ネトレプコがミミを歌ったザルツブルグ音楽祭のライブがあると知って、なんとか見たいと思い、テレビからの録画をたくさんしているオケの友人が持っているというので、早速借りて視聴した。素晴らしかった。少なくとも演奏に関しては。しかし、カラヤン亡き後のザルツブルグ音楽祭は、好みはあるだろうが、すっかり変わってしまって、私には馴染めない演出が多いし、これもその例にもれない。
まず演奏だが、すべての歌手に、これはちょっとという不満の要素がない。ボエームというと、ムゼッタが不満なことが多い。ムゼッタは、画家マルチェルロの恋人だが、ついたり離れたりという関係で、しかも気が強い。声楽的にはかなり難しいと思うのだが、多くの場合、二番手歌手によって歌われる。カラヤンの有名なレコードでも、唯一の弱点として多くの人が、ムゼッタ役のハーウッドをあげる。聞き直してみたが、もちろん、カラヤンが選んだ歌手だから、まずいわけではないのだが、とにかく、この名盤は他の歌手たちが、あまりに素晴らしいので、その素晴らしさについていけず、なんとなく聴き劣りがしてしまうのだ。そういう意味でも難しい役だ。ワーグナーの指輪全曲盤での、ジークリンデとジークムントのような位置に似ている。しかし、この二人は、ワルキューレでは主役だから、当然劣った歌手を使うわけにはいかないので、優れた歌手が使われるのだが、それでも、ジークフリートとブリュンヒルデを歌う歌手だったら、もっといいのに、と思われることが多いのだ。それと同じ、ミミを歌えるレベルの歌手によって、ムゼッタが歌われれば、ずっと印象が違うということが多い。この演奏をぜひ聴きたいと思ったのは、ムゼッタをニーナ・マチャイゼが歌っていることだった。マチャイゼは、オペラの主役を歌う歌手だ。そして、ネトレプコが妊娠でキャンセルした公演(グノーのロメオとシュリエット)を、ネトレプコ推薦による代役で歌った歌手である。その映像をみて以来、注目の歌手になった。そして、ヴェルディ全曲映像盤で、「リゴレット」のジルダを歌っているのだが、これが素晴らしい。「リゴレット」を扱ったときに、もっとも好きなジルダとしてあげておいた。
そして、ムゼッタだ。登場から、刺激的な役なのだが、文字通り刺激的に登場し、場をかき回す。パトロンとやってきて、パトロンを追い出しつつ、マルチェルロに秋波を送る場面の表現が、さまになっている。そして、第三幕では、マルチェルロと派手に痴話げんかをして、出て行くのだが、未練も残している。多くはここで、完全に怒って、我を失って出て行くのだが、もっと複雑な心境を歌う。こうした表現力は、やはり、主役を普段歌っている歌手ならではだろう。
ミミのネトレプコはさすがだが、映画のとき(4年前)のほうが、声が細く、ミミに相応しい感じだった。実はミミも荒波に揉まれた強い女だという解釈であれば、これも納得できる。
ベチャワのロドルフォは、すんなりとははいっていけなかった。HMVのレビューで、村井翔氏が、草食系のロドルフォと評価していたが、聴いてみて、本来草食系テノールのベチャワが、肉食系を演じようとして、ちょっと無理していると感じた。持ち味の草食系ロドルフォを徹底できなかったのではないか。演出家か指揮者の要求によって。
その演出だが、やはり、どうも感心しない。現代のパリに移しているのだが、そのことによって、何を表現したかたったのか。いろいろな今風メディア機器が使われるが、それが重要な役割を果たしているわけでもない。ただ、カルチェラタンの場面で、ワイヤにつり上げられた人が、子どもたちを喜ばせているのは、面白い見せ場だが、しかし、劇の筋とはほとんど関係もない。
そうした時代の移しかえよりは、登場人物たちが、芸術家の卵であり、貧しくてもそうした誇りをもって生活しているのに、ここではいかにも、崩れた生活をしていて、ミミまでが崩れた感じを故意にだしている。見ていて、心地よく感じないのだ。どうもザルツブルグ音楽祭の演出はこういう、殺伐とした雰囲気をだすことが多いのだが、あえてそうする意味が理解できなかった。
演出面を除けば、素晴らしいオペラ上演だ。