本書は、自分自身がひきこもりであった上山和樹氏が、ひきこもりから脱却しつつあり、ひきこもりの相談活動をしている段階に書かれた、体験と相談活動を踏まえた分析との二部構成になっている。2001年12月にだされた本で、2000年に起きた西鉄バスジャック事件と、新潟少女監禁事件の発覚とを契機に、執筆依頼されたと思われる。私が、今回この本を読もうと思ったきっかけは、もちろん、川崎と練馬の事件である。上山氏が本書で批判しているように、ひきこもり相談をしている精神科医、カウンセラー、行政などは、実際にはひきこもりの当事者の内面について、ほとんど理解していないのだろう。なぜなら、ひきこもりといっても、その多い実数に比較して、相談に訪れる人はごく少数しかおらず、しかも、相談にいくのは親である場合がほとんどだろう。しかし、親はひきこもり当人の「敵」であるので、親から語られることがらは、ひきこもり本人の実態とはずれているという。そういう意味で、自身がかなり長期のひきこもりの経験者であり、(この本執筆当初、完全に払拭していたわけでもないようだ。)たくさんのひきこもりの相談活動をしている人の書いたもので、参考になるだろうと考えたわけである。 “読書ノート『ひきこもりだった僕から』上山和樹” の続きを読む
投稿者: wakei
読書ノート『天皇と東大』Ⅰ-Ⅳ 立花隆
大分前に購入したが、必要な部分だけ読んで、あとは積んどく状態だった本を読み終えた。厚い文庫本4冊だから、トルストイの『戦争と平和』にも匹敵する量だ。明治の当初から敗戦(多少戦後も含まれる)まで、日本の「国体」をめぐる相剋を描いたノンフィクションだ。戦争が終わったとき5歳だった立花が、ずっと疑問に思っていた「なぜ日本はこんな酷い国になってしまったのか」という自問に答えるための書であるという。また、これまでの敗戦に至る歴史分析を、多くの人は左翼的な観点からのみみて分析していたが、それだけでは不十分で、右翼的な側面から分析がないと、本当のところはわからないという問題意識を重視して書かれたものだ。
明治初期のある程度リベラルの状況から、次第に国家主義的な体制、しかも一切の自由な言論を許さない社会になっていく過程を、東大を主な舞台とした左右の対立相剋を中心に叙述している。個別的な評価はそれぞれになされているが、全体としては、事実をもって語らせる方法なので、著者の独自の歴史観などがだされてはいない。が、逆にそのことで、様々な立場からの事実を知る上では、有意義な本だ。 “読書ノート『天皇と東大』Ⅰ-Ⅳ 立花隆” の続きを読む
ベルリンの教師不足
日本では、教職は人気の職業だと言われている。団塊の世代が退職して、教師の大量採用が続いたころ、大学では小学校免許取得のコースがかなり新設され、志願者も多かった。中学・高校の免許取得の課程は、ほとんどの大学に設置されているが、小学校の免許取得課程は、かなり限定されていたからである。私の大学は教員養成で有名なので、学生募集で有利な状況だったといえる。
しかし、私自身は、やがて教職を目指す学生は減少してくるし、また、現場で教師不足になると危惧していた。ブログでも何度も書いたし、授業でも話していた。教職に就く魅力とされていたことが削られ(ex. 奨学金返済免除)、教師批判が強まり(M教師批判、いじめ問題の不手際)、そして、なんといっても殺人的な過重労働などが要因であろう。
そして、それは次第に現実となりつつある。
小学校の教員採用試験の倍率が2倍いかないところが、けっこうあるのだ。特に、地方は例外なく、教師になるのがかなり難しかったのであるが(だからこそ、大分県での不正事件なども起きた)、地方に倍率の低い県が少なくないのである。これは、民間企業の採用が増え、「売り手市場」になっていることも影響しているようだ。確かに、民間企業への内定は順調である。民間企業の採用が多いと、公務員や教員志願者が減り、不況になると逆になるのは、戦後ずっと続いている現象であるが、教職への志願者が減っているのは、ブラックと化した学校の実状が知られるようになったからだろう。 “ベルリンの教師不足” の続きを読む
学校教育から何を削るか13 入学試験制度
本シリーズ(学校教育から何を削るか)の最後にする予定で、以後、これまで書いたものを整理する予定。
最後に最も大きく、かつ困難な課題を提起することにした。
最初に確認しておきたいことは、日本の入学試験は、日本の学校教育に甚大な影響を及ぼしているし、進学ということがある以上、上級に進学するために「入学試験」があることは、当たり前のことであり、それは万国共通だと、多くの人が思っているが、それは間違いだという点である。上級学校に進学するために、何らかのハードルがあることは、ほとんどの場合当てはまるが、日本のような入学試験は、教育制度が発達した先進国では、実は少数派である。だから、入学試験システムは、廃止することができると考えている。
私が学生時代、教育法の第一人者であった兼子仁先生の授業で、兼子教授は、「日本の入学試験というのは、なんとしても廃止したいですね。」と主張したことがある。学生たちは、意外な主張に驚き、ほとんど茫然自失の体だったと記憶している。私もそうだった。「そんなことできるはずがない。」そのときだけではなく、ずっとそう思っていた。 “学校教育から何を削るか13 入学試験制度” の続きを読む
鬼平犯科帳 敵討ち
江戸時代の話だから、敵討ちが何度も登場する。しかし、ルールに則った事例は、ひとつもない。実は、江戸時代の敵討ちには、厳格なルールがあるのだ。そのポイントが、『鬼平犯科帳』にも説明されている。市口瀬兵衛という71歳の老武士が、自分の息子の敵討ちをする「寒月六間堀」にこうある。
許可された敵討ちとは
「武士の敵討ちの場合、肉親の尊属のためにすることなら正則のものとして届出が許可される。つまり父や兄の敵を討つというのならゆるされるけれども、子や弟妹、妻などの場合は変則となる。これが掟であった。
なんといっても日本の諸国は百に近い大名や武家によって、それぞれに統治されている。殺人を犯して他国へ逃げてしまえば、自国の警察権もおよばなくなる。そこで殺された者の肉親が、死者のうらみをはらすのと共に、自国の法律の代行者として犯人を探し出し、討ち取る。これが[敵討ち]なのだ。
それがためには、どうしても正則のものでなければならない。変則のもので、公の許可のない敵討ちは、却って法を犯すことになるのである。」 “鬼平犯科帳 敵討ち” の続きを読む
教育実習の授業をみて 学校文化への疑問
今、教職課程を履修している4年生は、多くが教育実習の期間中だろう。今週2人の実習の授業を見にいった。いろいろと考えたところがあるので、それを書いてみる。しかし、以下の文章は、今週見た実習生の授業に対する評価ではない。むしろ、普段から感じている日本の学校教育の「教え方」に対する疑問に関するものである。それが現われていたということだが、それは、ほとんど日本の学校教育文化ともいうべきものであり、その授業の欠点と認識されるものではない。授業そのものは、学生としてはとてもよかったと思うし、子どもたちもよく反応していた。
まず「国語」。国語の授業では、決まったパターンがあるようなのだ。新しい文章にはいると、まず全文を読む。そして、新しい漢字を書き出して、読みと意味を確認する。意味のわからない言葉を辞書で調べる。次に、段落分けをする。それから、分けた段落にそって、文章の解釈をしていく。もちろん、みながこのように統一されているわけではないだろうが、多くのパターンがこのようになっていると思われる。
実習の授業は、「段落分け」だった。そして、私が普段から最も疑問に思っていることが、この段落分けのやり方なのだ。 “教育実習の授業をみて 学校文化への疑問” の続きを読む
グレータ・トゥンベル 気候変動デモで数々の栄誉
何度か紹介したスウェーデンの少女グレータ・トゥンベルが、またスウェーデンの新聞で扱われているので、紹介をしたい。
日本でも、いくつかの新聞で紹介されたが、気候変動に関するパリ条約を、きちんと履行しようとしない政治家たちに抗議して、昨年からグレータが始めた運動が、世界に広まって、いまでも、勢いという点では弱まっているが、むしろ大人にも影響して、確実に定着しつつあるといえるものである。
記事は、För ett år sedan gjorde hon debut som debattör i SvD. Nu är Greta Thunberg världskändという題で、説明を加えながら、グレータの発言やインタビューを載せている。Svenska Dagbladet の2019年6月3日付け、筆者は、Henning Eklundである。
昨年5月31日に、はじめてこの新聞に登場したという。
「みなさんが、何をして、何をしないかが、私たちの孫や曾孫たちに影響を与えるのです。おそらく彼らは、何故しなかったのか、何故知っているのにしなかったのか、という問いかけをするでしょう。」 “グレータ・トゥンベル 気候変動デモで数々の栄誉” の続きを読む
学校教育から何を削るか12 教師の階層性
教育行政学では、古典的な論争として「重層構造論」と「単層構造論」というテーマがある。古くは、東京教育大学の伊藤和衛が前者、東京大学の宗像誠也が後者の代表的な論者だった。今は、法的に前者が規定されているから、表立った論争はほとんどないようだが、理論的な問題としては厳然として残っており、後者の立場にたつ者からみれば、改革の必要性が大きい課題となっている。
端的にいえば、「重層構造論」とは、校長をトップとして、教師が階層的に位置づけられ、ラインの命令系統で仕事をすることが、最も学校の目的をよく達成できるとする論である。それに対して、「単層構造論」とは、校長以外の教師はすべて平等な立場であり、係やその責任者は随時交代して行うのが、学校として最もよい教育ができるとする論である。
教育組織として見れば、単層構造論が正しい。単純に、学校の主要な構成員である教師は、みな同じ仕事をしているからである。つまり、基本的に、自分の教えるべき教科について教え、担任としての役割を果たす。このふたつの機能において、新人もベテランもなんら変わらない。 “学校教育から何を削るか12 教師の階層性” の続きを読む
川崎事件を考える 「一人で死ね」論争、藤田提起に関して
川崎での事件は、教育学の人間としては、何よりも、登校中であり、しかも、最も安全な登校方法であるとされてきたスクールバスに関連して起きたこと、更に、学校関係者が警戒し、何人か保護者もいた中で起きた事件であるという点が、最大の考察課題となる。しかし、ここまで瞬間的ともいうべき短時間で犯行をされては、対応を考えることも難しい。これは対応のしようがないという人も少なくなかった。当日見守るためにそこにいた人もいるということであれば、(まさかあのようなことが起きるとは思っていなかったので、警戒をしたわけではないのだろう。)武器をもつわけにはいかないから、学校のように、刺股でももち、全方位を見守っているしかないのかも知れない。警官に見回ってもらうことができれば、ベストだろうが、「警官見回り中」との看板を立てておくというのも、若干の抑止にはなるかもしれない。
この点については、別途考察したいので、今回話題になっている件について書きたい。
川崎での事件をきっかけに、「一人で死ね」という書き込みがSNSに殺到し、それに対して、藤田孝典氏が、制止する書き込みをヤフーにしたことで大論争になっている。当初2チャンネル等での議論(圧倒的に、「一人で死ね」派が優勢)、ワイドショーでのやりとり、そして、新聞やブログでの多少落ち着いた記事と移ってきた。
私は、「一人で死ね」「巻き込むな」という感情はもちろんもっているが、それを生の形で表明しようとは思わない。もっと事態を分析したいと考える。他方、藤田氏のような書き方にも、違和感がある。 “川崎事件を考える 「一人で死ね」論争、藤田提起に関して” の続きを読む
『教育』を読む2019.6 市場化する学校4
前2回は、かなり批判的な検討になったが、今回は、ほぼ全面的に賛成である。取り上げるのは、
錦光山雅子「家計を直撃する『学校指定物品』制服報道からみえた消費者問題」
中村文夫「激化する格差の連像 家庭と地域の経済格差と教育」である。
学校指定の曖昧さ
錦光山氏はジャーナリストで、制服等にかかる費用と、指定に関わる問題を明らかにしている。氏がこうした問題に関心が向くようになったのは、2014年9月24日に千葉県銚子市で起きた母親が中2の娘を殺害した事件であるという。母親の非正規労働、児童扶養手当、元夫からの養育費(遅れがち)でかろうじて生活をしていたが、中学入学に際して必要とされた費用を、ヤミ金融からの資金でしのいだが、取り立てで家計が崩壊し、公営住宅を強制退去させられる日、娘を殺害したという事件である。年収は100万円程度で、市も生活の困窮状況は把握していたようだが、生活保護の申請については、用紙をわたすのみで、説明などはあまりしなかったとされ、また、公営住宅の家賃については、減免措置があるのに、それを知らせなかったとされている。もし、減免されていたら、この悲劇は起きなかったし、また、それほど滞納していたわけでもないことがわかっている。 “『教育』を読む2019.6 市場化する学校4” の続きを読む