ダグラス・マレーは、イギリスのジャーナリストで、現在40歳。この著書は、2017年に公刊され、日本の訳は、2018年暮れである。2015年の稀に見る大量の難民がヨーロッパに押し寄せた事態を受け、その後それなりに落ち着いた時期に書かれたものである。著者は、難民たちとの対話のために、ヨーロッパのあちこちにでかけ、直接インタビューをしてきたという。しかし、本書にそれはあまり反映されているわけではなく、むしろ、ヨーロッパとは何か、イスラムがどのようにそれを失わせているかを、むしろ思考の産物として書いている。
さまざまな情報が書かれているが、いわんとしていることは、以下のようなことである。
(1)ヨーロッパは、大量の移民、難民を受け入れているが、それがヨーロッパという存在を脅かしている。このままいけば、ヨーロッパは自死するだろう。
(2)国民の多くは、深層では移民の増加を望んでいないが、それを口にすると、人種差別主義者であると非難されるので、口をつぐんでいる。政治家もまた、イスラム教徒が犯罪をしても、それをコメントすることをさけ、何事もなかったかのように振る舞っている。同様に、人種差別主義者であると非難されるからだ。
(3)メルケルなどの一部政治家は、移民・難民を受け入れることこそが、人道主義であり、ヨーロッパは、いくらでもその余地があると公言している。しかし、今になってみると、メルケルは、間違いだったと思っているようだ。
(4)イスラム教徒が、移民・難民のほとんどを占めているが、イスラム教徒の出生率は高く、やがて、イスラム教徒がキリスト教徒をしのぐだけではなく、キリスト教徒自身が、宗教的でなくなりつつあるが、イスラム教徒は依然として、極めて宗教色が高く、その拡大に熱心である。
(5)ヨーロッパは、かつてキリスト教を中核とする精神的、文化的なまとまりがあったが、ニーチェに代表されるように、キリスト教の紐帯は、極めて弱くなり、また、啓蒙主義も色あせてきた。ヨーロッパを形成してきた精神的支柱がなくなり、その点でもヨーロッパは自死の過程にある。
アマゾンで評価が高かったし、後期の授業のために必要性もあるので、読んでみたが、特別目新しいことは、あまりなかった。よく知られている事実が、著者の「感覚」を付与されながら紹介されているような感じで、基本的に、著者の立場は、フランスのルペンやオランダのウィルダースなどに近いのだろう。2002年に暗殺された、オランダで反移民政策を早期に大胆に主張したフォルタインにはかなり共感している。こうした人々は、日本では、移民反対派の極右と紹介されることが、多いのだが、マレーは、彼らは決して極右でもないし、ファシストでもないとしている。娘のルペンやウィルダースが極右ではないと、私も思うが、マレーのように共感はできない。
さて、この本を読んで、一番意外に思ったのは、イスラム教徒がテロや性犯罪など、極めて悪質な行為を行っても、それを直接批判すると、人種差別主義者として非難されるので、ほとんど非難がなかったというように、一貫して書かれているのだが、本当だろうかと、疑問に思わざるをえなかった。2001年の911で、ヨーロッパでもイスラム教徒への感情がかなり悪化し、各地で白人によるイスラム教徒への迫害などもかなり起こっており、悪い意味でも、イスラム教徒批判は、かなり行われていたと感じていたからである。
私が2002年にオランダにいたときに、Venloというドイツとの国境の街で、イスラム教徒とオランダ人の青年による犯罪が起きた。その二人が、スーパーマーケットの駐車場で老婦人に何か絡んでいたので、オランダ人の青年が、とめにはいったところ、逆にその青年が暴行を受け、しかも、2時間近く暴力を振るわれていたという事件である。スーパーマーケットの駐車場だったので、人はたくさんみていたのだが、誰もとめるものがなく、また警察に連絡するものもいなかった。かなり時間がたって、スーパーの従業員が何事かと外にでて事態を認識して、はじめて警察と救急車への連絡がなされたのである。結局、その青年は死亡した。このニュースが繰り返し流された。暴行時間が長かったので、メディアの人が到着して、映像をとっていたのである。犯人の一人はイスラム教徒の移民の子どもで、母親は、「息子は神の意思を実行したまでだ」と述べて、息子を弁護し、父親はオランダに移民して30年もたつのに、オランダ語をまったく話すことができず、仕事もないので、ずっと生活保護で生活していたということがわかり、イスラム教徒の移民に対して、一気に悪感情が醸成されたように、滞在している私には、感じられた。2時間もだまってみていた傍観者に対する批判はあったが、イスラム教徒を非難するのは、人種差別だなどという批判があったかどうか、少なくとも私には明確に触れることはなかった。新聞はけっこういろいろと読んだが。
マレーの本によると、ロンドンやパリ、ベルギーでの明確なイスラム教徒によるテロが起きたときには、それを表立って非難することは、憚られたような雰囲気があったとされるのだが、日本にいるかぎりは、そういう報道に接した記憶はない。イギリス生まれのイスラム教徒が起こしたテロに対しては、とまどいが支配的だったような報道だったと記憶するが、とまどいと、非難するのは人種差別だなどというのとは、大分違う気がするのである。この点、マレーには、かなりのバイアスがあるように感じた。
次の疑問は、「ヨーロッパ」なるものである。マレーは、移民が大量にはいってくるまでは、ヨーロッパには、共通のヨーロッパ精神、ヨーロッパ文化があったのだが、ヨーロッパ人自身が、ヨーロッパとは何かがわからなくなって、宗教的な精神も弱くなっている。そして、ヨーロッパで支配的なリベラリズム、つまり、自分たちとは違うものに対する寛容が強固にあるから、他文化、他宗教を寛容に受け入れているが、イスラム教はそうした寛容性をもっていないから、ヨーロッパにきても強固にイスラム教徒として習慣や儀式を守っていく。こうして、ヨーロッパ的なものが次第に失われ、イスラム的なものがどんどん増大していくという。そういう危機感を多くのヨーロッパ人、正確には白人たちがもっていることは確かであるし、また、私がヨーロッパにいたときにも、私自身がそうなるのではないかと感じていたものだ。
しかし、キリスト教にしても、啓蒙主義にしても、また功利主義にしても、社会主義にしても、ヨーロッパ全体として、統一的にヨーロッパ的であると認識されていたというのは、納得できない。キリスト教をとってみても、カトリックとプロテスタントは、かなり激しい宗教戦争を繰り返して、大量の血を流してきた歴史がある。3つの主義は、決して統一的なものではなく、対立的なものである。それを統一的なヨーロッパ的なものといってよいのだろうか。