ポピュリズム考察 ゲッベルスと私3

 ハンゼルの解説の検討に移る。
 彼の解説は、極めて明確な一本のラインに貫かれている。ナチスと現代のポピュリズムは基本的に同じ性格をもっており、多くの国民の無関心がナチの台頭を許したのと同じ危険を、現代のポピュリズムに関する状況は示している。つまり「無関心」ということだ。ポムゼルのインタビューから教訓を引き出すとすれば、彼女のような状況に対する無関心な態度をとっていたら、大変になるということを知ることだというのである。
 しかし、現在世界中でみられるポピュリズム政治家が示しているものは、本当にナチと基本的に同質なのだろうか。そして、それに対する無自覚が支配的なのだろうか。
 ナチは合法的に選挙で勝って、政権を手にしたのだといわれることが多い。しかし、それは適切とはいえない。選挙で勝ったのは事実だが、その選挙戦術は実に汚いもので、暴力で政敵を抹殺しようとするような、暴動に近いことを各地で行っていた。それこそナチに明確に反対する勢力に投票することは、命の危険すらあるという印象を与えつつの選挙戦術だったわけである。ナチが、大衆動員を得意とするポピュリズム的な政治ムードを作りあげることに成功したのは、政権をとって、ゲッベルスが宣伝省を務めるようになってからといっても間違いではない。
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オランダ留学記92 1到着と学校入学

(これまで書きためたり、発表してきた文章をまとめて公刊していくことにしました。Kindleを考えています。そこで、ここに登校しながら、原稿の整理をしていくつもりです。まず第一に二度オランダに留学したときの、日本への送信(ニフティ)を材料にして、書いていく予定です。なお太字の部分が、当時日本に送った文章です。)

はじめての外国

 香港、パリの空港を経由して、アムステルダムのスキポール空港についたのは、1992年8月12日だった。26時間の長旅だった。真夏だったが、朝8時に到着したからか、ずいぶんとひんやりしていた。ライデン大学日本学科の?さんが車で迎えにきてくれて、そのまま予約したホテルに直行した。本当はこんな朝早い到着の客などないのだが、そこは快く受け入れてくれて、部屋に。普通のホテルのイメージとは全くちがって、かつての裕福な家をホテル用に改装したもので、ライデンから、これから住むことになるウーフストヘーストあたりには豪邸が並んでいる。しかし、家族が住んでいる家はほとんどなく、税金が高いので手放してしまい、企業の事務所や分割した住居になっているのがほとんどだそうだ。だからこのホテルも昔風の家の作りで、落ち着いてはいるが、床がみしみし音がして、ちょっとタイムスリップしたような感じだ。
 まず初めにやらなければならないことは、大使館と市役所にいって手続きすることだ。市役所の手続きはよくわからないので、引っ越してからということにして、早速ハーグの日本大使館にでかけた。大使館といっても、ちょっと大きめの一軒家という感じで、お金持ちの友人宅を訪ねるような雰囲気だったし、非常に態度が悪いと脅されていた大使館員の人も、まあ親切で、特に面倒なこともなく手続きが終了した。
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学校教育から何を削るか8 部活

 教育実習の研究授業を参観に行ったとき、元校長だったという人が教育委員会から派遣されていて、一緒に授業をみたのだが、そのあと、帰るときに、駅まで車で送るというので、車に乗せてもらったことがある。教育学者である私の意見を聞きたいことがあったようなのだ。車が発車するとすぐ、「部活についてどう思いますか?」と聞いてきた。私は、相手が元校長だというので、率直に持論を述べた。「部活は、以前は意味があったと思うが、今では制度疲労を起こしている。学校教育としてはやめて、社会教育に移すべきであると思う」といった。すると、その元校長は、自分が校長時代、部活の顧問を見つけるのにいかに苦労したかを縷々述べ、部活がなくなってほしいというのだ。正直、校長がそう思っているというのは予想外だったので、少々驚いたが、同志をえたと思われたのか、話がはずんだ。
 部活は時代遅れである、現代に合わないということは、他のブログでも散々書いてきたし、授業でも、「そういう考えもある」という形で、見解を紹介してきた。本心そう思っている。
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「教育」を読む2019.5 政治的中立性と教育の自由

 2019年5月号の第二特集は、「政治的中立性と教育の自由」である。通常、特集に関しては、取り上げる趣旨などが、編集後記に記されるものだが、この第二特集については、委員長である佐貫氏が担当したことのみが記されている。したがって、何故今この特集がくまれたのか、正確な理由かわからないのだが、昨年の大会で、後援をしていた川崎市教育委員会が後援をおりるということがあったことが、佐貫氏の論文に書かれており、それも契機のひとつだったのだろうと想像する。酸基院選挙の結果によっては、憲法改正問題が国会に提起される可能性がないわけでもないという、そうした意思も働いているのかも知れないが、第一特集の「教育実習」ほどには、テーマの凝縮性が乏しい気もする。
 5本の論文・対談が掲載されている。
・中嶋哲彦「公権力規制原理としての政治的中立性」
・金子奨・菅間正道 「憲法改正論争事態」で教師は?
・富田充保「意見の違いこそ政治の原点」
・中田康彦「教育を非政治化するという政治化の動き
・佐貫浩「教育研究運動と政治的中立性
 主に、中嶋論文を材料に考えていきたい。
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鬼平犯科帳 事実と小説とドラマ1

 森鴎外に「歴史其儘と歴史離れ」という短い随筆があり、歴史小説を書く際の事実をどのように扱うかを、自作について説明している。鴎外は、基本的に事実を自然に書くようにしていたそうだが、「山椒太夫」では、事実と伝えられる(といっても事実かどうかは分からないのだが)内容の不自然な部分を訂正して、変更をしたが、それは自然さを意識したものだという。実際の鴎外の小説が、かならずしも事実と合致しているわけではないことは、「阿部一族」などがあげられるが、鴎外の姿勢は「自然」の重視であると確認できるだろう。
 鬼平犯科帳に描かれた長谷川平蔵は、実在の人物であって、実際の功績も記録にある程度残されており、研究書から小説まで、様々なジャンルで扱われている。小説仕立てではあっても、長谷川平蔵の筆によると思われる『御仕置例類集』を素材にした『長谷川平蔵仕置帳』(今川徳三)のような書物もある。残念ながら、長谷川平蔵自身の「著作」は存在しないようで、当時の記録としては、『御仕置例類集』として残されている長谷川平蔵の扱った事件の裁きの記録が、彼の仕事を知る上で最もよい材料のようだ。当時の老中松平定信が書いた書物や、定信が調査させた記録(『よしの冊子』)他若干の記録等があるが、いずれも適切な人間長谷川平蔵を表したものではないようだ。歴史に埋もれていた人物である長谷川平蔵を世に知らしめたのは、池波正太郎で、池波は最大限歴史的事実を尊重したが、事実と明らかに異なる面もたくさんある。それが、資料の読み違い、あるいは資料を入手できなかったためとされる例もあるが、知らないはずがないのに、事実と異なる面もあり、それは池波による「歴史離れ」と考えざるをえない。
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学校教育から何を削るか7 教育研究指定校

 初めから優れた授業ができ、子どもとの関係を理想的に築き、すばらしい、楽しいクラスをつくることができる教師などはいない。失敗を繰り返し、反省し、克服していくことで、教師も成長して、自分の理想とする実践ができる教師をめざしていくのである。教師の成長を助ける大きな要因は、校長の優れた指導性にある。校長として、教師を鍛え、育てて、学校全体で優れた実践を行うレベルを達成させた代表的な人は、斉藤喜博である。斉藤喜博の著作は、教師を叱咤激励し、よい授業と悪い授業を分析し、教師としてすべきこと、してはならないこと等々を、たくさん示している。斉藤喜博の行った実践は、既に大分昔のことになったが、教育の原点は時代によって大きく変わるものではない。
研修に必要なこと
 教師の多くは公務員だが、教育公務員として、一般公務員とは別の法律が存在し、そこでは教師だからこその特別規定がある。一般公務員も研修を受けるが、教育公務員は研修が特に重視されている。研修が全体として重視され、設置者は研修の機会を与えるとともに、初任者研修や十年目の研修など、特別の制度も設定されている。教師としての力を発揮できていないと認定される、現場を離れて研究を受けさせる規定まである。法は、いかにも教師の成長を助けるように配慮されているように見える。
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オランダの不登校問題2 対応策

 オランダの不登校に対する対策を考える前に、日本の義務教育制度との相違を再度確認しておく必要がある。
オランダと日本の義務教育システムの違い
 第一に、日本の法律では、国民は教育を受ける権利をもっていること、そして、保護者は保護する子弟に、普通教育を受けさせる義務を負っていることが決められている。つまり、子どもには、「教育を受ける義務」あるいは「就学義務」はない。「就学義務免除」という概念はあるが、それは保護者が「就学させる義務」を免除するということであって、事実上は、子どもの就学義務の免除であるが、法律的な意味はまったく異なる点である。しかし、オランダでは、学齢の子どもの就学義務が規定されている。したがって、義務違反は子ども当人に及ぶことがある。
 第二に、日本の義務教育は、その修了や認定が極めて曖昧であり、ほとんど不登校であっても卒業証書を受け取ることができるが、オランダは落第があることからもわかるように、違法な欠席が長ければ、義務教育の修了が認定されず、後の生活に支障をきたすことになる。
 第三に、日本の義務教育は6歳から15歳と短いが、オランダでは5歳から18歳未満まで、つまり、成人になるまでと長い。18歳の段階で、決められた義務教育の課程の修了認定を受けられないと、23歳まではそれを再履修して取得することを指導される。
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いじめ防止対策推進法改訂論議 教師への懲戒処分??

 4月26日の毎日新聞や東京新聞に、いじめ防止対策推進法の改正を目指す超党派議員による議論で、教師への懲戒処分の項が削除されていることについて、論議になっていることが報道されている。特に遺族の立場から批判がなされているという。2月に改正論議が報道されたときにも書いたが、今回は、異なる局面になっているので、再度書くことにする。2月には、「懲戒規定は必要だが、責任をとるのは校長である」という趣旨の文章を書いた。その後の議論で、教師への懲戒そのものを削除するという方向になり、それを批判する議論があるというので、そもそも、いじめによる被害に対して、だれにどのような責任があるのかということを、整理してみたい。
 率直にいって、遺族の側から、教師を懲戒処分にすべきであるという議論が出ていることに、私には強い違和感を感じる。
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オランダの不登校問題1 不登校の現状

 事情があって、オランダの不登校を調べてみた。
 オランダは子どもの幸福度調査で、世界一になったことがある。つまり、世界一幸福な子どもというわけだ。しかも、オランダの教育は自由なので、オランダの子どもたちはストレスもなく、みな生き生きと学校生活を愉しんでいるという思い込みが一部にある。だから、不登校などあまりないだろうし、オランダから学ぶことが多いのではないかと考えるわけである。もちろん、オランダから学ぶことはたくさんある。しかし、上記のことは、ほとんど間違いであると、私は思っている。オランダの子どもだって、ストレス多い生活を営んでいるのである。考えてほしい。オランダの子どもは12歳で、人生の重大な選択を迫られるのだ。ドイツの多くの州と同様に、オランダも中等教育の三分岐制度を維持している。ドイツは、PISAの成績が極端に悪かったので、その反省から二分岐制度に移行しつつあるが、オランダはそのままである。どの学校種にいくかは、人生を大きく左右する。もちろん、やり直しはきくが、それでも大きな選択であるには違いない。こうしたことが、ストレスにならないはずがない。しかも、その選択には、全国的に行われる試験の成績にかなり左右されるのである。
 オランダは、基礎学校(幼稚園と小学校が一緒になった八年制の学校)に関して、完全な学校選択の自由がある。選んだ学校だから満足度は高い。しかし、教師との相性、友人関係など、学校にいくのが不安になって、不登校になる子どもは、少なくないのである。他方、不登校の子どもを援助する団体や人員も配置され、活発に活動している。
 そこで、最初に、オランダにはどの程度の不登校がいるのかを確認し、次に、不登校対策がどのように行われているかをみてみよう。
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学校教育から何を削るか6 慣習的な作法

 私は基本的に効率主義であることを、最初に断っておく。1時間かかることを、30分でできるようになれば、それはとてもよいことであると考えるし、30分でできることを1時間もかかってやるのは、大いに改善の余地があると考える。常識的な感覚だと思うが、実は、学校教育の「慣習」のなかには、非常に多くの「余計に時間をとる」ものが多いのである。授業時間は決まっているのだから、そうした慣習的時間の無駄があれば、それだけ授業の実質的内容は減少する。
 私が無駄と感じている最たるものは、教師が質問し、子どもが挙手し、さされた子どもが立ち上がって答える。最近は、「いいですか」と当の子どもがみんなに問いかけ、「いいです」との答えがあると、座るという一連の行為がある。
 このやり方は、時間の無駄であるだけではなく、いくつかの教育上の問題を含んでいる。
 まず時間だ。単純に、指名されてから、立ち上がり、椅子を整え、回答してから、「いいですか」と聞いて、「いいです」を確認してから、また椅子をひいて座る、という一連の動作にかかる時間を、測定すると、だいたい大人で20秒程度であり、小学生なら30秒はかかるだろう。一度の授業に何人答えさせるかは、もちろん一定ではないが、多くの教師は、できるだけたくさんの子どもを指名して答えさせたいと考えているだろう。20名答えるとすると、その慣習的行為だけで10分必要となる。45分授業が、実質35分授業になってしまうのだ。教師であれば、最後あと5分あれば必要なことをできるのに、と思った経験はだれでもあるだろう。それが10分ロスなのだ。
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