『教育』2020.12号を読む 児美川氏の教師のハイブリッド教育評価

 児美川孝一郎「公教育のハイブリッド仕様へ?--自己責任化する学びと教師の働きがい」は、「コロナ禍の今、教員の働き方を問う」という特集の最後に置かれた、いわば教科研的立場の整理という風に読むことができる。おそらく児美川氏は教科研のなかで、最も重要な論客の一人であり、若い世代の教師や研究者に対するリーダーとして活躍している。「教育を読むfacebook」で、1月に重要な講演を行うことが予告されている。そのこともあるので、私としては、この児美川氏の文章については、厳しい見解を表明しておきたいと思う。最近の『教育』を読んでいて、教科研内部には、あまり議論が行われていないように感じる。常任委員会等ではあるのかも知れないが、少なくとも、『教育』の論文では、何か同一方向をみんなが向いている感じがするのである。しかし、本当にそれでいいのだろうか。少なくとも研究者の間では、もっと闊達な議論が行われないと、難しい今後の動向に対する適切な評価と展望は出てこないのではないだろうか。そう考えて、児美川論文には、率直な批判を書かせていただくことにする。期待するからである。
 
 基本的に、彼の見解は肯定できない。後述する児美川氏の論は、普段からICTの活用に消極的であったことが、反映していると考えるからである。しかし、教育学の研究にとって、ICTを最大限活用することは、不可欠のことである。もちろん、活用の仕方は人それぞれだろうが、もし、児美川氏が勤務校における教育活動で、大いに活用してきたのなら、おそらくこの論文で書かれているような立論にはならないと、私は思う。

 そこで、最初に、私の活動をごく簡単に紹介しておきたい。
 私の大学での教育活動では、まさしくハイブリッド的形態をめざしてきたといえる。別にハイブリッドという言葉で考えていたわけではなく、授業の効果をあげるためには、当然講義や演習をやっているだけでは不十分であり、その間をどうやって埋めるか、そのために、どういうツールを使うことができるか、そういうことをずっと考えつつ、可能な限りで最大限いろいろなものを活用してきた。その延長上に、ハイブリッド授業も当然視野にあった。つまり、講義をすべて録画し、ホームページに掲載しておくということだ。私の場合、教科書は自ら執筆し、PDFとEPUBで提供し、授業で使うパワーポイントは授業の前々日あたりにホームページに載せ、授業から学んだことから課題を自ら設定して、小論文を掲示板に書く、授業は録音してホームページに掲載する。こうしたことをやってきた。演習では、evernote に、レポートや諸資料を掲載して、共有を図った。ここに至るまでには、その時点でのツールの利用可能性の制約があるから、一応の到達点といっておきたい。できることなら、録音ではなく、録画にしたかったが、そのためには、カメラで撮ってくれる人が必要なので、録音で妥協していた。しかし、コロナでいろいろ調べているうちに、人を追いかけて撮影してくれるパソコン用のカメラがあるということを知り、それが以前からあるのだったら、使ってみたかったと思っている。
 こういう形で教育活動をやってきた私としては、コロナで休校になれば、リアルタイムのオンライン講義は当たり前だと考えた。だから、退職直前に、オンライン授業の準備をしておくべきだと、同僚に伝えて、大学を去ることになった。児美川氏は、オンライン授業とか、ハイブリッド授業ということを、余儀なくされた形態、上から押しつけられる形態としか考えていないようで、だからこそ反発意識が強くなるのだろうけど、普段から自分で必要なICT活用をしていれば、「上」から押しつけられるのではなく、学生の学習権を守るために、自ら工夫する必然的な方向だと考えたはずである。
 
 具体的に、検討していこう。児美川氏の最初の節は「教育のオンライン化への不時着陸」となっている。
 「日本の教育界に起きた最大の変化は、オンライン教育が瞬く間に普及し、堂々と市民権を得たことなのではないか。」と書かれているが、そうだろうか。大学では確かに、オンライン授業が行われたが、小中学校では、そんなことはない。児美川氏自身が、あとの部分でそう指摘している。むしろ、ネットを活用して、子どもたちの学習を保障しようという教師がいたとしても、校長や教育委員会がストップをかけた学校がほとんどだった。もちろん、私立の学校、特に高校などは、かなり行われたようだが、公立の小中学校では、市民権すら得ていないと、私は感じている。
 そして、児美川氏は、オンライン教育はGIGAスクール構想で規定の政策目標だと書いているが、文科省のGIGAスクール構想のパンフレットをみても、オンライン教育などは、ほとんど出てこない。むしろ、調べ学習が中心になっている。実際に、端末1人1台に近い配布をしている学校でも、やっていることは、調べることが中心だと聞いている。
 次に、民間業者がオンライン教育サービスに入ってくることを、政策が後押しをしているという。確かに、民間業者が入ってくることについては、単純に受け入れることはできないが、現在、教育産業抜きの学校教育は、想像できないといわざるをえない。教育産業に委ねることは、教育のアウトソーシングだという批判をするわけだが、現時点で、学校はたくさんアウトソーシングをしている。代表的なのが、市販テストの活用だろう。小学校では教師はほとんどテストを自作せずに、日本標準とか、ベネッセの試験を活用している。市販テストに合わせて授業をやっている教師も少なくないのではないか。
 私自身は、市販テストこそ、本当は追放して、教師がテストを自作するべきだと思っている。しかし、それはかつて散々議論されたことで、結局、労働条件等を考えれば、無理なのだということになってしまっている。アウトソーシングは、必要な部分もたくさんある。例えば、WIFIやLANの設備を工事したり、副教材などは、アウトソーシングだ。給食なども、だんだんセンター方式が増えている。サーバーの設定なども、学校の教職員がやることはほとんどないだろう。アウトソーシングそのものを否定するのではなく、どういうところで、教育産業や外部に委託するのか、どういう部分は、学校の教職員の手によって行うべきなのかを、柔軟かつ長期的な展望で考えることが必要なのではないか。
 そして、この節で、児美川氏自身、オンライン教育で得るもの、失うものはなにかを、十分に考える余裕がなかったと認めている。しかし、その発想そのものに、私は違和感を覚える。教科研の人たちの文章を読んでいると、教師が学校で対面で子どもたちを教えることが、教育の圧倒的部分を占めているような気持ちをもっていると感じるのだが、人は、学校のみならず、実にたくさんの場で学ぶのである。そして、誰から、何から学ぶかという対象も、教師以外にたくさんある。そして、教師が教えるといっても、語りで、教科書で、副教材で、実験や観察で、というように、たくさんの方法を用いて教える。オンライン教育というのは、そういう多様な学びのツールのひとつに過ぎないのである。そして、オンライン教育のもつ意味も、休校中と、通常の授業が行われているときとでは、まったく変ってくる。だから、状況や場(既に休校前にも、少なくない子どもは、オンラインで学んでいたのだ)で、オンライン教育は、どのような役割を果たしうるか、という視点で考える必要があるのだ。コロナ禍の全国一斉休校という事態になれば、得失論など無意味ではなかろうか。また、授業が再開されたときには、無用になるわけではない。不登校の子どもがいれば、教室の授業を行いつつ、オンラインでそれを流すことで、不登校の子どもが家庭で学習できる体勢をとることは、とても有効なはずだ。
 
 次に、児美川氏は「オンライン教育はどこまで普及したか」を検討する。
 大学はほとんどオンラインが普及したが、小は8%、中は10%、高校47%だった。学習動画やデジタル教材は小中でも5割を越え、私立、そして学習塾が高い。そして、この結果、必然的に格差を含み、公教育外のこととして無視できないのが、GIGAスクール構想でのオンライン化の本質が浮き彫りになっているとまとめられている。次に「災禍に便乗する教育改革」という節になり、行政のやり方は、対応に困る学校現場に支援の「素振り」を見せつつ、以前からの目論見を一挙に実現するたくらみに見える。支援と見せる典型は「少人数教育」であり、目論見の実現はSociety5.0だというわけだ。家庭でのオンライン学習の環境整備に予算をつけ、オンライン学習を含めて構成する。これは、公教育を原理的に転換させるものだ。ハイブリッド教育と家庭学習をも視野にいれたポストコロナの近未来を念頭においている。その線で中教審は討議をしているとまとめる。
 ITを使った教育を進めれば、格差が広がるというのは、事実だろう。だから、止めるべきだというなら、進歩に逆らうに過ぎない。そうした格差をどうやったら是正できるのか、経済的理由で機器を揃えることかできない家庭への援助や、使い方に習熟できない子どもたちにどのように支援できるかを考えることが必要なのであって、格差が生じるから問題だ、などというのでは、ますます格差が拡大するだけだ。どんなに反対しても、使う人はどんどん使っていくし、そうすることで、学習も進んでいく。学校で適切な指導すること、そして、公的に使うことを決めたほうが、是正措置を取りやすくなる。格差による弊害を是正しやすくなるのである。実際に、wifi環境がない家庭には、携帯用wifiが貸し出されているところが多い。
 もちろん、私はGIGAスクール構想に、大いに賛成というわけではない。基本的には批判的な立場だ。しかし、それは、ICTを活用する姿勢が間違っているからだ。GIGAスクール構想は、ハード主義にたっている。基本的には、公費で同一のPCなり、タブレットを購入して、1人1台もたせて、同じマシンで、同じソフトを使って、授業を進めるという立場が見える。おそらくパソコンメーカーの利権が絡んでいるのだろう。しかし、基本的には、ICTを使った教育では、ソフトが重要であって、それも、必ず同一のソフトやマシンを使う必要もない。マシンがあれば、自由に無料の、あるいは家庭が負担すれば、有料のソフト、アプリをインストールできる。そういう環境を整えて、自由な活用をさせることこそが大切なのだ。だから、マシンも、家庭で既にもっている人は、使い慣れたもの使えばよい。学校は、もっていない子どものために公費で購入したものを貸与すればいいのである。同じハードでないと教育できないなどというのは、管理主義的な形式主義に過ぎない。そのような、真にICTを活用した教育を推進したいと願う立場からすると、児美川氏の批判は、実に後ろ向きに見える。
 
 次に「令和の日本型学校教育」という部分になる。日本型学校教育という概念は、要するに、学校が多様な機能を含んで実践しているという意味で、児美川氏は、そこに、経産省のSociety5.0が合体するということを批判しているが、日本型学校教育という概念そのものには、批判的ではないようだ。しかし、私は、日本型学校教育こそ、批判の対象であると考えている。いろいろ機能を含んでいるからこそ、学校は無理な状況になっているので、機能分化して、多くを社会教育に移行させるべきだと考えている。児美川氏が「日本型学校教育」概念を支持していることは、驚きだった。日本型学校教育は、経産省のEdtechのやせ細った学校像への批判であるとしていることで、むしろ日本型学校教育に共感しているようだが、経産省のSociety5.0 と、文科省のGIGAスクール構想は、背景にある利権に違いがある程度のものではないだろうか。といって、利権構造からの批判のみでは、教育学ではない。日本型学校教育は、これこそ、教師の過重労働の元凶ではないのか。
 
 そして、いよいよ表題になっている「ハイブリッド」教育についての検討に入っていく。「教育のハイブリッド化の落し穴」で、最初に、「ハイブリッド化のどこに問題があるのか」と問題提起するが「ハイブリッド型の授業(学習)そのものの功罪ではない」という。「ハイブリッド化が、現在の政策の文脈に粗暴に着地してしまう場合に想定される問題性である」というのだ。つまり、ハイブリッド化のためには、教育条件の抜本的な改善が必要なのに、それがないハイブリッド化は、危険なわなであり、最悪の場合、授業でカバーできない部分は、学校外との連携ということで、オンライン学習(教育産業)に任され、アウトソーシングされる。個別最適化の名で「自己責任化」され、格差を拡大させる。
 単純すぎるかも知れないが、要するに、ハイブリッド教育自体は悪くないが、条件整備がなされないと教育産業へのアウトソーシングと自己責任という罠に陥るだけだというのだ。アウトソーシングについては先述したので、条件整備に関して、斉藤喜博の主張を紹介しておこう。
 私の教育論の原点のひとつは、斉藤喜博なのだが、ふたつのことを、ここで紹介したい。ひとつは、斉藤喜博は、「環境や条件の不備のせいにするな」ということを、常に強調していた。お金がないからできない、子どもたちが悪いからできない、校長が理解してくれないからできない、そういういいわけをしてはならないというのだ。環境のせいで自分が十分な実践ができないといいわけをしていたら、いつまでも実践力は高まらないというわけだ。教師は、与えられた条件・環境のなかで、最大限できることを追求する姿勢をもつ必要があり、そうすれば、自ずと環境や条件も変化してくる。そして、重要なことは、斉藤喜博は、常に最大限、ともに働いている教師を信頼していたということだ。どんな教師だって、ちゃんと努力すれば、いい教師に成長できるという信念があった。他方、斉藤喜博は、校長として、条件整備のために、最大限の努力を尽くしていた。
 それからもうひとつは、メディアの活用である。斉藤喜博が校長として活躍したのは、1950年代だから、今の状況とは違う。しかし、その姿勢という点では、同じではないかと思う。斉藤喜博の時代には、最先端のメディアはフィルムと写真だったので、彼は、専門家と協力して、写真集をだし、また、映画を作った。もちろん、製品としてだされたのは、実際に撮影された極々一部で、膨大な写真や映像は、当然、教師たちの間で実践の検討材料になったはずである。カセットやビデオが使えるようになれば、当然そういうものを取り入れていったと思う。晩年の斉藤喜博は、各地で出張授業を行い、それを録音したものがおこされ、たくさんの本になっている。
 このように、優れた人たちは、多くが最新の技術を自分の仕事の領域に、必要に応じて積極的に取り入れるようにしてきたのだ。
 結論部分で感じるのは、児美川氏は、本当に教師を信頼しているのだろうかということだ。教育のオンライン化やハイブリッドは高度な専門性が必要なのに、条件整備と教師への信頼を欠いたままなら、教師の働きがいを根こそぎ奪うものになるというのが、児美川氏の結論だが、児美川氏が、教師を信頼していれば、こういう結論にならないのではないか。児美川氏が教師を信頼していれば、たとえ行政が、罠をしかけようとも、教師はこうすることができるし、そのことで、教師としての働きがいをこのようにもつことができる、と具体的な内容を語るのではないか。現場の教師が児美川氏のような指導的研究者に求めているのは、そうした励ましなのではないか。児美川氏には、そういうことを語ってほしいと思うのだが。
 今年斉藤喜博が校長であれば、直ちにオンライン授業の手配をしたのではないだろうか。そのための条件整備にも尽力しただろうと、私は確信している。
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です