものだ。『天皇と東大』Ⅲ(文春文庫)で、矢内原事件を扱っている。立花は、「国家の理想」と「神の国」を利用したのは、矢内原を庇うためのカモフラージュであったとしている。そして、このふたつの文章よりずっと危険な文章を矢内原は書いており、その時点では、まだ直接的な攻撃対象になっていなかったので、このふたつの文章をもって、東大を去らせたというのである。そのもっと危険な文章とは、「日本精神の懐古的と前進的」という『理想』(昭和8年)という雑誌に掲載された論文だという。そして、それは『民族と平和』(昭和11年)という論文集に掲載されることになる。この論文は、極めて難解な学術論文で、『理想』というあまり読まれない実際に掲載されていたので、あまり注目されていなかったが、蓑田胸喜は、批判論文を書いていた。蓑田に注目されることは、当時のリベラルにとって、危険なことだったが、蓑田論文も極めて難解だったために、これまたあまり注目されなかった。しかし、『民族と平和』にいれられたことで、矢内原を心配するひとたちは、かなり気にしていたらしい。この論文は、天皇の「神性」と「人性」を扱ったもので、いろいろな学説を検証しながら、結局、天皇の「神性」を否定し、「人性」としての天皇を尊重するという論旨なのである。「天皇は神聖にして侵すべからず」という帝国憲法の天皇規定を否定するもの、つまり、「国体」を否定するものと解釈される文章なのである。蓑田の批判がどこまで踏み込んだものかわからないが、「国体の否定」は治安維持法違反となるから、最悪死刑もありうることになる。そのために、長与総長たちは、「神の国」のことを言い立てて、注意をそらした。もし、庇っているうちに、右翼が、「日本精神の懐古的と前進的」を問題にしはじめたら、襲われたり、思想犯とされる、だから、まだそうならないうちに、辞職させたほうが、矢内原にとってより悪い事態を避けられるというものだった。これが立花の解釈である。実際に、『民族と平和』は発禁処分となり、矢内原は検察の取り調べをうけている。ただ、辞職したあとだったので、裁判・有罪という事態は避けられた。
 矢内原を庇うためのカモフラージュだったのか、自分たちの身も危うくなる危険を感じたから追い込んだのか。検討の余地はあるが、本当の問題は、国体批判だったという立花の説は説得力がある。
 辞職の8年後、日本は敗戦を迎えるが、矢内原の言ったように、大日本帝国は滅んだし、国体も消滅した。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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