飛行機内でマスク拒否でトラブル 国交省と航空会社のミスではないか

 今日9.10日の羽鳥モーニングショーで、北海道から大阪に向かう飛行機でのトラブルを紹介していた。飛び立つ前に、マスクをしていない客と周囲の客にトラブルが生じた。そこで客室乗務員が、マスクをもっていって、着用をお願いしたところ、そんな義務はないと断られた。そのために座席を移動する客もいたという。しかし、客の誰かがとった映像で見ると、かなり客席は埋まっており、自由に移動できる空きがあったようには思えない。そういうやりとりで、50分ほど出発が遅れたという。離陸後も、その客が大声で話したりするので、途中の新潟空港に緊急着陸し、警官なども着て、その乗客を降ろした。そのときには、乗客から拍手が起きたということだ。そして、降りる際に、その乗客は、「バイバイ」と言ったので、不快になったという談話が放映されていた。

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朝鮮半島でも台風増加

 日本人と韓国人の性質の違いは、かなり気候風土と周囲の政治的環境によって生じていると考えてきた。端的にいえば、日本人が闘ってきたのは自然災害であり、朝鮮の人たちが闘ってきたの外敵の侵入である。日本は、自然災害の博物館のようなものだが、海に囲まれているために、外敵の侵入は、ごくわずかしかない。それに対して、朝鮮半島は、自然災害は極めて少なく、冷害が代表的なものではないだろうか。地震も火山の爆発もない。だが、どの時代でも、まわりの大国とどのように対峙するかに神経を使ってきた。
 自然に怒りを感じても仕方ない、受け入れて対策をたてるだけだ。しかし、外敵と常に対峙していれば、人間的にきつくならざるをえない。こうして日本人の穏やかと言われる性質と、韓国人の激しい性質との相違が生じたのではないか。もちろん、個々にはいろいろな人がいるとしても、平均的にこうした対比があることは、多くの人が感じているだろう。

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鬼平犯科帳 鬼平の危急

 久しぶりに鬼平について書きたくなった。鬼平のドラマを見ることができるサイトの契約をとめてしまったので、あまり書かなくなったのだが、小説は、何度も繰り返し読んでいる。小説にしても、ドラマにしても、鬼平が大変な剣術使いで、ドラマでは必ず最後は平蔵が切り合いの先頭にたって、盗賊と闘う場面になる。実際にこのような切り合いは、ほとんどなかったそうである。町奉行や火付け盗賊改めが捕縛にやってきたら、ほとんどは抵抗もせず、大人しくお縄についたと、歴史書には書かれている。それでは時代劇として面白くないから、切り合いをいれるのだろう。
 小説やドラマでは、更に、平蔵が襲われたり、あるいは騙されて、盗賊の集団に囲まれ、あやうく命を落とすという場面がいくつかでてくる。そのなかでも、もう一歩援軍が遅れたら、確実に死んでいたという場面もいくつかある。

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台風で改めてラウンドアバウトの促進を主張する

 九州は台風10号で大変な状況になっている。私は関東在住なので、被害にはあっていないが、こういう状況をみていると、やはり、いろいろとこうすればいいのに、という思いがしてくる。既に多くの人が主張しているようだが、電線の地中化が必要だと感じる。電柱が倒れ、停電になるだけではなく、倒れた電柱が他の物にぶつかって被害を拡大する。ただ地震のときどうなんだろうという心配がある。ネットで調べると、地上の電柱と地中の電線では、地震による損傷が、圧倒的に地中のほうが小さいということだ。あるサイトで示されている数字では、阪神淡路大震災のときの、架空線の被災が2.4%だったのに対して、地中線では0.03%だったという。地震に対しては、なんとなく地中にあると危険な感じがするが、実は逆なのだそうだ。台風の場合には、圧倒的に地中のほうが被災率は低いだろう。

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矢内原忠雄と丸山真男15 矢内原の信仰の一側面

 矢内原がいかに苦境にたっても、信念を貫き通すことができたのは、彼の強烈な信仰とそれに基づく使命感のためだったことは、間違いないところだ。「日本精神の懐古的と前進的」という天皇の神性否定の論文を書いたり、「神の国」という講演で、「ひとまずこの国を葬ってください」と述べたのは、キリスト教徒としての信念の発露だった。他方、研究者としての矢内原は、極めてマルクス主義的であり、当時の最も批判意識の強い社会科学者としての立場をとって、実証的な研究を貫いていた。これほど強烈なキリスト教信仰と、マルクス主義的な研究スタイルをあわせもっていた人は、世界にも稀なのではなかろうか。そして、この点には、矢内原自身が触れているが、他人からみれば、なかなか理解しにくいところだ。この点は、今後考察していくことにするが、キリスト教徒ではない私からすると、やりは、矢内原の信仰からくる解釈には、なかなか了解しにくいところがある。そのひとつが、満州旅行中の匪賊に襲われたときのことだ。

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ベームの「コシ・ファン・トゥッテ」を聴いて

 以前は、モーツァルトのオペラの最高傑作は「魔笛」だと思っていたが、今は断然「コシ・ファン・トゥッテ」だと思っている。ただ、このオペラは、モーツァルト生前には5回しか演奏されず、その後もずっと不遇のままだったそうだ。戦後になっても、かなり時間が経過してから上演されるようになり、今では多くの人に親しまれている。おそらく、最初の全曲録音は、カラヤンのフィルハーモニア菅を振ったものだったと思う。しかし、その後カラヤンは「コシ・ファン・トゥッテ」を取り上げていない。モーツァルトの他の主要オペラであるフィガロ、ドン・ジョバンニ、魔笛は、いずれも複数の録音があるのに、「コシ・ファン・トゥッテ」のみはこの一回きりだ。おそらく、フルトヴェングラーが「マーラーはワルターに任せた」というような感じで、「「コシ・ファン・トゥッテ」はベームに任せた」という感じだったのだろう。カラヤンに限らず、昔の指揮者にはそういう面があったようだ。カラヤンは、ビバルディの「四季」を長く録音しなかったが、イムジチの録音があるからいいではないか、と語っていたそうだ。

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日本型学校教育の検討2 同調圧力と日本型学校教育は表裏一体だ

 今回の中教審答申への提示案は、さすがにコロナ禍を経たなかで出されたので、社会や学校に露わになった問題に対する「配慮」をしているかのように書かれている。しかし、配慮するように書くことと、それを実行可能な案としてまとめること、あるいは、まとめたとしても、それを実行できるかどうかは、全く別問題である。そうした実行可能性という批判的視点がないと、まるでよいことのように書かれた提言の実際の方向性を見失うことになる。
 さて、まずは、日本型学校教育なるもののひとつの側面について検討しよう。

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矢内原忠雄と丸山真男14 丸山の抵抗論

 私が取り組んでいるのは、矢内原忠雄論である。いろいろと考えているうちに、矢内原忠雄については、多数の人が多面的に論じているから、多少の新鮮味を出すことが必要だろうと思い、戦後の代表的な知識人と言われた丸山真男と比較して論じてはどうだろうと考えたわけである。もちろん、矢内原忠雄も丸山真男も長いことさまざまな著作を読んできたが、この二人を対比してみると、政治的には比較的近いと見られる知識人でも、かなりの違いがあると感じてきた。結論的にいえば、丸山真男という人物は、「知識人」だったのかという疑問である。矢内原忠雄も丸山真男も研究者として超一流であることは疑いない。しかし、研究者であることの「姿勢」に関しては、ずいぶん違うと感じる。知識人としての姿勢は、100%異なる。

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教育学を考える19 教育における実験

 『岩波講座現代』8巻『学習する社会の明日』の巻頭論文が、「教育の実験をしてよいか」という題になっているので、興味深く読んでみた。しかし、実際には、ほとんどテーマ、つまり「教育の実験をしてよいか」については論じられていないのに驚いた。最初に「教育はもっとも実験室化してはならぬものでありながら、もっとも実験室化しやすいもの」という福田恆存の言葉をひいて、教育における「反知性主義」を批判する形になっている。巻頭論文で、各論文の趣旨を説明することに半分を費やしているが、あまりに題名との内容に乖離が大きい。ついでに、蛇足で書いておくと、この巻は、明らかに「教育」を論じることがテーマになっているが、狭義の教育学者が一人しかはいっていないのにも驚いた。

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「日本型学校教育」を考える1

 先日文科省から、中教審に提出された答申案の骨子が公表されている。そして、「令和の日本型学校教育」の構築をめざす立場からの提言となっている。この「日本型学校教育」という言葉が使用されたのは、2016年の「次世代の学校指導体制強化のためのタスクフォース」の最終まとめ「次世代の学校指導体制の在り方について」からのようだ。これは、「教員が、教科指導、生徒指導、部活指導」等を一体的に行うことを特徴としていることを指し、またその成果として、PISAなどでも「学力面がOECDでもトップクラスであり、更に、勤勉さ、礼儀正しさなど、道徳面、人格面でも評価されてきた」としている。ただし、このまとめでは、こうした特質が教師の労働時間を過重にしているために、いままでのような形の継続は困難になっているという認識があるために、「学校指導体制」の改善が必要であるとしていた。

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