コメントへの回答 少子化と年金問題

 コメント欄の質問がありましたので、それに対する回答です。コメント欄での回答が普通でしょうが、問題が大きいので、ここでかくことにします。
 質問内容は以下の通りです。

では,謹みながら2点ほどお伺いしたいです。
1.個人の持論でもありますが,今後少子化により労働力がますます減少します。その代わり,AI(人口知能),又は外国人労働者が多く流入してくると思われ,国内の若者の立場(主に就職活動)が危ぶまれるかもしれません。若者の立場からの観点と,下記の問題の是非についてお尋ねしたいです。
2.ご存じのとおり,国民年金は,少子高齢化した日本において,若者が納金した国民年金が高齢者にそのまま行き渡る賦課方式が採用されています。少子化により,高齢者の年金受給を支えるための現役世帯から徴収する全体の保険料も減少し、世代間を支え合う持続性が危ぶまれています。この問題はどのようにお考えでしょうか。

 大変難しい問題なので、きちんとした回答になるかはわかりませんが、不足分は再度書くことで補充していくことにします。
人手不足は単なる働き手不足ではない
 少子化が進むから、労働力不足になる、というのは、一見正しいように見えますが、いわれている通りなのかと、吟味してみる必要があるのではないでしょうか。少子化は、既に何十年も続いてきた現象ですが、それでも大卒の就職状況は、ずいぶんと波がありました。今は、学生の就活がけっこう順調に推移して、比較的早く内定がとれていますが、つい数年前までは、就職がなかなか困難だったのです。大学として、なんとか就職率をあげようと、やっきになっていろいろな対策をとっていたものです。ここ2、3年は確かにかなりの人手不足になっていますが、こうした労働の需給関係は、決して人口動態だけできまるわけではなく、さまざまな要因で変動するものでしょう。 “コメントへの回答 少子化と年金問題” の続きを読む

交通事故再論 コメントへの返答

交通事故対策の問題として、道路に関する記事を書いたところ、コメントで、新たな事故が起きたが、それは、オランダのような道路状況だったら防ぐことができたのか、という疑問が提起されたので、続編を書こうと思っていたこともあり、それに対する返答を交えて書くことにする。コメントへの返事なので、「ですます調」がいいかとは思うけれども、新たなブログ記事なので、普段の「である調」にすることをお断りしておきます。
 あらたな事故というのは、明記されていないが、おそらく、千葉県市原市で起きた事故のことだと思うので、それを前提に考えていく。この事故は、駐車場にとまっていた車を出すときに、右折か左折するところ、おそらくアクセルとブレーキを踏み間違えて、そのまま直進して、道路の反対側の公園の金網を破り、公園で遊んでいた園児たちを轢きそうになり、園児たちを守った保育士が重症を負ったという事故だった。
 前回のブログ記事の最後の部分に、私は、以下のように書いた。

 いずれにせよ、事故を防ぐには、ひとつの対策で済むことは絶対にない。
 自動車自体の安全対策、道路の対策(拡張、歩道の整備、自転車の扱いの統一とそれにふさわしい道路状態の整備)、安全重視の信号。交通規制の徹底等々。そのなかでも、道路の作り方が、信号も含めて、最も重要だと思われる。 “交通事故再論 コメントへの返答” の続きを読む

失言は撤回ではなく、議論を

 毎日新聞(2019.5.15)によると、自民党が「失言防止パンフ」を作成したのだそうだ。自民党内からも、恥ずかしいとの感想があったと紹介されている。戦後ほとんどの時期を政権担当してきた自民党の国会議員に対する、注意喚起の「題材」としては、確かに「恥ずかしい」と思ってしまうが、「いわなければいい」というような問題ではないように思う。毎日新聞は、あわせて、最近の代表的な自民党を中心とした議員、閣僚の失言一覧を載せているが、それをみても、「失言」の内容も性質は多様である。
 メディアを賑わせた桜田義孝前五輪担当相のたくさんの失言も、いろいろある。
 1500億円を1500円と言い違えたのは、ご愛嬌ものだが、石巻市を「いしまきし」と続けて言ってしまうのは、一般人ならともかく、復興のためのオリンピックを謳った行事の担当大臣としては、仕事に対する姿勢を疑わせるものだ。そして、「まだ国道とか交通、東北自動車道も健全に動いていたから良かった」という完全な誤認は、資質能力が欠けている証明であろう。近所のおじさんで、町内会の役員をやっている分には、場を和ませる人として人気がでるかも知れないが、大臣が勤まる人物ではないことを示す発言群だ。
 こうした「失言」に対して、失言ではない「本音」が思わず出たという発言のほうは、もっと重大だろう。桜田氏の「東北道は健全に動いていた」というのは、単なる事実誤認であって、実際に、東北道が陥没して通れなくなっていたというより、一般車の通行をほぼ全面的に規制しており、緊急車両優先にしていたのを、政治家だから、通れたのだと思い込んだだけの話だ。 “失言は撤回ではなく、議論を” の続きを読む

読書ノート 『人身売買・奴隷・拉致の日本史』

 渡邉大門氏の『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房2014)を読んだ。日朝関係で拉致問題が、日韓関係で慰安婦(彼らの呼び方でいうと性奴隷)が、現在でも問題となっているが、歴史的にずっと以前から存在している問題であることがわかる。そして、それは日本だけに限られることでもないだろう。
 この三つは微妙に異なるが、奴隷という言葉で共通項を括ることができるだろう。奴隷は、人間を「人」として扱わず、「物」と同様に扱う存在といえる。そして、物としての性質が最も顕著に現われるのが、他人に売られる、あるいは、贈られるという点である。つまり、人身売買されている状態にある人は、「奴隷」状態であり、拉致されれば、多くは売られ、あるいは、物のように、つまり機械のように労働のために使われる。そして、結婚などが許されないことになる。こうした奴隷的人間の扱いは、いろいろな理由で発生してきたし、多くの時代で禁止されていたにもかかわらず、実際に多数おこなわれていた。 “読書ノート 『人身売買・奴隷・拉致の日本史』” の続きを読む

学校教育から何を削るか9 集団宿泊行事

 学習指導要領には、特別活動の学校行事の項目で、「遠足・集団宿泊的行事」が明記されている。

〔学校行事〕
1 目標
 学校行事を通して,望ましい人間関係を形成し,集団への所属感や連帯感を深め,公共の精神を養い,協力してよりよい学校生活を築こうとする自主的,実践的な態度を育てる。
2 内容
 全校又は学年を単位として,学校生活に秩序と変化を与え,学校生活の充実と発展に資する体験的な活動を行うこと。
(1) 儀式的行事
 学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛で清新な気分を味わい,新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと。
(2) 文化的行事
 平素の学習活動の成果を発表し,その向上の意欲を一層高めたり,文化や芸術に親しんだりするような活動を行うこと。
(3) 健康安全・体育的行事
 心身の健全な発達や健康の保持増進などについての関心を高め,安全な行動や規律ある集団行動の体得,運動に親しむ態度の育成,責任感や連帯感の涵(かん)養,体力の向上などに資するような活動を行うこと。
(4) 遠足・集団宿泊的行事
 自然の中での集団宿泊活動などの平素と異なる生活環境にあって,見聞を広め,自然や文化などに親しむとともに,人間関係などの集団生活の在り方や公衆道徳などについての望ましい体験を積むことができるような活動を行うこと。
(5) 勤労生産・奉仕的行事
 勤労の尊さや生産の喜びを体得するとともに,ボランティア活動などの社会奉仕の精神を養う体験が得られるような活動を行うこと。

集団宿泊行事は教師の犠牲的労働で成り立つ
 こうした学校行事は、おそらく日本的特徴といえるものであり、この活動に生きがいを感じる教師がたくさんいるし、また、保護者も歓迎する人が多いだろう。しかし、宿泊行事に関しては、負担に感じる教師が多いに違いない。欧米がなんでもいいというつもりはないが、欧米では義務教育学校における宿泊行事は、極めて少ないのではないだろうか。私が子どものころにも、臨海学校や林間学校などがあったが、今と様相が違うのは、私のころは、参加しない子どももけっこういたし、2度ある機会に、私は1度しか参加しなかった。今では、ほとんどが参加すると聞いている。 “学校教育から何を削るか9 集団宿泊行事” の続きを読む

読書ノート 人はなぜ歴史を偽造するのか

 長山靖生『人はなぜ歴史を偽造するのか』(新潮社)1998 を読んだ。面白かったと同時にいろいろと考えさせられた。
 内容は、主に、意図的に偽造された歴史書に関する文章と、南北朝正閏論に関する文章とからなっている。前者は、そんなことがあったのかという、面白い偽造歴史書のことをはじめて知ることが多かったが、内容的には、南北朝正閏論のほうが断然面白く、また考えねばならないことが提起されている。
 南北朝正閏論とは、明治の終わりころに議論され、第二次大戦が終わるまで、日本の歴史教育を呪縛した論である。歴史的には、鎌倉時代の末期に、朝廷のなかで、天皇の後継者をめぐる争いが嵩じ、鎌倉幕府の調停で二系統が交互に天皇をだすという妥協が成立した。そのうちの大覚寺系統であった後醍醐天皇が、約束を守って天皇位を譲るということを拒否し、更に鎌倉幕府に反逆して、建武の新政をするという歴史となる。足利尊氏が幕府を滅ぼしたあと、当初は協力していた後醍醐天皇と尊氏は対立し、尊氏は順番となる持明院系統から天皇を擁立する。その後数十年間、このふたつの勢力が争い、足利幕府側を北朝、後醍醐天皇系統を南朝と称していた。三代将軍義満のときに北朝に統一され、現在に至るわけであるが、明治の末に、現在、歴史教育で教えられている以上の南北朝時代と、基本的には同じ事実が教えられていた国定教科書にクレームを付けたわけである。南朝こそが正統であるとして、歴史の書き変えを迫り、大きな論争になるが、結局、楠木正成等の「忠臣」を偶像視する人々によって、南北朝並立だったという歴史的事実を主張するものは、追われてしまうことになったわけである。そして、以後、歴史教育では、北朝だった5人の天皇は歴史から抹殺され、足利尊氏は逆賊とされた。 “読書ノート 人はなぜ歴史を偽造するのか” の続きを読む

オランダ留学記92 学校選択システム

いじめ自殺からオランダに関心
 私がオランダに興味をもったのは、日本で当時(1980年代)いじめによる自殺が大きな社会問題になっていたことがきっかけだった。自殺してしまった例を見ると、実は、学校が充分に対応してくれないから転校してしまった、別のいじめの被害者がいたということが少なくない。ならば、自殺する前に転校してしまえばよかったのにと思い、自由に学校を変えられる国がないかと探していたところ、オランダがそうだとわかったのが、最初のきっかけだった。
 その後、オランダのことをいろいろと調べていく内に、オランダのユニークな魅力にすっかり虜になってしまったが、それはおいおい述べることにする。 “オランダ留学記92 学校選択システム” の続きを読む

事故を防ぐには、道路環境の改善が不可欠、ドライバーの注意だけでは防げない

 池袋の事故の記憶がまだ新しいというのに、また大津での事故。池袋の事故では、高齢者の運転とアクセル・ブレーキの構造問題が主に論じられたが、今回は、どうだろう。集団登下校や保育園・幼稚園の外出の際の列に突っ込んで、大きな被害が生じる事故は、たくさんある。そして、原因も多様なのだ。
 気になるのは、ドライバーの責任を問う声があまりに強いことだ。もちろん、ドライバーに何らかの過失があるから、事故が起きるのだろうが、事故を起こしたくて起こすドライバーは、ほとんどいないだろう。もちろん、飲酒運転とか、乱暴な運転とか、意図的に行う悪質運転は別として、ほとんどの事故は、不注意から起きる。しかし、不注意を個人の責任として無くそうとするのは、あまり効果的ではない。人間はどうしたって、注意が不足することがあるからだ。車を運転している者ならば、誰だって、はっとした思いを何度かしているに違いない。ドライバーが注意深く運転することを訴えることは重要だが、人間がある程度不注意をしたとしても、事故が避けられる、あるいは不注意そのものが起きにくいような道路環境を作ることのほうが大事ではなかろうか。そのような観点で考えると、日本の道路事情は、かなり悪いといわざるをえないのである。
 その観点から、また、あくまで車の利用者の立場から、考察してみたい。
人に頼らないオランダの道路
 参考になるのは、私はオランダだと思う。実は、1950年代のオランダは、実に危険な道路状況だったのだ。当時のフィルムをみたことがあるのだが、今では発展途上の東南アジアの道路事情のようなものだった。大量の車と自転車と歩行者が、混じった感じで動いている。当然事故も多かった。しかし、その後、オランダは交通事故が非常に少ない国のひとつとなった。 “事故を防ぐには、道路環境の改善が不可欠、ドライバーの注意だけでは防げない” の続きを読む

オランダの不登校問題3 学校不安と学校恐怖

 今回は「学校不安」「学校恐怖」について考える。
 日本で、登校拒否という言葉でいわれていたときには、主に、オランダでいう「学校不安」「学校恐怖」と同じような現象が念頭におかれていた。前回扱ったチェックリストの、登校しなければならない朝に、頭痛や腹痛がおきたりするという現象は、日本でもさかんにいわれていた。そして、そんなときには無理に学校に行かせなくてもよいという「社会的雰囲気」が醸成され、文部科学省もそれを追認するような姿勢を見せて、認定されたフリースクールのような施設にいっていれば、出席として扱ってもよいなどとしている。しかし、学校に行かない事例は、必ずしも身体的症状が起きるわけではなく、明確なさぼりの場合もある。オランダでは、このふたつは区別され、別の対応がとられるわけである。つまり、学校そのものに不安を感じたり、また、恐怖心を起こすような何かがあって行けないのと、単なる勉強嫌いでさぼっている場合は、異なる対応が必要なことは自明である。ところが、日本では、登校拒否という言葉を、不登校に変えたあたりから、この相違が曖昧になっているような気がする。 “オランダの不登校問題3 学校不安と学校恐怖” の続きを読む

教育行政学ノート4 外国人と教育 宗教の問題から

 外国人が教室に入ってくると、日本人だけのときとは異なる教育的課題が生じる。それは世界中どこでも同じである。一番大きな問題は、言葉で、異なる言語で育った人がほとんどだから、当初は全く授業が理解できない。だから、当分特別な時間をとって、言葉を修得してもらう必要がある。子どもはすぐに言語を憶えるといわれることがあるが、それは子ども同士で遊ぶ場合の言語であって、学校で学ぶことをきちんと理解する上で必要な言語能力は、子どもでも修得が容易ではない。だが、その余裕が学校や自治体にあるかは別として、これは、充分な時間と人材を配置すれば、解決可能である。
 解決困難なのは、文化、特に宗教に関する内容である。これは、必ずしも外国人に限らない。最近は、学校側で柔軟に対応するようになったからか、社会的に騒がれることがなくなったが、「エホバの証人」の信者の子どもたちが学校に在籍していると、競争を否定するので、体育の一部競技に参加を拒み、あちこちでトラブルとなったことがある。また、高校入試で、一旦合格させながら、体育の単位がとれないという理由で、合格を取り消し、訴訟になった事例もある。
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