認知症から人間の尊厳を考えると(さぁやさんの文に対して)

 今回は、さぁやさんの5月21日「認知症に携わる人々の尊厳とは?」と6月17日「私の考える尊厳とは」についてのコメントです。
 認知証は、人間の尊厳を考える上で、もっとも中心的なテーマであるかも知れません。少なくとも他のいじめや犯罪とは異なる意味をもっています。それは、他のほとんどの領域は、人間関係のなかで生じるのですが、認知症は、もちろん人間関係も影響しますが、基本的には身体的な変化によって生じることです。むしろ、人間関係を喪失していくと、認知症になりやすいともいえます。「人間的」な要素は、多くが「脳」によって官吏されているわけですが、認知症は「脳の機能」が失われていくことによって生じるのですから、まさしく、人間らしくさの喪失でもあるのです。したがって、さぁやさんのいうように、普通の人間的な営みが失われることによって、人間らしさを失っていくわけですから、人間の尊厳を失っていくことでもあります。
 しかし、普通の営みができなくなること=人間の尊厳の喪失とはいえないでしょう。例えば、年をとると、歩いたり走ったりすることが、若いときのようにはできなくなります。身体的に衰えてくるので、できなくなる、あるいはできにくくなることはたくさんあります。しかし、走ることができなくなったとしても、人間の尊厳が損なわれていると感じる人はあまりいないようにも思うのです。さぁやさんは、いじめ、障害者への差別などもあげていますが、認知症になったからといって、いじめられたり、あるいは差別されたりは、必ずしもされません。通常高齢者ですし、人との関係が少なくなっているので、逆にそうした被害を受けることは少なくなるでしょう。
 日本で認知症が広く社会的関心を集めるようになったのは、有吉佐和子の『恍惚の人』がベトスセラーになり、映画化されたことがきっかけでした。この「恍惚の人」という表現にみられるように、一般的に人間らしさを失った状態でも、知的認識を失ってしまった当人にとっては、「恍惚=幸福な状態」と感じられる側面もあるわけです。私の義母は認知症を長く患っていましたが、そのことによって不幸な感じが生じていたかどうかは、あまりわかりません。現状に不満をもつことの多い人だったようなので、逆に認知症になったあと、穏やかになった側面もあるようなのです。認知症になって、家族のなかでどのように扱われるかにより、現れ方がかなり異なるようですが、軋轢が強いと、徘徊がおきやすいともいわれています。義母は一度だけ徘徊しかかりましたが、私が出て行くところをみていて、すぐに妻に連絡して追いかけたので、にこにこしながら帰宅して、その後まったく徘徊はしませんでした。だから、心の内面は完全にはわかりませんが、認知症になるとさまざまな消えていく思い出と、残る思い出があるとして、悪いことが残ったとは思っていません。
 では、その状態は人間の尊厳が保たれているのかといえば、やはりそうではないといわざるをえないのです。
 オランダで、安楽死が広く許容されているのは、自立的な生活ができなくなることは、人間性を失うことだという意識が、オランダ人には強いからだといわれています。つまり、衣食の管理が自分でできなくなると、既に人間的生活ではないと、オランダ人は感じるようです。
 衣食はまだまだ尊厳に関わるとはいえないとしても、排泄などを自分でできなくなることは、かなり尊厳にかかわると感じられます。しかし、認知症になると、そうしたことを恥と考えなくなるのか、あるいは、考えても諦めてしまい、次第に恥の感覚を喪失していくのか、私には、まだよくわからないのですが、進んだ認知症の人は、衣食、風呂、排泄処理等のすべてを介助してもらうことになります。
 そうした光景をみたり、考えたりすると、ゼミのときの学生諸君の反応のように、自分はそのようになりたくない、そうまでして生きていたくないと感じる人が多いのですが、しかし、認知症の家族については、でもできるだけ長く生きていてほしいと願う人がほとんどです。
 つまり、認知症にかかわって人間の尊厳を考えると、私たちのほとんどは、すごく矛盾した生活態度をとっていることに気づきます。さぁやさんだけではなく、このテーマを扱っていない他のひとたちも、ぜひこの「矛盾」をじっくり考えてみてください。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。