序章の部分のみの考察をする。特に、国民の教育権論の部分だ。堀尾氏は、国民の教育権論の最も代表的な論客であり、その象徴的存在であった。そして、本書でも、国民の教育権論を擁護している。私自身も、国民の教育権論の支持者であるが、現状認識において相当な違いがある。そして、私自身の最も重要な自身の課題としているのが、国民の教育権論の再構築であるので、堀尾氏の検討は、避けて通ることができない。
私は、国民の教育権論が、1980年代から90年代にかけて、完全にその力を喪失したと解釈しているのだが、その原因について、堀尾氏は一貫して、それを書いていない。新自由主義政策に圧迫されてきたという立場であろう。だから、新自由主義的な教育権論に対して、国民の教育権論を対峙していることになる。だから、ここでは喪失の原因ではなく(それは佐貫論の検討として行う。)堀尾氏の論理が、新自由主義的な自由論や公共性論に有効であるかを検討する。
まず、教科書訴訟高津判決の論理を批判することから、堀尾氏は始める。「現代国家は、福祉国家であり、そこでの現代公教育においては教育の私事性はつとに捨象され、これを乗りこえ、国が国民の付託に基づき自らの立場と責任において公教育を実施する権限を有するものと解せざるをえない」と教育内容への国家介入を合理化した。(p17)そして、この「公」観は、外国人学校の卒業生を高等教育の受験資格を認めない、公務員の採用を拒むものである、と批判している。
これに対して、堀尾氏が対抗論としてだすのが、私事性論である。「教育は公権力が介入すべきではない、市民的自由の領域に属するものという私事性論は、近代思想の中核から導き出される」、そして、「教育の公共性論は、人権論、「教育への自由」と結びついてはじめて、国権論的公共性論と対峙できる。」と。
しかし、堀尾氏は、臨教審の「教育の自由化」論を否定する。民営化や市場化は、教育の自由にも見えるが、教育の自由化、私事化、商品化、アカウンタビリティー、受益者負担、「選択の自由」は、社会選別論であると批判する。
高津判決のいうように、国民の付託に基づいた国が、公教育を実施する権限を有するということが、私事性を捨象しているか、また、公教育の実施とは、どこまでかということまでは、議論の余地がある。ただ、教育の私事性を完全に否定して、国家がどこまでも教育をコントロールするというわけにはいかないし、そもそも、新自由主義の原則にそれは反するだろう。
逆に、教育は公権力が介入すべきではない、市民的自由の領域であるというのも、また、それが近代原則といいきることができるかも、かなり疑問である。公費による義務教育と完全に私事性と理解することが、両立するとも思えない。だから、堀尾論では、私事の組織化となっているのだが、公費で運用される以上、組織するのは国家になるのではないか。
したがって、この公教育の構成原理でいえば、実は、高津判決の論理と堀尾論は、相当程度重なっているといえる。
もし、教育の自由化や選択の自由が、徹底的に実施されており、文字とおり新自由主義的な政策が実現していたら、実は、国民の教育権論と、それほど矛盾しない形をとった可能性もある。しかし、自民党政府は、特に安倍内閣は、新自由主義的な性質は濃厚とはいえない政府だった。むしろ、伝統主義にたつ国家管理的な政策をとっていたというべきである。道徳の教科化や体育振興による教育の同質化などは、新自由主義的とはいえない。だからこそ、学校選択の政策を一時期やろうとしたが、最近はすっかり教育行政的にも下火になっており、ほとんど「選択の自由」などは、公教育からは撤退しているのである。受験校の選択ができるといっても、自分の意志で決められるものではない状況は変わらない。
「選択の自由は差別である」という考えこそが、実は、国民の教育権論と国家の教育権論が、接近した原因であると、私は考えている。臨教審の「教育の自由化論」は、アドバルーン的な主張で、中曽根内閣が実現しようとしていた構想だとは思えない。だからこそ、文部省の反対によって、早々にひっこめたのである。しかし、国民の教育権論の側も、「教育の自由化論」に反対するために、「教育の自由」を主張しなくなった。この堀尾氏の論文においても、「教育の自由」は、理念的に一カ所だけ語られているだけで、そもそも教育の自由とは何かを、「教育の自由化論」との相違を明らかにしつつ展開されているわけではない。国民の教育権論における「教育の自由」論は、法的な拘束力のある学習指導要領を否定すること、教師に教育の自由があるという主張だった。私は、国民の教育権論にたつので、その主張を支持するが、しかし、それは憲法的、あるいは実定法上の規定ではない。国際的にみて、憲法で「教育の自由」を規定しているのは、オランダのみである。一般的に「教育権」は社会権なので、自由権としては規定されていない。
したがって、やはり、憲法上に「教育の自由」を規定することが必要だといえる。「学問の自由」を「教育の自由」と解釈することには無理があるからである。そのとき、どのような規定、内容をもつかは、別途検討するが、ここでは、それでも、「学校選択」は、憲法的な権利から導くことができることを示しておきたい。というのは、堀尾氏は、学校選択権を新自由主義的であるとして、一貫して否定してきたからである。
憲法は、教育を受ける権利を規定している。では、教育を受ける権利とは何だろうか。今、義務教育において、教育を受ける権利が保障されているだろうか。結論的には、不完全にしか保障されていない。国民のほとんどの人は、小中学校の教育を「権利教育」ではなく、「義務教育」として意識しているに違いない。それは、実態が「義務」の教育になっているからである。権利と義務の違いは、義務は、「しなければならない」ことで、権利は、「することかできる」、あるいは、「しないですますこともできる」ものである。つまり、選択の自由がなく、しないことができないものが、義務なのである。現在の小中学校は、選ぶことができないからこそ、義務教育と意識されているのである。
もし、教育が私事で、市民的領域に属するならば、そこで実現する教育は、多様な形をとるはずである。だから、「教育を受ける権利」は、多様ななかから、自分がよいと思う教育を選択する権利でなければならない。多様な教育があるが、どれか、自分の意志と無関係に、あてがわれるとしたら、それは「権利」ではないのである。
「学校選択」を否定した時点で、実は、国民の教育権論は、国家教育権論とは本質的に違いのないものになってしまったのである。