教員採用試験の倍率低下しているというが

 教員採用試験の倍率が低下していることが、大分話題になっている。
 私自身、教師になりたい学生を指導してきたので、いろいろと考えるところがある。
 教師に本当になりたいと思っている学生にとっては、倍率が下がるのは歓迎だろう。なにしろ、なりやすくなるなのだから。しかし、倍率が下がると、教師の質が低下するという心配をしているひとたちも多いようだ。また、倍率が下がった原因に関しても、いろいろな考えがある。
 私自身は、教員採用試験の倍率が下がった最大の理由は、社会全体の人手不足で、特に民間企業の採用が多くなり、学生たちにとって、ほとんどの分野で、就職しやすくなっている。その分教師になろうという人が少なくなっているわけだ。こういうことは、景気の変動の影響として、過去何度もあったことだ。しかし、最初から教師になりたい人が、民間に志望を変えるということは、あまり起きていないように感じている。免許をとっていても、迷っている学生や、とってはみたものの、あまり向かないことがわかったような学生は、企業に鞍替えしていくだろう。そういう結果であると思う。
 第二次ベビーブームが学齢期を過ぎて、義務教育年齢の子どもたちが少なくなったとき、ベビーブームにあわせて採用した教師たちが、大量にいたから、その後採用枠が極めて少なくなり、教育委員会からは、本当に0にしたいのだが、そういうわけにもいかないからというので、ごく少数だけ採用していた時期が、10年近く続いた。この世代の教師が極めて少ないので、現在の学校運営に支障が出ていることは、教育界ではよく知られている。
 戦後直後は、経済復興が最大の課題だったから、教師不足はかなり深刻で、特に大量の教師が必要な首都圏では、地方に教育委員が出張して、スカウト活動をしたと言われている。
 まだ、そこまでの教師不足は起きていないだろうが、そのうちそうなる危険性があると、私はずっと指摘してきた。それは、かつては、教職がそれなりに魅力的な職業であったが、その魅力は年々低下しているからである。そして、そのことが、教師の成長にとってもマイナスだからである。
 倍率が低下すると、質が落ちるというのは、まったくの間違いとは言えないだろう。免許をとった人なのだから、大丈夫ではないか、そうでないとしたら、いいかげんな養成教育を大学がしているのではないかという指摘もあった。それは皮肉であったのだが。当事者としては、絶対にそんなことはないと言い切る自信はないが、ただ、教師が本当に教師としての能力を身につけていけるのは、現場なのである。養成機関は、結局理論的なことを学び、疑似体験的な授業もあることはあるが、あくまでも疑似に過ぎない。
 実際に子どもに接して、授業で揉まれることで、はじめて、教師としての実力が形成されていく。だから、問題なのは、教師になってからの環境が、多くの人が感じているように悪化していることである。今や公立小中学校は、日本最大のブラック産業とまで言われているように、過労死寸前のひとたちが少なくないのである。そして、その責任の大半は教育行政、特に文部科学省にある。
 教師の職場が労働過多で、劣悪なのは、単に忙しいということではない。教職は、子どもの成長に直接かかわる、極めて有意義な仕事だと、おそらくほとんどの教師たちは思ってなったのだろうから、子どもの教育そのものに関する仕事で忙しいのならば、教師たちの疲労感は、あまりないはずなのである。最大の問題は、過重労働のかなり多くの部分が、子どもの教育そのものとはほとんど関係ないことや、あるいは、あったとしてもたいした意味がないことが閉めていることなのである。教育行政組織から求められる多くの調査、そして報告書、役に立たない官製研修等々。中学では部活指導。
 こうしたことに加えて、必要かも知れないが、必要なら条件整備をしなければならないのに、しないまま受け入れている障害者の問題がある。昔は、入学前検診で、障害があると認められると、教育委員会が養護学校に進むことを、ほとんど強制的にきめていた。それは当然問題があるので、現在は保護者の希望を最大限尊重するように、文部科学省は指導している。是正されたこと自体は、大きな進歩であるが、なんら支援の措置をとらないまま障害を抱えた子どもが、クラスに入ってくれば、担任教師は大きな負担を背負うことになる。新任の教師、特に小学校の教師が何よりも悪戦苦闘するのは、いまやクラスに必ず1、2名はいるとされる障害をもった子どもの指導である。これまでの小学校養成カリキュラムには、そうした科目は入っていない。私は、大学当局に、法的には不要かも知れないが、実際の現場では必要なので、特別に障害児の教育に関わる科目を、養成カリキュラムのなかにいれるべきだ、と主張したのだが、法的に必要とされない負担は、しないものなのだろう、不安を抱えながら、学生たちは、現場にはいっていき、案の定苦労している。
 この問題は、本当に難しいが、今の現場の教師にとって、大きな負担となっていることは事実である。
 保護者対応なども、特に負担となる。
 こういう状況のなかで、教師たちが授業の準備のために使う時間は、驚くほど少ない。小学校や中学の内容は、一度教えれば、授業をすることに特別な困難はないかも知れない。しかし、それではルーチンワークになり、子どもを惹きつける授業はなかなかできない。教師の質が低下しているとすれば、受験倍率ではなく、余計な業務に時間をとられ、授業準備に充分な時間をさけないことになる。
 インターネット上の、教師の労働に関する書き込みなどを読むと、民間企業だって忙しいというような書き込みが少なくないが、犠牲になっているのは、子どもなのだということを忘れるべきではない。 
 採用試験の倍率が低下すること、それ自体はたいした問題ではない。意欲のあるひとたちを採用すれば、現場で望ましく鍛えれば、りっぱな教師になっていく。問題は、むしろ教師としての成長を阻害してしまうような環境があることなのだ。そうした環境が続くかぎり、倍率が高まって、「優秀だ」とされる人が採用されても、育たないだろう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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