大分前に、私はパソコン通信の電子会議室で活動していたことがある。そこは、思想(つまりあらゆること)を扱う論争の場で、ずいぶん論争したものだ。インターネットに転換して、パソコン通信は消滅してしまったために、その会議室もなくなってしまった。その結果として、論争からは遠ざかることになった。本来、思考は論争で鍛えられるのだから、物足りない思いがしていたが、最近、複数の場で「論争」することができるようになった。そのなかで、文科省のだして来る概念、あるいはスローガンのようなものの評価が、人によってかなり相違があることがわかってきた。同じ言葉を使っても、人によって意味が違っていたり、あるいは、同じことを考えていても、違う言葉を使ったりする。そういうことの共通点と相違点をきちんと、相互に認識することはなかなか難しい。
まだ日教組が強く、民間教育研究運動が盛んな時代には、運動側と文部省側は、異なる言葉、対立的な概念を使っていた。例えば、「国民の教育権」に対して「国家の教育権」、学習指導要領の法的拘束力があるvsない、高校の多様化vs総合制、特設道徳vs教育全体での道徳教育、等々、まだまだあるだろう。しかし、いまではこうした単純な対立関係ではなく、もっと入り組んでいる。
第一に、文部省・文部科学省が、運動側が使用していた言葉を使うようになり、言葉の使い方が錯綜してきた。そして、運動側が従来重視していたが、政府の側が使うことで、捨ててしまったかのように見える言葉と、双方が使っているのに、異なる意味をもっている言葉が出てきた。前者の代表は「教育の自由」であり、後者の代表は、「地域に根ざした教育」である。もっとも文科省は、「地域との連携」という言葉を使っているのだが、言葉自体には、あまり相違がないが、その意味するところは大きく違う。そして、論争の対象となっていることのなかにも、この言葉に関わることが少なくない。その代表的なものが「主体的」「対話的」「深い学び」などである。「表現力」「思考力」なども同様である。
運動側が「地域に根ざした教育」というとき、そこに込められた意味はいろいろあると思われるが、「地域のなかに子どもたちは生活しており、その生活環境を理解すること」「親の要求を踏まえた教育を実践すること」「地域の教育力を可能な限り保持し、そこに依拠すること」などが含まれていたと思われる。しかし、文科省が、「地域との連携」というときには、まったく意味が異なる。文科省は、学校評議員制度や学校運営協議会を設置して、地域との連携を制度化してきた。このふたつは、ともに地域の協力者を学校運営のなかに取り込むというシステムであるが、それは親たちの代表ではなく、あくまでも校長や教育委員会が選抜した地域の有力者である。
また、1980年代後半の臨教審における「教育の自由化論」をめぐって、文部省と日教組がともに猛反対したことがきっかけとなって、文部省と日教組の対立関係が緩むことになり、現在では、中教審委員に、日教組の立場にある人物が少数ながら入るようになって、少なくとも、答申など、極めて政治的な日教組対策的な政策は影をひそめるようになっている。そうして、ますます文部行政では、かつての国家教育論的な概念ではなく、国民教育論的な概念の「言葉」が使用されるようになっている。
そこで、民間教育研究運動に参加する人たちの間にも、中教審答申や学習指導要領に書かれた言葉に対する評価に、相違が出てきているのである。この間、そうしたことの議論にいくつか関わることになったので、ここで整理のために、考えてみたいと思ったわけだ。
端的にいえば、「主体的」「対話的」「深い学び」「思考力・表現力」などの「言葉」である。そして、議論に参加している人は、いずれも文科省の提起するこれらの言葉に関して、文科省の立場に対しては、全体的には、ネガティブな評価をしている。だが、その否定的な評価の意味が異なっている。
ある人は、「主体的」とか「対話的」という言葉が、何故、いつ、どのように使われだしてきたのかを吟味することによって、常識的な意味ではなく、文科省の意図を暴くことが必要であるという立場をとっている。確かに、「対話的」というのは、当初アクティブラーニングという言葉で提起されていたのだが、何故か、途中で、「対話的」に変化してしまった経緯がある。そうした変遷を正確に辿ることが必要なのだという主張である。
もちろん、私は、そうした作業は必要であると思うので、否定するものではないが、私自身の発想は多少違う。「主体的」「対話的」「深い学び」「思考力・表現力」などは、別に文科省が言い出すか否かに関係なく、ごく常識的に当たり前のことであって、ずっと以前から、優れた教育論は、基本的な概念、つまり、必要なこととして認めてきた。そして、重要なことは、そうした基本的な概念をどうやって実践するのか、教師には、何が必要なのか、具体的に明らかにして、実践することが重要なのだと思うのである。
例えば「対話的」ということを考えてみよう。
「対話的」な教育は、私自身、大学で教え始めたときから、ずっと重視してきたことで、300人、400人の受講生がいる講義でも、学生と私、学生同士の討論をなんとか実行してきた。科目によるが、基本的な教育学の授業では、実現してきたし、学生たちも、その大切さを実感していたと思う。だから、アクティブラーニングという主張が現れて、どうやって大学の講義で、双方向のコミュニケーションを成立させるかが、大きな騒ぎになったときに、「何を今更」と思っていたものだ。
また、小学校では、「対話的」な授業などは、ごくごく当たり前のこととして実行されていたと思う。正確であるかは、あまり自信がないが、おそらく、NHKがハーバードのサンデル教授の講義を「ハーバードの白熱教室」として放映したことが、日本の大学教師たちにショックを与えた、アクティブラーニング騒ぎの発端だろうと思う。だから、あくまでも大学の授業改革として議論されればよかったのだ。それを、審議会などに参加している教授たちが、小学校などの授業でも、アクティブラーニングが必要だなどといいだしたから、小中学校の現場では、反発が起きたのではないだろうか。それで、「対話的」という言葉に、弱められたのだろう。「対話的」授業を本当に広めるためには、小学校では、どこでも活発に子どもたちが発言するのに、上の学年にいくにしたがって、次第に発言は少なくなり、大学では、絶望的なくらい質問も意見表明もなくなる。それが何故なのか。アメリカなどでは、大学でも活発に意見が出てくるのは何故なのか、それを究明することが必要だった。
それはさておき、私が「対話的」ということで、その内実を考察するときには、以下のような点が含まれなければならないと考える。
1 対話とは、ある話題について、多面的な検討を複数の人間で行うことである。
2 対話参加者は、平等な立場でなければならず、またその平等性確保が確認されていなければならない。
3 意見の違いを、正しい、間違っているという視点ではなく、多様な意見があるということを、全員が納得していなければならない。
4 対話の結論は、参加者の合意で可能であるが、基本的には、参加者個人の内面的な確認である。
こうしたことは、少なくとも小学校の多くの授業では、多少の不十分さはあるとしても、実行されてきたと、私は考えている。ところが、確かに、妙な対話的なことが目立つようになったと感じていた。(続く)