読書ノート『職業政治家 小沢一郎』佐藤章

 最近、「一月万冊」というyoutubeをよくみるようになったが、比較的新しく参加した佐藤章氏の著作である。「一月万冊」でも、佐藤氏出演の回は、アクセスが多いそうだが、硬派のジャーナリストである氏の発言は確かに重みがある。それで、遅ればせながら、氏の書いた『職業政治家 小沢一郎』という書物を読んでみた。小沢一郎という政治家の清廉潔白であること、きちんとした政治的信念をもっていること、その信念を実現するために、突き進むエネルギーをもっていること、等々は、小沢の優れた側面を認識することはできた。しかし、これまでもっていた小沢に対する疑問については、まったく解明されることなく、不満が残ったままの著作であった。
 小沢は、初めて非自民党政権を打ち立て、その実質的中心メンバーとなった。そして、従来の念願であった政治改革の重要な政策を実現する。小選挙区制度と政党助成金である。
 小沢によれば、民主主義を実現するためには、政権の交代が必要であり、そのためには、それまで実施されていた中選挙区制度では不可能であって、民主主義の代表的な国家であるイギリスの制度に習って、小選挙区制度を導入する必要がある。そういう理屈だ。しかし、私はそれに同意することはできない。

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「日本型学校教育」中教審答申批判4

 社会は急速にICT化に進んでおり、コロナ禍はそれを圧倒的に促進した。少なくとも、そのように思われる。GIGAスクール構想による一人一台の情報端末の配布ということも、今年度中に実現するという計画になっている。本当に実現しているかは、現時点ではわからないが、そこにもいろいろと、疑問の余地はある。もちろん、ICT化は押しとどめることはできないし、また、押しとどめるべきでもない。大いに進展させる必要がある。しかし、そこに重要ないくつかの観点が、実は、この中教審答申には抜け落ちている。今回は、それを中心に書きたい。
 6章と7章は、基本的に同じことを扱っており、教育のICT化の実現形態を提案している。簡単に内容を整理しておこう。提起されていることを、箇条書き的に整理しておいた。
 
ア ICTを基盤的なツールとして活用
イ 新学習指導要領の趣旨を踏まえる
ウ 従来伸ばせなかった資質・能力の育成に効果
エ 休校にともなう遠隔・オンライン授業への活用

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教育学を考える24 学力の計測可能性とは何か

 教科研から、『検証全国学力調査』という本が出版され、改めて、学力について考えるきっかけになった。この本は、文科省が行っている学力調査の「悉皆」という部分を批判し、抽出調査にすべきである、そうすれば、過度な競争や無意味な事前練習などの弊害がなくなるという主張を明らかにしている。そのこと自体には、反対ではないのだが、もう少し深く考えてみると、では、抽出調査ならいいのかという問題につきあたる。学力を測ることは必要であるし、そもそも勝田守一は、学力を計測可能性との関連で論じていた。だから、学力調査自体は必要だ、そういう認識になっている。
 抽出調査なら、競争は起きないかといえば、PISAの例をみればわかるように、十分に起きる可能性がある。競争が起きるかどうかは、悉皆調査か抽出調査かではなく、結果の公表の仕方によるのではないかと思うのである。悉皆調査であっても、一切都道府県や市町村あたりの平均点とか、学力分布状況を公表しなければ、競争にはならないだろうし、抽出調査であっても、県単位の順序などを公表すれば、競争にならざるをえない。もちろん、悉皆調査のほうが、公表圧力が高まることは事実であり、文科省がより激烈な競争を狙って学力調査を行っていることも疑いない。だが、やはり、競争と悉皆・抽出とは直接的な因果関係があるわけではないのだ。

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海外の観客をいれないオリンピックに、存在理由があるのか

 ついに、というか、やっというか、オリンピックの海外観客の受けいれをしないことが正式に決まった。といっても、海外からの観客が皆無になることを決定したわけではない。そこは、新聞報道が相変わらず隠しているところだが、VIPやスポンサーの関係者の招待は、IOCが頑として譲らない部分として残っている。しかも、確実な情報ではないが、その費用は日本持ちだという。交渉事項かも知れないが。そして、選手だけではなく、役員、コーチ、更に報道陣がいる。選手を選手村に閉じ込めるとしても、役員、コーチ、報道陣はそうはいかないから、行動規制はかけられない。まして、VIPなどは、かなり自由に行動するだろう。無観客になった場合、VIPはどうなるのだろうという疑問もある。まだまだしんどい交渉が続くのだろう。
 さて、この間、オリンピックに関して大きな話題がふたつあった。佐々木問題と海外観客である。これは、極めて大きな問題であるが、では、スポンサーでもある大手新聞は、これを社説でどのように扱ったのだろうか。それを見てみよう
 日経と読売は、佐々木問題も、海外観客についても、まったく社説で扱っていない。しかし、オリンピックに関して、読売と同一歩調と見られる産経は、両方を扱っている。しかも、あくまでもオリンピック開催に前向きで、「災い転じて福となす」ほどの熱だ。

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ボエームのCD カラヤンは何故ベルリンフィルを使ったのか

 プッチーニの傑作ボエームは、トロバトーレと異なって、ドラマに無理がなく、よくあるパターンの物語である。貧しい恋人の一方が(たいてい女性だが)、不治の病にかかり、死んでしまう。オペラでは椿姫もそうだ。だから、特別にドラマの進展としては面白くないが、出会いの場面の演出や、友人たちの絡み具合に、このボエームの面白さがある。先日映画版を見直して、改めてこの曲の魅力を再認識した。映画は、ネトレプコのミミ、ヴィラゾンのロドルフォで、指揮はド・ビリー。オペラ映画が制作されるのは、近年では珍しいが、やはり、ネトレプコという、歌手として優れているだけではなく、女優としても十分に通用する美人ソプラノが現れたので、実現したのだろう。出産後、いかにもオペラのプリマドンナという風格になってしまったが、この時期の彼女はまだまだ映画女優として主演が可能な雰囲気をもっていた。声もミミに相応しく細いが、強い声をもっていた。この映画は実際に映画館で見たのだが、今回見直したのは、クラシカジャパンで放映されたものを録画したものだ。

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佐々木問題の間違った受け取り 文春記事の柱は渡辺直美ではなく、MIKIKO排除にある

 佐々木氏擁護の文章がけっこう出始めているが、的外れだと感じる。というのは、文春の記事は、オリンピッグなどというキャッチフレーズで、渡辺直美氏を侮辱するようなアイデアをだしたということは、ある意味、おまけのような部分であって、記事を読めば、もっとも力をいれて書いているのは、演出の責任者が、4人も交代していて、しかも、ほとんど協力関係がないような状況、それでも、一応まとまった成果をあげつつあり、IOCからの高い評価をえていたMIKIKO氏を排除して、自分の思い通りの案を作っていこうとした、しかも、そのなかで女性を排除したという佐々木氏のやり方を批判した記事だった。おそらく、リークした人物がいるのだろうが、それは、佐々木氏を追い落とそうという意図だったろう。それは間違いない。そして、その主な理由は、佐々木氏のリーダーシップでは、世界に誇れる演出は不可能なのに、独善的に突っ走っているという危機感だったのではないかと、私は想像している。もちろん、その正否はわからない。佐々木氏がどのようなプランを進行させていたのか、また、IOCに評価されていたというMIKIKO氏のプランがどういうものなのか、まったく部外者にはわからないわけだから、判断のしようがない。そして、文春リークというやり方がフェアであるかは、大いに疑問の余地がある。

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「日本型学校教育」中教審答申批判 3

 今回は、「8人口動態を踏まえた学校運営や学校施設の在り方について」を検討する。ここでいう人口動態は、
・少子化
・高齢者人口の増大
・労働人口の減少
・人口増減の偏り
等である。
 高齢者人口の増大や労働人口の減少は、大きな社会的、政治的な課題であるが、教育的課題とは言い難い。生涯学習や、リカレント教育の課題としては、当然改善していく必要があるが、ここでの課題としては、学校教育であり、主には義務教育段階なので、考慮されてもいない。
 主に課題となっているのは、子どもの人口が少なくなっている地域での問題である。確かに深刻だと思うのは、1市町村1小学校1中学校という市町村が233団体(13.3%)あるのだそうだ。これまでの文科省のこうした状況認識から出てくるのは、ごく当たり前のように、学校の統合だったが、この答申では、他のいくつかの提言をしている。

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面白くもないドタバタ劇はうんざり 佐々木宏問題

 オリンピックの仕事を担っている人たちがすべて、このような人であるとは思わないが、次から次へと出てくる、このナンセンスなできごとは何なのか。
 森氏といい、この佐々木宏氏といい、オリンピックに関わっている人には、いわゆるオリンピック精神に合致した精神をもっている人は、いないのではないかと思えてくるほどだ。それだけ、オリンピックとは、虚像なのか。あるいは、あまりに利権に走ってしまった日本のオリンピック関係者の異様な姿なのか。森氏と佐々木氏の共通点は、女性蔑視、女性差別意識という点だ。しかし、考えてみると、初回オリンピックは、女性の参加を認めていなかったことでわかるように、近代オリンピック創設者のクーベルタンは、実は女性差別主義者だったともいえるのだ。何しろ、フランス兵が弱くなったから、体力増強を図る目的があったという位だから。
 そういう点とは別に、今回こうしたリークが「今」なされたのは、なぜだろうかということに、興味がいだかざるをえない。なにしろ、一年前のことなのだ。lineのやり取りをしたメンバーから出たか、あるいは、そのメンバーが誰かに話し、それを聞いた人がリークした可能性があるが、現時点でだしたということは、オリンピック開催に対するネガティブキャンペーンをする意図を示したということだろう。また、式を演出するチームに、まとまりがないことも憶測させる。 

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白鵬を擁護する

 3日目からの休場が決まって、再び白鵬に対する批判や引退勧告が強くなっている。ヤフコメをみても、そういう意見がほとんどで、白鵬を擁護する書き込みはほとんどみられない。しかし、白鵬非難の見解を見ると、よく考えればおかしなものだ。
 私は相撲ファンでもないが、日本人だから小さいころから相撲は、時々は見てきた。小さいころの印象は栃錦・若乃花のライバル同士の相撲だ。それから、大鵬、柏戸、北の湖、千代の富士、貴乃花と、なんとなく印象に残っている程度だ。しかし、私の若かったころの大相撲と、今の大相撲は、かなり印象が違う。それは、端的に、強い力士はほとんどが外国人、特にモンゴル人ということだ。やっと、日本人横綱稀勢の里が誕生したら、早々に引退に追い込まれてしまって、またまた、外国人のみの横綱になっている。この二人が引退したとしても、代わって日本人の誰かが、すぐに横綱になるというわけでもない。そんな力士は、いないわけだ。つまり、国技などといいつつ、結局は外国人に頼って成立しているという状況がある。

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飲食店の深夜営業は当たり前なのか

 コロナ禍の緊急事態宣言が解除の動きになっていくが、解除になると一番変わるのは、飲食店の営業時間だろう。すぐに自由になるかどうかは、現時点でわからないが、やがて以前の状況に戻ることは間違いない。しかし、飲食店が深夜までやっていること、そして、酒が中心の店は、もっと遅くまでやっていることが、本当にいいことなのだろうか。またスーパーなども遅くまで開店しているが、これだって考えなおす必要があるのではないか。
 もちろん、どうしても深夜に働く必要がある職種もあるから、全面的に閉店になることがいいとは思わないが、仕事が終わると、一杯やって、深夜に帰宅するというのが、労働者としての健全な生活とは思えないのである。

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