インターネット内発言から見た人間の尊厳

私は、人が、ある一つの問題について考え、その考えを発する方法には何があるか、その時の権利とはどうなっているのかを考えた。方法については、ただ口ずさむ、直接相手に対して口から言葉を発して伝える、文字として表す、出版する、作品にする、など、多くの方法を思い浮かんだ。そして、その中でも、近年になって急速に普及した、インターネットによる掲示板投稿、いわゆるネット社会での発言について考えることにした。また、一概にネット上での発言といえども、個人によるものやグループ集団のような複数で行うものなど、さまざまなユーザーが存在するが、特に、ネット内での過激な発言が目立つ、「ネット右翼」に注目して調べていこうと考える。

インターネット内発言について取り組もうとした理由は、今までは自分が指定した人にしか自分の意見を伝えることはできなかったが、インターネットを使うことにより、不特定多数の、自分が会ったことの無い人たちに向けて意見を発することができるようになり、自分が直接会わなくても発言できるということから、良い意味でも悪い意味でも「自由」に発言できるようになり、誹謗中傷なども構わずでき、ネット内=便利という概念が崩されかけているように見え、気になったからである。また、ネット内で飛び交っている過激な発言が本音であるのか、もしくは、他から直接見えないから言えるのか(面と向かっては言えない?)という疑問を持ち、相手が見えない世界で誹謗中傷された人が侵害された権利についてどうなっているのか、興味を持ったからである。私はこういったインターネットの利便性の中にある、相手が見えない世界での発言について、いくら相手が見えないから普段よりも強気な発言ができるといえども、さすがに限度というものがあると思うので、そういった発言は慎むべきだと考える。特に、ふざけているのか真面目になのか表情がわからないネット内社会では、自分はふざけて発言したつもりでも、相手にとってはとても不快に感じさせる内容にあたる可能性があるので、ネット内でもマナーを守った発言をすべきだと考える。

調べる方法は、書いた本人が見えない「ネット右翼」自体に直接インタビューをすることはできないと思うので、ウェブサイト、実際にした過去の発言、文献、また、ネット右翼に詳しい人の話を参考にして進めていこうと考えている。特にネット右翼に関しては「2ちゃんねる」が主であるようなので、2ちゃんねる内を周回したいと考えている。そして、ネット右翼という言葉自体、近年になってでてきた新しい俗語であり、定義もあいまいで、諸説ある様なので、偏った考えにとらわれないよう、広い視野で調べていこうと考えている。

私の考える人間の尊厳とは、人が何か考えを発する権利や、その発言によって傷つけられない権利である。それは、誹謗中傷や、反社会的な発言が行われたときに、その対象となった人の人間の尊厳が犯されていると考える。その中でも、発言する本人が見えないために良い意味でも悪い意味でも自由な発言ができるインターネット内の発言を取り上げ、特に活動が活発なネット右翼についての研究をしていきたいと思っている。

認知症に携わる人々の尊厳とは?

私たちのゼミのテーマが「人間の尊厳」に決まった。私の考える人間の尊厳とは、簡潔に述べると、人間が人間らしくいられることだと考える。私たちが不自由なく何気なく生活していることは尊厳が確立されていると思う。

今回のゼミのテーマでは人間の尊厳を侵されている人々に焦点を当てる。身体やメンタルなど様々な視点から侵されている人を予想することが可能である。

私が脳裏に「“認知症”の方々は尊厳を侵されているのではないか」と浮かんだ。実際に私の祖父が認知症の症状が少しあり、その援助をしている祖母も見ていたのでより一層調べてみたいと思った。認知症は加齢と共に発達していた機能が低下することである。例えば記憶能力の欠落から物忘れが激しくなること、寝た事を忘れ睡眠障害になってしまうことなどが挙げられる。完全に認知症の人々は何も考えないで生きているのでそもそも尊厳の確立すら意識することがないと予測出来る。 自分の思い通りに行動出来なくなってしまったりすることは、「人間の尊厳を侵されている」ということに合致すると予想した。

私は今回のゼミで調べていく方針として、もちろん認知症の症状や実際に認知症である人々もそうであるが、認知症に援助している側にも焦点を当てて追求していきたいと思う。

認知症の援助をしている人は自分の時間を奪われていることになる。そうなると、援助している側にも尊厳を侵されている可能性が出てくると考える。

具体的な調査内容としては認知症の人の尊厳を確立する為にはどのように援助すべきであるか。認知症の方の援助をしている周りの人はどのようなアプローチをしているのか。また、援助の疲労やストレスから援助の疎遠が伺われるのかどうかなど。

調査方法については母が介護保険の認定調査の仕事に携わっていることから認知症の方々の実態や家族援助について詳しく聞きこみたいと思う。認知症の方々や家族のプライバシーの保護の為、仕事を拝見したりすることが困難であるようなので、インタビューで出来る限りの事を答えてもらいたいと思う。また実際に認知症の居る老人ホームなどに訪ねる事が出来ればいいと思う。

また、認知症をテーマにした映画がいくつかあるようなので鑑賞し、文献で調査するなどして少しでも認知症の援助について感じることがあればいいと考える。

将来、認知症になる可能性は誰にでもある。そんな時人間が人間らしくいられる為にこのテーマを徹底的に追求していきたいと思う。

 

いじめによる人間の尊厳の侵害を防ぐ

毎日の生活で私の人間の尊厳はちゃんとある!と感じる人は多くないだろう。尊厳についてあまり考えていないということは幸せに生きているからだろう。この幸せとは、毎日がハッピーな気持ちでいることでなく、生きる希望を持ち続けているかということだ。辛かったことがあっても未来を信じて努力しようとする姿勢は生きる希望があるととらえる。一方、自分は人間らしい暮らしをしているのだろうか、と考える人もいる。例えば、経済的に裕福であっても孤独を感じて毎日死にたいと思っているような状態であれば、生きている意味があるのか、と考えやすくなるだろう。このように、人間の尊厳について考えることは、尊厳が侵されている状態であることが多い。自分たちが幸せであるから不幸な人たちのことが盲点になりやすい、ということは、共存ができていなくみんなが平等な社会ではなく、改善をしていかなくてはならばない。日本では、死因の中でも自殺が大きな割合で占めている。自殺はただ死にたい、と思っただけで実行するほど軽率な行為ではない。自殺は精一杯生きたくてももうその望みはなく、その辛さから逃れる最終手段であり、自殺を選択する状態は決して人間の尊厳があるとは言えない状態だろう。自殺の中でも、いじめによるものは大きく取り上げられる。様々な理由があると思うが、いじめはとても身近な存在であるから注目されるのだと私は思う。加害者でも被害者でもほぼすべての人が経験したことがあり、尊厳が侵される原因の中でも最も身近なものだと言っても過言ではないだろう。

いじめが深刻な問題になるのは学校である。子どもたちは他人の気持ちを理解できなかったり、大人数の仲間を作り少数の人を非難したりいじめが起きやすい条件があるし、多くの人がいじめを体験する初めての場所でもあり、学校のいじめは尊厳を侵しやすくなる。
それでは、いじめを未然に防ぐには教師はどうしたらよいか。今よりも子どもの生活と密着になれるようにすればよいのか。今の教師の仕事の状況からして、これ以上仕事を増やすことは不可能であるし、仮にスクールカウンセラーを増員したとしても子どもの生活を深く関わろうとすると、子どもを自由にしてほしいと保護者からクレームを言われる場合があるし、いじめをなくそうと押しつけることで、表面的にはいじめがないように過ごすのだが、ネットいじめを行うなど、いじめが陰湿化してしまうケースがある。いじめが起きないことが一番良いことであるし、本来ならばそうしなくてはいけないが、私は、いじめを受けているときやその後のサポートが尊厳に関わってくると思う。いじめを受け始めたころは解決したい、という生きる希望があり尊厳が侵されている状態にはなりにくいが、深刻になり生きている意味を見いだせなくなってしまったら、他人のサポートがしにくくなるだろう。いじめの早期発見によるいじめ対処のサポートが重要だと思う。私は以前いじめを受け、自分の欠点を見直すことができたりその後いじめられている人の気持ちを少し理解できるようになったりと、いじめられた経験がマイナスなことばかりではないと思う。しかしこのように考えられるのは早期発見や当時の先生が助けてくれたり家族が悩みを聞いてくれたりしたので、そこまで深刻な問題に至らなかったのだと思う。いじめを“なくす”より“軽減する”ことが尊厳を守ると考えたときに重要になってくるだろう。いじめがあっても教師がそれを気づけるように、子どもと教師の信頼関係を強くしたり、いじめられている子を助けたいと思う子が1人でもいてその子が行動に移すことができるようになったりすればいじめが止められると推測する。

いじめのサポートの仕方をするためにまず、学校現場ではどのような方法でいじめを解決しているのかを知りたい。教師によっていじめの対処する方法が違い、どの方法が効果的であるのかをいじめの対処が得意な教師に聞き出したい。これをきくのはボランティア先の学校にインタビューして調査する予定だ。次に、いじめられて学校に行けないような子のサポートはどのように行って再び学校に通えるようになるのかを、電話の相談所に伺ってサポートの仕方を学びたい。この二か所でのいじめのサポートの仕方の相違点を見つけ、学校現場でも実践できるようなサポートの仕方を見つけたいと思う。

今年のゼミテーマは「人間の尊厳」

いよいよ、新しいブログを再開することになりました。前のブログは、どうやら経営母体が不調だったようで、とりあえず、文章は別のところに移管する形になりましたが、やはり、本来のブログソフトを使用した形でやりたかったので、かなり間があいてしまいましたが、サクラネットの場で再開することにしました。こちらは有料のレンタルサーバーなので、まず大丈夫でしょう。
さて、今年の3年生のゼミの共通テーマは、「人間の尊厳」です。このテーマは、私が研究者として、教育学を選択したときの大きなきっかけでした。高校生だったときに、宗像誠也という人の書いた『私の教育宣言』という岩波新書に、「教育とは人間の尊厳を打ち立てることである」という言葉があり、それに惹かれたというわけです。
しかし、それ以後、「人間の尊厳」をテーマに研究したこともないので、単なるきっかけにすぎないのが、これまでの経緯でしたが、3年前から、セミで共通テーマによる共同研究をし、それを学園祭で発表する形にして、共通テーマを設定してきました。
これまでのテーマは「震災と教育」「躓きと立ち上がり」「幸福」でした。それぞれ、私の感覚では、しっかりした共同研究ができたと思いますが、今年度は更に飛躍をしようということで、私の原点である「人間の尊厳」というテーマにしたわけです。
「人間の尊厳とは何か」ということを、正面から問題にするのも重要でしょうが、こういう状態は、人間の尊厳が保持されているのか、と多くの人が疑問に思うような事実を通して、逆の方向から、人間の尊厳を捉えなおしたいということが、私の意図です。現在、グループ分けが済み、個々人の分担を明確にしている段階ですが、徐々に作業が具体化してくると思います。それを順次ここで公表していくことになっています。それはまた、学生たちの文章力を鍛える道場としての期待でもあります。
また、4年生は、卒業研究を進行させており、その中間発表的なものをここに掲載していく予定でもあります。

再出発

ゼミの前のブログが、どういうわけか閉鎖になってしまい、ログは別のメディアに移されましたが、やはり、違う形態だし、便利さも劣るので、こちらで再出発することにします。
 ゼミの人、卒業生たくさん書いて、文章力を高めましょう。