『季刊臨教審のすべて6』にある香山健一氏と山住正己氏の対談を読んでいると、なかなか興味深いやりとりがあった。第三次答申のための議事を整理してまとめたもので、本答申の前の段階の文書についての対談である。興味深いやり取りというのは、実際の答申に書かれなかったのだが、教科書を一般書店でも売れるようにする、21世紀には、教科書検定をやめて、自由発行・自由採択にするという話し合いがもたれていたことが報告されている。臨教審への反対派である山住氏もこの点については、大いに賛成だと発言しているのである。こうした提言が実現していないことは、残念なことだ。このふたつが実現するだけでも、日本の教育の風景は相当に変わると思われる。
教科書が市販されていないのは、つまらないので誰も買わないからだ
教科書を一般の書店で販売することが、法的に禁じられているわけではない。教科書検定訴訟を受けて、国は、教科書検定が憲法で禁止されている検閲ではない理由として、検定に通らなくても市販することはできるのだから、検閲ではないという反論をしていたことでもわかる。実際に、検定に不合格となって後、市販された本はある。これも興味深いことに、家永三郎氏の高校の日本史と、新しい教科書をつくる会の中学歴史教科書という、立場的にまったく逆の書物が、同じように検定不合格になりながら、市販されているのである。また、教科書を販売している特別な書店も県にいくつかある。これは市販のためというよりは、何かの事情で教科書が不足してしまったときに購入できるようにするための、特別の契約関係にあるのだろう。転入生がくるなどもそうした事情だろう。
ちなみに、欧米では、一般図書でありながら、教科書としても使用させたい書物は、手続をへて教科書としても使われる場合が少なくない。つまり、一般図書と教科書が完全に区別されているほうが、むしろ不自然なのである。
だから教科書が一般書店で販売されていない理由は、規制ではなく、売れると思われていないからである。例外もある。山川出版の日本史と世界史は、市販されている。けっこう売れているようだ。昭和の学習参考書で、有名なもののいくつかも文庫になったりしている。小西甚一氏の古文関係などがそうだ。こういうものが、昭和のノスタルジーとして売れているわけではないと思うし、出版社はそんなに甘いものではないだろう。山川の歴史教科書は、実は、以前から一般の書店でも購入可能だったし、また、買う者も少なくなかったのである。たぶん一番の購入者は高校生だったろう。山川の教科書は受験生にとって、非常に便利、あるいは必須の教科書といわれていたので、高校が違う教科書を採用していた高校生たちが、書店で購入したのである。しかし、単に詳しい教科書という意味ならば、それこそ、詳細日本史のような参考書のほうがずっと詳しいし、受験にも応用がきいただろう。また、主な購入者が高校生だったとしても、一般の人たちも購入した人はいただろう。現在、大きな書店に、何冊もおいてあるということは、大人の購入者がいると考えられる。つまり、それなりに面白く読めるのだ。
読んで面白いと思えば、教科書だろうが、一般書だろうが、買うだろう。逆にいえば、ほとんどの教科書が市販されていないのは、読んで面白いと思えないからである。そして、日本人のほとんどは、教科書をそのようなものとして学んできたので、別に不思議ではないと思っているかも知れないが、考えてみてほしい。読んでつまらない本を教科書として、子どもたちが学ぶことは、いいことなのか。あるいは、自分がもっと読んで楽しいような本で学びたくなかったかと、考えてみてほしい。なぜ一般書店では絶対売れそうにないような本が、教科書になるのか。これは世界共通の現象では決してない。
私の大学では、毎年学園祭で、教育研究所が、世界の教科書の展示を行っている。毎年ひとつの国を決めて、その国の教科書をできるだけたくさん集めて展示をしている。私もオランダにいたときに、オランダの小学校の教科書を、娘が通っている学校に寄贈してもらって、大学に送ったことがある。かなり長い年月毎年やっているので、相当の教科書が集まっている。私は、教育研究所にまったく関わっていないので、その全貌はわからないが、できるだけ毎年この展示は丁寧にみることにしている。そして、感じるのは、日本の教科書は、見栄えと紙の質はいいが、内容は極めて貧弱だということである。
私は、今年で最後になるが、「教育実地研究」という科目をずっと担当してきた。ここでは、学生に50分の模擬授業をさせる。もちろん、教科書を前提にしてやるわけだが、おそらく、大人が教科書を読んでも、必要な情報を満足にえられないだろう。教科書は、それほど不十分な内容しか書かれていないのである。
教科書がつまらなくなるのは、学習指導要領・検定・採用制度が原因
これらを一言でまとめれば、教科書の内容を国家がほぼ決めているということに他ならない。欧米のほとんどの国では、1980年代まで、日本の学習指導要領のようなものがなかった。だが、国際的な学力テストの比較で、日本の生徒の成績がよいので、その理由を探り、学習指導要領のように、国家が基準を決めて、子ども全員が共通の内容を学んでいるからではないかという考えもあり、現在では多くの国でナショナル・カリキュラムを決めるようになった。しかし、日本のように、それを基準に教科書検定したり、地域内で統一的な教科書を選定しているなどという国はないのである。また、日本の学習指導要領と、多くの国の基準が異なるのは、学年ごとに詳細な領域の割り当てがあるかという点にある。例えば、日本では、学年ごとに学ぶ漢字が決まっている。ある文学作品を取り上げるときに、その学年でまだ習っていない漢字があると、ほぼ自動的にかなに変えてしまう。逆に、習った漢字がある言葉なのに、かなで書いてあると漢字に変えてしまうのである。しかし、教科書に採用されるような文学作品は、優れたものであるはずだし、その作者は一流の人材のはずである。そういう人が漢字にするか、かなにするかは、思いつきで書いたものではない。それを、学年で習った漢字かどうかで、他人が勝手に書き換えてしまうのだ。習っていない漢字であれば、フリガナを振ればいいだけのことだし、かなはそのままにすべきであろう。しかし、これは、「学年配当」という形式を押しつけている例である。
歴史などはまた別の問題がある。小学校や中学校の歴史の教科書を読んでも、面白くないだけではなく、ほとんど書いてあることが、きちんとは理解できないに違いない。また、歴史に詳しい人であれば、こんな教科書を読んでも、当時のことがわかるはずがないと感じられるだろう。
それは、歴史を基本的に一年かけて、全時代を学ぶ形になっていることによる。小学校は一年もない。つまり、小学校で極めてラフに学び、中学校でもう少し詳しく学び、高校でまた、もう少し掘り下げて学ぶのが、現在の歴史教育である。しかし、ヨーロッパは違う。基本的に義務教育の全時期をかけて、古代から現代まで順に学んでいくのである。だから、日本にそれを応用すれば、小学校では古代、中学で中世と近世、高校で近代という具合だ。これならば、それぞれ掘り下げて学ぶことができるから、もっとずっと興味がもてるようになるし、面白さを感じるだろう。
理科も同様のことがいえる。理科は、近年実験の重要性が言われるようになったが、実験の重要性をより合理的に主張し、それを教材化し、教え方を方法化し、そして、ほとんどの子どもたちが、理科に興味をもつような手法を確立したのが、仮説実験授業である。学習指導要領は、仮説実験授業の表面を取り入れているが、基本を排除しているし、現場で仮説実験授業を実行しようとすると、管理職がたいてい妨害する。しかし、少数の教師は優れた教授法であるために、実践しており、それを経験した学生は、はっきりとそのよさを大学生になっても語ってくれる。
このような状況だから、仮説実験授業を行う場合でも、本来の姿で実施することはほとんどできない。それは、仮説実験授業では、ある単元は、最初の入門的なところから、中学で学ぶ最後のところあたりまでを、継続的に、集中して学ぶシステムになっているからである。現在の学習指導要領は、生物、化学、物理などの分野を、少しずつ学年に配当し、学年が進むにつれて、内容が少しずつ高度になるように配当している。だから、仮説実験授業の並べかたとまったく異なるのである。どちらが適切な学びかたかは、100%こちらが適切だとはいえないだろうが、私は、圧倒的に仮説実験授業の学びかたが優れているし、効果的であると思う。それは、実際にその授業をみたり、また、そのまねごとをやってみたりしたり、また、受けた人の感想をきいたりしたことで実感するのである。
問題は、その一方に、それも学び方として、興味が沸きにくい形のほうに、国家が統一していることなのである。どちらもあってよい。それぞれの考えかたに基づく教科書があり、学校が判断すればいいのだ。
学習指導要領を、義務教育期間に学ぶべき内容という形で決めれば、こういう問題が解決するのである。
教科書は自由発行・自由採択(学校採択)にすべきである
このようにいうと、たいてい転校生にとって不便だという話が出てくる。また、いろいろとあると混乱してしまうという、教師志望の学生がいったりする。
しかし、転校生のために、教育を不自由なものに、そして、つまらないものにする必要があるのか。確かに、転校先で、これまでと違う教え方をしていたら、戸惑うだろう。しかし、それは一時的なものに過ぎない。少なくとも、その授業が面白いものであれば、直ぐに引き込まれていくはずである。いろいろあると混乱してしまうから、国家が決めてくれたほうがいい、というような学生は、近年少なくないが、率直にいって、そういう教師には、自分の子どもを絶対に教えてほしくないと思う。さすがに、教師になるなとはいわないが。
この文章を書くきっかけが、臨教審での議論の紹介だったというのが、私にとっては、けっこう新鮮だった。臨教審は、自由化論で世間を驚かせたものだが、決して、自由を尊重した答申を出したわけではなく、その後、国家による統制は、事実上、きつくなっていったからである。しかし、臨教審のなかにも、市販される教科書、自由発行、自由採択がよいのだ、という人がいたということは、重要なことである。
優れた作品(教科書だって作品だ)は、表現したいことを、自由に表現できるときに生まれるものなのだ。