「日本型学校教育」中教審答申の検討 義務教育1

 いよいよ中核的な義務教育に関する部分の検討になる。
 まず最初に、9年間を通した教育課程、指導体制、教師養成について一体的な検討が必要であるとする一方で、多様化した子どもの状況に対応するとともに、誰一人取り残さないという基本原則が確認されている。ただ、なんとなく空虚な響きがある。教育課程や指導体制といっても、9年間の割り振りとして、既に、6-3-3、6-6、9-3という三つの学校形態か一条校として認定されており、しかも、通常の小中学校についても、小中連携校などがあり、連携校の場合、きり方が6-3ではなく、5-4や4-5の型もある。つまり、義務教育学校としての統一的な学校体系は、崩れているのである。「通した」という意味は、どの程度重みをもっているのだろうか。
 そして、多様な資質に応じることと、誰一人取り残さないということが、どのように関係しているのかも定かではない。

 そして、より理念的には、以下のように必要なことが列記されている。
 
能力適性に応じる・安全・安心な居場所・多様性を尊重しつつ協同する・持続可能な社会づくりの態度、リーダーシップやチームワーク、人間性、特別支援学校に在籍する児童生徒の副次的な籍
 
 さて、こうしたことを具体的に実現するための方策が続くのだが、とりあえず、箇条書きに整理してみた。
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教育課程の在り方
・知徳体のバランス
・GIGAスクール構想によるICT活用→個別最適な学び・協同的な学び
・言語能力(教科書や多様なテキスト、グラフの読解・論文)・情報活用能力
・小学校中学年までは指導の個別化が重要
・学びの自覚化
・専科指導の重要性→小学校高学年の教科担任制、外部人材、
・教科を学ぶ本質を伝える、他者に説明し、学びあう
・将来とのつながり→キャリア教育(学校全体で行う)
・学習を自ら調整する力を身につけさせる
補充的・発展的な学習指導
・異なる学年の内容を扱うことができるようにする
・補充的学習ではICTを活用(個別学習にならないように、協働的な学び)
・特定分野に特異な才能のある児童生徒への指導の検討分析
カリキュラム・マネジメントの充実 柔軟性が大事
・標準授業時数は重要(ただし、ICTを活用して柔軟に)
・感染拡大に対する柔軟な対応
・教育課程の公表(学校)
義務教育9年間を見通した教科担任制導入
・2022年度から導入
・負担軽減となるように
・音楽・図が工作・家庭・体育が既に実施
・外国語・理科・算数を新たに対象とする
教師養成の在り方
・小中両方の免許を取得することが望ましい
・両方とりやすいように環境を整備(共通科目の設置)
・現場での経験を加味
義務教育を実質的に保障するための方策
・不登校児童生徒 スクールカウンセラー、スクール・ソーシャル・ワーカー、アウトリーチ型の支援センター、不登校特例校の設置、公民の連携、フリースクールとの連携、ICTの活用
・義務教育未修了への対応 県最低ひとつの夜間中学の設置・夜間中学に日本語補助者、母語支援員、スクールカウンセラーの配置
生涯を通じて心身健康になるための資質・能力育成
・養護教諭の配置
・学校医、学校歯科医、学校薬剤師との連携
・健康診断情報の電子化と効果的な活用
・栄養教諭の配置
いじめ・虐待への方策
・相談体制の充実と警察との連携
・SOSのだし方の教育・自殺予防
・データの活用
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 いくつか気になる点を考えていこう。
 小学校低学年においては、指導の個別化、学びの自覚化などが強調され、また自己と将来とのつながりの見通しなどが書かれている。
 学びの自覚化とは何を指すか、あまり明確ではないが、「自己と将来のつながりの見通し」とおそらくつながっているのだろう。小学生が、自己と将来のつながりの見通しをつけられることは、大いに疑問であるし、その点を強調することは、むしろ有害なのではないだろうか。小学生が、社会に出るころには、彼らの職業構成はかなり変わっている可能性があるからだ。
 私は、教師志望の学生を主に相手にしていたので、面接練習などをよく行っていた。もちろん、形式的な練習をするのではなく、そこで議論をすることを主眼にしていたのだが。
 私はよく「子どもが相談にやってきて、自分は勉強が嫌いだ、なんで勉強なんかしなくちゃいけないのかわからない、と言ってきたら、どう対応するか」という質問をよくした。すると、ほとんどの学生は、以下のように回答する。
 「勉強はね、将来生きていく上で必要なことを学ぶのよ。先生も我慢して、勉強してきたから、先生になれたの。だから、しっかり勉強しようね。」
 つまり、将来のために必要だと強調する学生が、ほとんどである。最初にそれ以外を言った学生は記憶にない。しかし、小学生に将来のことなど、リアルに想像することはできないし、そんなことは、さんざん大人から聞かされているはずである。しかし、納得できないから、相談にくるわけだ。しかも、相談にくる以上、なにか積極的な姿勢をもっていることの証拠である。にもかかわらず、将来必要だからなどという、義務的なことをいえば、積極的な姿勢を引き出すことなど、ほとんどできない。子どもに限らず、大人でも、強制された学びなどには、喜びを感じないし、積極的にもなれないものだ。義務的に強制されても、学ぶことに積極的になれるのは、今置かれた状況にとって、その学習が必要であることを、実感する場合である。大人の場合には、そうした状況は普通にあるが、子どもの場合には、それは生活のなかではほとんど起こらない。テストがそれを人為的に作り出すが、しかし、テストで学んだことは、テストが終わればたいせい忘れてしまう。
 そして、本当に自発的に学ぶのは、対象が好きな場合だ。これも、大人でも子どもでも同じだ。つまり、遊びと関連しているときだといってもよい。一般的には、学習は遊びから始まるといってよいのだ。そして、そこまで許容することが、中教審の想定する学校教育にできるかという問題がある。私がよく引き合いにだすサドベリバレイ校の教育は、まさしく遊びを軸にした学習である。
 もちろん、サドベリバレイ校の教育を、日本の公立小中学校で実行することはできないが、しかし、どこまで、学びの自覚化などを本気で実行させようと思っているのかは、そうした学習の本質に迫った形での提起になっているかどうかでわかる。残念ながら答えは否である。
 
 次に教科担任制について考える。答申は、既に実施されている音楽・図が工作・家庭・体育についてはそのままで、新たに外国語・理科・算数を対象を対象とするとしている。(ただし、理科の専科は、大分前から部分的に導入されている。)
 しかし、これは極めて中途半端で、混乱を生じさせずにはおかないと考えられる。もし、教科担任制を導入するならば、その教科は原則教科担任に任せるようにすべきである。しかし、中教審の案は、小学校教師は、現行のとおり、全教科を担当するが、専任の教師がいる場合には、その限りで教科担任にまかせる。専任がいないなら、担任の教師が担当するというように読める。実際に、現在の小学校における教科担任制は、そのように運営されている。これでは、教科担任制の良さが十分に発揮されないし、教科担任制を導入することで、一般の小学校教師の負担を軽減することも、あまり期待できない。本当に教科担任制を導入するなら、再度いうが、その教科はすべて専科の教師が担当すべきである。とすると、では一般小学校教師は何を担当するのか。それは、主要4教科に専念するのがよい。そうすると、音楽などの従来の教科担任の科目の教師は、担当科目が不足することになるので、複数校を担当する。英語も専科がよいに違いない。そうして、一般教師は、主要4教科とクラス担任・生活指導を担当するのである。そうすれば、分担関係は明確になり、また、主要教科に専念するのだから、十分な授業準備なども可能になるだろう。そして、教科担任による授業は、実はその科目が苦手だ、というような教師に習うことがなくなる。
 他方、そのように明確な区分をしなければ、ある年には、一般の小学校教師は、担任と国語と社会だけ、だが、別の学校にいくと、全教科を教えなければならない、そんな不規則な状況に置かれるのである。どの教科を担当するかは、まったく状況次第ということになり、しかもその変化の幅が極めて大きい。そんなことかうまくいくはずがない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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