人間の尊厳とは何か 

ゼミのテーマである「人間の尊厳」とはどのようなものだろうか。「尊厳」を辞書で調べてみると、「その人の人格を尊いものと認めて敬うこと。」と書かれている。つまり人間の尊厳が確立された状態は、周囲の人達から内面を認められている状態だと言える。では逆に、尊厳が確立されていない状態は何が原因となるだろうか。私の研究テーマである「ADHD」と絡めて考えていこうと思う。

先に述べたことからわかるように、尊厳が確立していない状態とは、周囲の人間から内面を認められていない状態である。人間の内面を豊かにするためには、教育が必要だと私は考える。生まれたばかりの人間は欲求の赴くままに生きている。空腹や不快感を泣くことで表現する。月日が経つとともに言葉を覚え、より具体的な欲求を表現するようになる。言葉がわかるようになると、本格的に教育が始まる。ここでいう教育とは、読み書き計算だけでなく、「しつけ」も入っている。しつけをしなければ、いつまでも我慢を覚えない。人間は生きていくうえで他者との関わりを避けられない。他者と関わる中で、すべて自分の欲求を満たすことができるような関係は稀だろうし、通常であればそのような人と関わりたくないと思うだろうし、人格を敬い認めることなどできないはずだ。またある程度の知識がなければそれもまた内面の貧しさにつながると私は考える。日常生活で困らない程度の読み書き計算ができなければ、すべて人に頼らなければ生きていけなくなる。どんなに優しくてよい人でも、何一つ自分でできない人を心の底から敬えるだろうか。これらの理由から、人間の尊厳を確立するために教育は不可欠であると私は考える。だから私はADHDについて焦点を当てたのである。

ADHD(注意欠陥多動性障害)の児童は落ち着きがなく、衝動的な行動を起こすため、授業中にじっと座っていることすら難しいことが多い。また不注意から失敗することも多い。授業をしっかり聞かないため内容が身につかないし、指示をしっかり聞かないため失敗も増える。失敗経験が多くなると自信ややる気を喪失してしまう。自身ややる気を失うとさらに集中力が切れ、失敗が増えるような負のスパイラルに陥る。そうなると授業や先生の話を聞かなくなり、結果教育を受けない状態になってしまう。実際に小学校5年生のADHDの児童やADHDと思わしき児童を観察したときに、同年代の多くの児童と比べていわゆる「常識」が身についていない児童が多かった。もちろん多動や衝動的な傾向がみられながらも、常識的な行動ができる児童もいた。同じような症状を抱えながらもここまで行動や態度が異なるのは、恐らくこれまでに受けてきた教育や生育環境が要因だと考えられる。家庭環境や学校での様子まで聞くことは出来なかったが、言葉遣いや学力面で比較すると後者の児童の方が知性を感じられた。前者の児童はまるで幼い子どもで、少し注意すると強烈に怒りをあらわにするし、困難にぶつかるとすぐに投げ出してしまった。欲求に素直で我慢を知らないのである。一人ぼっちになることはないが、色々な場面で周りの児童に嫌な顔をされていた。また、ADHDの児童自身だけでなく、その周りの児童も教育の機会を奪われてしまう可能性があることを忘れてはいけない。授業そっちのけでおしゃべりや遊びに興じる児童が近くにいれば、それにつられてしまうのは当然である。悪いことと分かっていても楽しさにつられて教育を受けなければ、その子も人間としての尊厳を失っていくのである。

以上が私の考える「人間の尊厳とは何か」と、そう考える理由である。