黒染強制から考えること

 9月4日の毎日新聞に、「東京都教委 都立中・高「黒染め指導」禁止周知へ 全校長会合で説明」という記事が出ていた。黒髪ではない生徒に、黒く染めるように指導するのが「黒染め指導」で、ほとんどなくなっているのかとも思っていたら、まだかなりあるようで、大阪府の訴訟や市民運動による要請をきっかけとして、このような周知徹底がなされたということだ。もっとも、このような指導は何度もなされているようだが、あまり効果があがっていないことが、こうした説明会の開催に現われているともいれる。
 毎日新聞には、この問題に関する記事がいくつもある。大阪の訴訟は、生まれつき茶色の毛髪だった高校の女子生徒が、1,2週間ごとに指導をうけ、度重なる染色で髪がぼろぼろになったという。「母子家庭だから茶髪にしているのか」と中傷されたり、指導の際に過呼吸になったりしたという。文化祭・修学旅行に茶髪を理由に参加させてもらえなかった、そういう事情で訴訟を起こしたわけである。損害賠償請求の訴訟だから、訴えの利益がないということで、却下されてしまうことはないだろうが、こういう提訴は、勝敗に関係なく社会的に大きな影響がある。そのひとつが東京都の説明会であろう。
 毎日新聞によると、地毛登録制度が導入されている学校もあるのだとか。
 多くの人にとって、地毛が黒ではない場合、わざわざ黒に染めさせるという学校の指導について、理解できないだろう。髪を染めることを禁止しておきながら、黒以外の髪だと、黒に染めさせるというのは、誰がみても不合理であり、納得できる説明は考えられない。
 実は、私の娘は天然パーマだったので、入学前はけっこう心配したものだ。親が私のような者だったので、学校は何もいわなかったのか、あるいは、その学校は緩かったのかわからないが、パーマ禁止条項をもちだされることはなかったが、学校によっては言われたかも知れない。

他にもたくさんある同調圧力
 この文章を書こうと思ったのは、こういうことはおかしいと言いたいからではない。ここまで不合理だと、多くの人がそう思うが、実は、同じような現象は、学校に限らず非常に多くあるにもかかわらず、多くの人が当然と思っている、ということ、そして、そういう社会風潮が、日本の停滞を生んでいるということを言いたいためである。
 学生が就職活動をする際には、かならずリクルートスーツという黒いスーツを着ている。この就職活動には、大学のなかで、企業の人や役所(公務員就職)、教育委員会(教員)の人たちが説明にくる場でも、必ずそういう服装をする。教員採用試験には、大学推薦の制度がけっこうあるのだが、そのための内部試験のときにも、黒のスーツ直用が義務づけられている。まだ、そうしたことがあまり徹底していない時期に、面接にやってきた学生が、普段の服装だったため、ある学部の教授がすごく叱りつけたものだ。他の教師たちはとりなしていたが、その後は、面接の際にはスーツ着用と記載されるようになった。こういう雰囲気があると、他の場にもそれが広がっていく。
 おそらく教員採用試験で、黒のスーツではない服装で受験する人は、ほとんどいないだろう。教育委員会が、事実上、そうした雰囲気を作り上げておいて、学校では、黒にすることを強制するなというのも、ダブルスタンダードのような気がしないだろうか。黒染めというのは、同調圧力の象徴のようなものであり、髪の毛という「自然」のものを変えさせるのは、いかにも不自然と誰にも思われるが、服装や動作、持ち物などを「等質にさせる」ものは、学校社会ではいくらでもある。それだって不合理ではないか。義務教育は本来無償なのに、スポーツウェア、鞄、バッグ、教具など、強制的に同じものを買わされるものがたくさんあり、それがかなり大きな額になっている。私からみれば、これらは不合理に見える。しかし、そう思わない人も多いのではないだろうか。

同調圧力社会では成長にも圧力がかかる
 しかし、現代社会はどのような社会なのか。みなが同じ発想をしたり、同じ行動をとったりして、発展するような時代ではない。これまで考えなかったような発想で行動してこそ、意味のある活動になるという社会になっている。それは決して、一部のエリートだけに求められているのではない。学校の教師にとっても同じである。以前のように、教えるべき内容を理解させ、試験でいい点をとれるように指導し、よい学校にいれて、大学や高校はそうした学生を社会に送り出していれば、産業が活発に機能した時代であれば、その決まった内容を教え込めばよかったし、そうした時代には、いじめや不登校が、大きな教育問題になったりしなかった。服装検査なども、厳格にやる必要すらなかったのである。なにしろ、中学生男子は全員坊主、というルールをつくれば、抵抗する者もほとんどなく、丸刈りにしていたからである。
 いまはそういう時代ではない。子どもたちは、多様な問題を抱えていて、それを解決しなければならないという社会的要請が学校や教師に課せられる。親たちの要求するものも、人によって違うし、非協力的な親もいる。そういうなかで、決まったパターンの対処法など存在しないのである。もし、多様性を考慮しない問題解決などしようとしたら、逆に問題を拗らせることになるだろう。また、逆に考えて、そうした同調圧力に進んで従うような子どもであれば、今の社会を担っていく活動力が欠けているといわざるをえない。

 さて、こうした同調圧力は、ほとんどルールを媒介にする。学校では校則である。
 同調圧力のない学校をつくるためには、校則を最小限にする必要がある。ルールがあるから守らせる必要が出てくる。違反者の指導や取り締まりが必要になる。それほど大きくない組織では、ルールなどは、実際にはほとんど必要ないのである。
 多くの人が、当然あるべきだと思うことへの反証として、テストのルールをあげておこう。(入学試験は、まったく別の性格をもった試験なので、ここで書くことには当てはまらない。)
 テストには、定刻までに席に着いていることとか、カンニングをしてはいけないとか、**の使用は禁止などの禁止ルールがけっこうあるだろう。私の大学でも、ごくたまにだが、試験の不正が教授会で議題になることがある。たいていは、そんな禁止事項なくてもいいのではないかと、少なくとも私には思われるようなルールで、不正と認定されていた。
私のルール廃止試験の試み
 おそらく、やっている人は、ほとんどいないだろうが、私は、かなり変わった試験のルールを実行していた。それは、一切の禁止ルールをなくすということである。ただし、ひとつだけ絶対条件としたのは、「答案は自分で書く」ということだ。
 試験については、最初から何をみてもいい形にしていたが、あるときから、「何をみてもいい、どこかにいって調べ物をしてもいい、インターネットに接続して調べてもいい。友達や友人に聞いてもいい」ということにした。試験ではなく、レポートでは、実はこういう条件で学生たちは書いているのである。もしかしたら、他人に書いてもらった可能性だってある。しかし、そういう自由さを、レポートに関しては、不公正だなどと誰もいわない。せいぜいコピペ禁止くらいで、コピペは摘発可能だが、他人が書いたかどうかは、調べようがない。そうなら、試験で同じ条件でやってもいいではないか。
 上記のような試験を10年以上続けたと思う。(ただし、試験をやっていたのは、一科目のみ)結果はまったく不正はなかったと思う。もともと人数が多く、大教室で授業をしており、そこはテストには不向きなので、別の小さな教室を3つほどおさえて、そこで分散して試験をするのである。そういう場合、通常は監督を別に頼むのだが、私は頼まずに自分ですべてをみていた。みていたといっても、時々見に行くことしかできない。逆にいえば、監督する必要がないので、実に楽なのだ。
 不正がないということは、まず教室で他人に書いてもらえば、まわりの学生にわかるのだから、もしやったら、私に知らせてくるだろう。図書館にいって書いてくると出かけた学生が2組いたが、いずれも字体と内容が異なっていたので、自分で書いたことがわかった。あとは、禁止事項がないので、違反のしようがないわけである。
 しかし、違反がほぼできないようにするしかけは確実に実行した。それは、論述問題を3題だすことである。通常大きなテーマの論述問題は90分の試験では1題しかださない。それを3題だすのだから、学生たちは必死になる。つまり、常識的には、90分でこなせないような問題をだすわけである。だからといって、単位認定が厳しいわけではない。少ない時間で書くのだから、それを考慮した採点基準にすればいいわけだ。つまり、誰かの答案を見せてもらおうとか、誰かの答案を書いてあげようとか、そんな余裕はまったくないようにしておく。だから、不正はなかったと、今も確信している。
 そういう方法は、私のオリジナルではなく、院生時代に、名古屋大学の数学科を出た人が教育学の大学院にいて、当時のテストのやり方を教えてくれたのである。その試験は、私の条件よりもっと緩く、時間制限もなく、誰か教授に聞きにいってもいいというような試験だったそうだ。しかし、大学の数学の問題というのは、教授に教わっても、理解できなければ、きちんとした答案がかけるわけではないのだそうだ。だから、あらゆる参考になるものを使って書いてこそ、実力がわかるという考えなのだそうだ。
 それは、試験やレポートを単に理解度を測るものではなく、これを機会に、最大限の努力をさせる道具だ、と考えれば、このような方法は実に合理性があるのである。つまり、人間は自由にしたときに、もっとも努力をする人は伸びるのである。

 学校や社会の不要なルールは、伸びる要素を抑圧しているだけなのだ。黒染指導とか、服装指導とか、無意味な指導に時間を費やして、子どもたちの発想を潰すのはやめよう。(ただし、ある一定の条件の下では、厳しい服装指導が必要な場合があることを否定しない。)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です