八ヶ岳セカンドスクールを終えて

先日4泊5日の林間学校(セカンドスクール)に補助員として参加してきた。実際には台風の影響で3泊4日になってしまったが、子どもたちとともに過ごす4日間はとても充実したものだった。子どもと接することができる機会は沢山あるが、朝から晩まで、それも約4日間一緒にいられる機会はなかなかない。昨年も参加させてもらったが、今年はできるだけ「教師として」参加しようと決めていた。補助員はどうしても「遊んでくれるお兄さん」として子どもたちから見られがちだ。先生とは違う大人だし、補助員自身も先生とは違うという意識を持ってしまう。昨年参加させてもらったときは、私もそう思っていた。「先生」と呼ばれなくても何も言わなかったし、友達のように接していたため、あまり注意をすることはなかった。今回はあだ名を付けようとする子に対しても、必ず「先生」と付けさせた。それだけで何かが変わるかはわからないが、自分の覚悟を確かめることができたのは確かだ。先生として子どもと接しつつ、信頼関係を築きながら時にしっかりと叱るのは難しかった。短期間のため一度叱るとまた心を開くのに時間がかかった。しかし先生方は日々これを繰り返して子どもたちを指導しているのだと体感できて、将来の予行演習になった。

当然ゼミの研究のことも考えながら日々を過ごした。子どもたちを観察しながら、多動傾向などの特徴を持つ子どもを注意深く観察した。先生方と話したときに、ADHDの子は実際にいるし、疑わしい子もいるという話を聞いた。もちろん誰がとは聞かなかったが、自分なりに目星をつけて接した。去年とは違い多動傾向の強い子ども少なかったが、不注意傾向の強い子どもが多かったように思える。落し物や紛失物が後を絶たず、驚くほどたくさんの落し物が集められた。もちろん落し物をした子全員が障害を抱えているわけではない。ふとした拍子になくしてしまったり、なくす回数が少なかったりした子は特に問題がなさそうだった。しかしかなりの頻度で落し物をする子がいた。多動傾向はないが、片付けがすごく苦手で、部屋にいても何かを無くすことが多かった。みんなが荷物の整理をしているときに、その場にいることができても一向に片付けが進まない。服をたためなかったり袋が縛れなかったりするだけであれば、ただのスキル不足ということで指導ができるが、彼はそのレベルではなかった。しまっては出し、しまっては出し、挙句目についたトランプをいじりだす。その子の荷物の周りだけいつも異様に散らかっていた。一緒に片付けをしながら観察していると、一つ一つしまっていくのではなく、次から次へと、「あれもしまわなきゃこれもしまわなきゃ」となっているのがわかった。私は周りに散乱しているものを一度集めさせて、まずは着たシャツ、次にズボン、靴下、寝間着、遊び道具のように順番をその都度指示しながら片づけさせた。すると、丁寧に畳んだりまだ使うものを考えないで入れたりしたものの、荷物をまとめ上げることができた。家庭でも片付けの習慣があるのかどうかが気になるところだが、私は自分でやっていないと思う。彼は片付けのノウハウが身についていなかった。普通であれば教えなくても自然と身に付けていくのかもしれないが、特に苦手な子であれば一から段取りを教えてあげる必要がある。片付けは色々な場面で必要になるスキルだし、整頓された場所で生活するのと散らかった場所で生活するのとでは精神的な違いが出てくる。

去年とは違うタイプの問題を抱える子どもたちに出会えたことで新たに学ぶことが沢山あった。しかしこの点も考えるべきことがある。子どもたちは常に同じではない。違う学年や違う学校の子どもたちを指導するときには、また新たな問題を抱えた子どもや集団に出会うはずだ。過去から学ぶことはもちろんある。しかし過去と同じことは必ず通用するわけではない。常に新しい指導法を模索しながら進む貪欲さが必要だと感じたセカンドスクールだった。

先日4泊5日の林間学校(セカンドスクール)に補助員として参加してきた。実際には台風の影響で3泊4日になってしまったが、子どもたちとともに過ごす4日間はとても充実したものだった。子どもと接することができる機会は沢山あるが、朝から晩まで、それも約4日間一緒にいられる機会はなかなかない。昨年も参加させてもらったが、今年はできるだけ「教師として」参加しようと決めていた。補助員はどうしても「遊んでくれるお兄さん」として子どもたちから見られがちだ。先生とは違う大人だし、補助員自身も先生とは違うという意識を持ってしまう。昨年参加させてもらったときは、私もそう思っていた。「先生」と呼ばれなくても何も言わなかったし、友達のように接していたため、あまり注意をすることはなかった。今回はあだ名を付けようとする子に対しても、必ず「先生」と付けさせた。それだけで何かが変わるかはわからないが、自分の覚悟を確かめることができたのは確かだ。先生として子どもと接しつつ、信頼関係を築きながら時にしっかりと叱るのは難しかった。短期間のため一度叱るとまた心を開くのに時間がかかった。しかし先生方は日々これを繰り返して子どもたちを指導しているのだと体感できて、将来の予行演習になった。

当然ゼミの研究のことも考えながら日々を過ごした。子どもたちを観察しながら、多動傾向などの特徴を持つ子どもを注意深く観察した。先生方と話したときに、ADHDの子は実際にいるし、疑わしい子もいるという話を聞いた。もちろん誰がとは聞かなかったが、自分なりに目星をつけて接した。去年とは違い多動傾向の強い子ども少なかったが、不注意傾向の強い子どもが多かったように思える。落し物や紛失物が後を絶たず、驚くほどたくさんの落し物が集められた。もちろん落し物をした子全員が障害を抱えているわけではない。ふとした拍子になくしてしまったり、なくす回数が少なかったりした子は特に問題がなさそうだった。しかしかなりの頻度で落し物をする子がいた。多動傾向はないが、片付けがすごく苦手で、部屋にいても何かを無くすことが多かった。みんなが荷物の整理をしているときに、その場にいることができても一向に片付けが進まない。服をたためなかったり袋が縛れなかったりするだけであれば、ただのスキル不足ということで指導ができるが、彼はそのレベルではなかった。しまっては出し、しまっては出し、挙句目についたトランプをいじりだす。その子の荷物の周りだけいつも異様に散らかっていた。一緒に片付けをしながら観察していると、一つ一つしまっていくのではなく、次から次へと、「あれもしまわなきゃこれもしまわなきゃ」となっているのがわかった。私は周りに散乱しているものを一度集めさせて、まずは着たシャツ、次にズボン、靴下、寝間着、遊び道具のように順番をその都度指示しながら片づけさせた。すると、丁寧に畳んだりまだ使うものを考えないで入れたりしたものの、荷物をまとめ上げることができた。家庭でも片付けの習慣があるのかどうかが気になるところだが、私は自分でやっていないと思う。彼は片付けのノウハウが身についていなかった。普通であれば教えなくても自然と身に付けていくのかもしれないが、特に苦手な子であれば一から段取りを教えてあげる必要がある。片付けは色々な場面で必要になるスキルだし、整頓された場所で生活するのと散らかった場所で生活するのとでは精神的な違いが出てくる。

去年とは違うタイプの問題を抱える子どもたちに出会えたことで新たに学ぶことが沢山あった。しかしこの点も考えるべきことがある。子どもたちは常に同じではない。違う学年や違う学校の子どもたちを指導するときには、また新たな問題を抱えた子どもや集団に出会うはずだ。過去から学ぶことはもちろんある。しかし過去と同じことは必ず通用するわけではない。常に新しい指導法を模索しながら進む貪欲さが必要だと感じたセカンドスクールだった。

ADHDは障害か

ADHDは障害なのだろうか。日本では注意欠陥多動性「障害」と訳され、障害者としてみなされている。不注意、多動性、衝動性の3つの観点から、周囲との関係において不適応がみられる場合診断が下されるこの障害を抱える人は、確かに他の人とは違う特質を持っている。集中力がない、人の話を遮る、物事をやり遂げられないなど、マイナス面を強調されることが多いこの障害について、私も以前は障害の一つとして認識していた。しかし、ある本を読んでからADHDは「障害」ではなく「才能」であると気付かされた。

その本は、『ADHDサクセスストーリー 明るく生きるヒント集』(トム・ハーマン 2006年)である。この本は、ADHDとはどのような症状があるのかから始まり、トム・ハーマンの自説が続き、ADHDの人達の体験談を参考に、欠点を補う方法について述べている。トムはとても斬新な自説を述べている。それは「ハンター」「ファーマー」理論である。動物の病気や障害は、現在ではほとんど役に立たないがこれまでの進化の過程で何かに役立っていた可能性があるというトムは、ADHDの遺伝子も過去を遡れば何かの役に立っていたのではないかと考えた。周囲の物事に次から次へと注意が移り、活発に動き回り、突然ものすごい集中力を見せるADHDの人達は、狩猟社会の名残なのではないか・・・?とトムはひらめいた。確かに狩りをして生計を立てていた時代は、いつどこで出てくるかわからない獲物、もしくは外敵をいち早く見つけるために、周囲をきょろきょろと見回し、物音ひとつ聞き逃さないように行動していたに違いない。またよりそういった能力が高い人ほど優秀な「ハンター」として生き残る可能性も、遺伝子を残す可能性も高かっただろう。しかし農耕社会の幕開けとともに、ハンターの人口は減っていく。それは、農耕社会の方が面積当たりに養うことのできる人口が圧倒的に多く、また牧畜により動物から感染する病気に強くなっていたため、ハンターたちは感染したら死んでしまうような病にもやられなかったからだ。また、人口が多いということは、それだけ戦争にも強いということだ。「ファーマー」はどんどん増えていき、現在の社会のほとんどの人が「ファーマー」となっている。つまり、現代社会は「ファーマー」にとっては生活しやすいが、「ハンター」にとっては生活しにくい社会になってしまったのだ。「ファーマー」の自分たちとは合わない、何か様子が違う、扱いにくい・・・「ファーマー」中心の社会なのだから当然異質さが目に付き、「ファーマー」を基準とすると「障害」とみなされる。ADHDはこのような経緯でできた障害なのではないだろうか。ADHDだからといって能力が劣るわけではなく、むしろ桁外れに優れている場合もよくあることらしい。例えば発明王といわれるエジソンも、ADHDだったのではないかと言われているのだ。彼も学校ではおかしな子として扱われ、様々なことに興味を持ち、沢山の失敗を経て多くの発明をしてきた。発明にこぎつけたものだけを見るとただ素晴らしいとしか言えないが、実験にすら移さなかったこともたくさんあったそうだ。それは興味が次々と移り変わり、「何が何でもやり遂げてやる!」という意欲が無かったからだろう。他にもケネディなどの偉人や、現代の企業家の多くがADHDもしくはその疑いのある人だとトムは言っている。

ADHDを「才能」と考えるとはいえ、現実的に考えて欠点がいくつかあることは間違いない。しかし私たちはその欠点を克服するための手助けを怠っているように思える。学校では先生から邪魔者扱いされ、友達からは距離を置かれ、家族も理解してくれず、挙句の果て「障害」だからあきらめなさいというのでは、あまりにもむごい仕打ちではないか。私は教師を目指すうえで、ADHDの児童、ADHDと思われる児童の「才能」を見出し、「欠点」を克服するための術を身に着けさせたいと強く思った。できないことをできるようにすることが教育であり、その先に人間の尊厳の確立がある。障害とみなしあきらめることは簡単なことだが、輝ける可能性を潰してしまうのはとてももったいない。ADHDの犠牲者にならないように、ADHDの犠牲者にさせないようにするうえで、「欠陥」や「障害」という言葉の負の力はとても大きな壁になる。自分の置かれている状況を病気のせいにして逃げたくなる気持ちを強くさせてしまう。障害者としてのフィルターを通してみてもらいたいと願うのか、現代の「ハンター」としてファーマー側からの挑戦に立ち向かおうと考えるのか。成功するかしないかはこの考えの差なのではないだろうか。一人でも多くの成功者を生み出し、幸せな人生にしてもらうために、ADHDの児童に対して教師ができることは沢山あると思う。一流の「ハンター」を育て上げる努力をしたいと思う。

人間の尊厳とは何か 

ゼミのテーマである「人間の尊厳」とはどのようなものだろうか。「尊厳」を辞書で調べてみると、「その人の人格を尊いものと認めて敬うこと。」と書かれている。つまり人間の尊厳が確立された状態は、周囲の人達から内面を認められている状態だと言える。では逆に、尊厳が確立されていない状態は何が原因となるだろうか。私の研究テーマである「ADHD」と絡めて考えていこうと思う。

先に述べたことからわかるように、尊厳が確立していない状態とは、周囲の人間から内面を認められていない状態である。人間の内面を豊かにするためには、教育が必要だと私は考える。生まれたばかりの人間は欲求の赴くままに生きている。空腹や不快感を泣くことで表現する。月日が経つとともに言葉を覚え、より具体的な欲求を表現するようになる。言葉がわかるようになると、本格的に教育が始まる。ここでいう教育とは、読み書き計算だけでなく、「しつけ」も入っている。しつけをしなければ、いつまでも我慢を覚えない。人間は生きていくうえで他者との関わりを避けられない。他者と関わる中で、すべて自分の欲求を満たすことができるような関係は稀だろうし、通常であればそのような人と関わりたくないと思うだろうし、人格を敬い認めることなどできないはずだ。またある程度の知識がなければそれもまた内面の貧しさにつながると私は考える。日常生活で困らない程度の読み書き計算ができなければ、すべて人に頼らなければ生きていけなくなる。どんなに優しくてよい人でも、何一つ自分でできない人を心の底から敬えるだろうか。これらの理由から、人間の尊厳を確立するために教育は不可欠であると私は考える。だから私はADHDについて焦点を当てたのである。

ADHD(注意欠陥多動性障害)の児童は落ち着きがなく、衝動的な行動を起こすため、授業中にじっと座っていることすら難しいことが多い。また不注意から失敗することも多い。授業をしっかり聞かないため内容が身につかないし、指示をしっかり聞かないため失敗も増える。失敗経験が多くなると自信ややる気を喪失してしまう。自身ややる気を失うとさらに集中力が切れ、失敗が増えるような負のスパイラルに陥る。そうなると授業や先生の話を聞かなくなり、結果教育を受けない状態になってしまう。実際に小学校5年生のADHDの児童やADHDと思わしき児童を観察したときに、同年代の多くの児童と比べていわゆる「常識」が身についていない児童が多かった。もちろん多動や衝動的な傾向がみられながらも、常識的な行動ができる児童もいた。同じような症状を抱えながらもここまで行動や態度が異なるのは、恐らくこれまでに受けてきた教育や生育環境が要因だと考えられる。家庭環境や学校での様子まで聞くことは出来なかったが、言葉遣いや学力面で比較すると後者の児童の方が知性を感じられた。前者の児童はまるで幼い子どもで、少し注意すると強烈に怒りをあらわにするし、困難にぶつかるとすぐに投げ出してしまった。欲求に素直で我慢を知らないのである。一人ぼっちになることはないが、色々な場面で周りの児童に嫌な顔をされていた。また、ADHDの児童自身だけでなく、その周りの児童も教育の機会を奪われてしまう可能性があることを忘れてはいけない。授業そっちのけでおしゃべりや遊びに興じる児童が近くにいれば、それにつられてしまうのは当然である。悪いことと分かっていても楽しさにつられて教育を受けなければ、その子も人間としての尊厳を失っていくのである。

以上が私の考える「人間の尊厳とは何か」と、そう考える理由である。