『教育』2019.9を読む 「誰もが何かのマイノリティ」

 『教育』9月号の第二特集は「誰もが何かのマイノリティ」である。これも意欲的な企画だと感じるし、また執筆者が、私にとっては非常に新鮮であった。企画の趣旨は、マイノリティの配慮が、逆に「やわらかい排除」になってしまうことのないような、「普通の人」のなかにある多様性を見つめ、多様な人たちが多様なままに生きられる社会をめざすと書かれている。非常に意味のある提起だと思う。しかし、ものごとは単純ではないように思うのである。それを少し考えてみた。
 最初に喜久井ヤシン氏の『「ふつうの人」ってなんだ問題』という文章がある。
 一緒にボートにのっていた兄が嵐にあって転覆し、死亡してしまったことをずっと悩んで、カウンセリングにかかっている高校生を描いた『普通の人々』というアメリカ映画があったが、正直あの映画で、何が「普通の人」なのかはよくわからなかった。喜久井ヤシン氏の文章も、「ふつう」ということの難しさを語っている。氏は、不登校、引き籠もり、フリーター、ゲイという様々な普通でない属性をもっている。だから、「ふつうになりたい」と思っている。ふつうじゃないと、なぜそうなのか説明しなければならない。しかし、説明しても、なかなか理解してもらえないだろう。同じひきこもりのグループにいけば、異質ではなくふつうになる。結局、ふつうとは、「説明する必要がない」状態である。だから楽なのである。
 しかし、氏が望んでいるのは、「世の中には、ひとつだけのふつうがあるのではなく、たくさんのふつうがある」という見方に変わっていくことであり、そこに、情報発信と受容があって、ふつうのあり方を動かしていくということであるという。
 これは、編集部から与えられた題だから、このような書き方になっているのかも知れないが、氏のいわんとしていることには、多少の矛盾があるように思う。氏がいうように、「ふつう」であれば、説明は不要なのだ。ふつうでないから、ここの言葉でいえば、マイノリティだから説明が必要で、情報発信して理解してもらう必要がある。結局、自分と異なる属性をもった人のことは、説明されなければ、深くはわからない。違ってもいい、共生できるという強固な信念の持ち主にとっては、相違に意味はなくなるから、「ふつう」に包含されるはずである。おそらく、氏の本当にいいたかったことは、違いを認めて情報発信して受容しようということだろうと思われる。
 次の島本優子氏の「線引きと痛み」は、東京国立市の公民館内にあるコーヒーハウスの活動を紹介している。公民館が主催するスポーツ、クラフト、料理など7コースにわかれ、月に1回開かれる。活動している人たちは、障害者手帳をもつ「メンバー」とそうでない「スタッフ」とに分かれている。この線引きが境界線という意識となり、その境界線を超えようとする実践をするのだが、最後まで違いが残ることになる。島本氏によれば、区別していいのだろうかという割り切れない意識をもつことが重要であり、それで初めて同じ人間同士としてのつながりができるという。
 鈴木直文氏の「ダイバーシティサッカーという挑戦」では、様々な障害をもつメンバーが一緒にフットサルをする活動を紹介しているが、ここではあえて違いを無視したチームを結成して試合をする。そこでは、「カテゴリーの消失体験」がおきるという。そこから、鈴木氏は、「複線的で包摂的な社会制度の実現」を目指す。それには、楽しみを介してつくられる居場所がたくさんつくられること。自分らしさを見つけあう場を通じて、いまの社会が取りこぼしている生き方のニーズを拾い上げることができる。そして、マジョリティにとっての気づきの機会になる。
 多くの人は、彼らは自分と違う、その違いは彼らの責任であると思いたいのだが、それを乗り越えるには、多様な他者が出会う場が必要である。
 残りのふたつは、また別に扱うとして、ここまで読んで感じたことをいくつか書いておきたい。
 少なくとも、「誰もが何かのマイノリティ」ということが示された文章がない。これは言葉の通りに、本当にそうなのだろうか。「お前にだってマイノリティ部分があるだろう」と言われて、みながそうだと同意するのだろうか。この特集では、線引き問題が複数の執筆者によって論じられているが、その線引きは、ごく通常言われているマイノリティと健常者のことである。「誰もが何かのマイノリティ」という場合、それは健常者だって、実はある面でマイノリティなのだという意味だろう。もちろん、誰にも、得意不得意がある。例えば、音が正確に認識できなかったり、あるいは正しい音程をとれなかったりする人がいる。普通、「音痴」と呼ぶが、彼らをマイノリティとか、音障害者とかいわない。彼らだって、マイノリティではないかという主張が、この特集にはこめられているのたろうか。しかし、通常、音をより正しく認識できるようにしたり、正しい音程をとれるように、教育的努力をするだろう。そういう努力は間違っているのだろうか。数学が弱い人、運動神経が低い人、彼らは、学校で確かに弱い人として扱われる。だから、差別したり、いじめたりしていいということにはならないが、しかし、そのままでいいという対応は、教育ではしないだろう。もしその状態をマイノリティと呼ぶならば、教育はマイノリティからの脱却を目指すわけである。
 違う見方をして、弱い部分が誰もにでもあるのだから、障害や民族、人種、宗教なども、お互い誰でももつ弱い部分として見ることにしようという意味なのだろうか。しかし、それでは、「合理的配慮」とか、「特別支援」というような概念が出てこないのではなかろうか。そして、それぞれのマイノリティとしての「相違」が無視されてしまわないか。車椅子の人たちが生きやすいようにするための合理的配慮(例えばエレベーター設置)と、民族差別されていることの対応とは、まったく違うわけである。
 もちろん、事実として、誰にもマイノリティ要素はある。私も高齢者になり、嗅覚が非常に弱くなって、普段はほとんど匂いを感じなくなっている。しかし、現在の社会では、嗅覚がなくても生きる上でほとんど不便はないので、嗅覚障害という言葉、一度だけ使われているのに出会ったが、ほとんど言われることがない。そもそも人類は、文明の進歩とともに嗅覚を弱体化させたきた。遺伝子レベルでは、犬と同じくらい強い嗅覚をもっているが、それが発現しなくなっているわけである。嗅覚は、危険察知のために必要な感覚だったが、今は、嗅覚で危険察知する必要はほとんどないので、生活上不便がないわけである。
 だから、障害を社会が作り出すことがあるということだ。読字障害などがそうだ。近代以前は、字が読めない人はいくらでもいたし、字が読めなくてもこまらない人もたくさんいた。だから、当時は、読字障害などはなかったはずである。しかし、全員字が読めて、意味がわかり、書くこともできることが、普通のことになった。だから、単に憶えが遅いとか、不確実だというのではなく、どうやら脳神経系の問題でその機能が一部欠けていると、障害と認識されるようになった。そのような障害は昔からあったろうが、字と無縁な生活をしていた人は、そうしたことが実生活のなかで認識されることはなかったのである。現代であれば、それは生活上不便だから、可能ならば、なんとかトレーニングで障害を克服するか、あるいは、代替機能を使って補完できるようにするだろう。
 これまでの検討で、「誰もが何かのマイノリティ」の意味がまだ充分には明確になっていないこと、また、そうしたマイノリティ要素をどのように扱うのかということが、差別や排除の対象にしないという以上のことは、まだはっきりしないことが感じられた。残りのふたつの文章で、もう少し明らかになるかも知れない。(つづく)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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