ADHDは障害か

ADHDは障害なのだろうか。日本では注意欠陥多動性「障害」と訳され、障害者としてみなされている。不注意、多動性、衝動性の3つの観点から、周囲との関係において不適応がみられる場合診断が下されるこの障害を抱える人は、確かに他の人とは違う特質を持っている。集中力がない、人の話を遮る、物事をやり遂げられないなど、マイナス面を強調されることが多いこの障害について、私も以前は障害の一つとして認識していた。しかし、ある本を読んでからADHDは「障害」ではなく「才能」であると気付かされた。

その本は、『ADHDサクセスストーリー 明るく生きるヒント集』(トム・ハーマン 2006年)である。この本は、ADHDとはどのような症状があるのかから始まり、トム・ハーマンの自説が続き、ADHDの人達の体験談を参考に、欠点を補う方法について述べている。トムはとても斬新な自説を述べている。それは「ハンター」「ファーマー」理論である。動物の病気や障害は、現在ではほとんど役に立たないがこれまでの進化の過程で何かに役立っていた可能性があるというトムは、ADHDの遺伝子も過去を遡れば何かの役に立っていたのではないかと考えた。周囲の物事に次から次へと注意が移り、活発に動き回り、突然ものすごい集中力を見せるADHDの人達は、狩猟社会の名残なのではないか・・・?とトムはひらめいた。確かに狩りをして生計を立てていた時代は、いつどこで出てくるかわからない獲物、もしくは外敵をいち早く見つけるために、周囲をきょろきょろと見回し、物音ひとつ聞き逃さないように行動していたに違いない。またよりそういった能力が高い人ほど優秀な「ハンター」として生き残る可能性も、遺伝子を残す可能性も高かっただろう。しかし農耕社会の幕開けとともに、ハンターの人口は減っていく。それは、農耕社会の方が面積当たりに養うことのできる人口が圧倒的に多く、また牧畜により動物から感染する病気に強くなっていたため、ハンターたちは感染したら死んでしまうような病にもやられなかったからだ。また、人口が多いということは、それだけ戦争にも強いということだ。「ファーマー」はどんどん増えていき、現在の社会のほとんどの人が「ファーマー」となっている。つまり、現代社会は「ファーマー」にとっては生活しやすいが、「ハンター」にとっては生活しにくい社会になってしまったのだ。「ファーマー」の自分たちとは合わない、何か様子が違う、扱いにくい・・・「ファーマー」中心の社会なのだから当然異質さが目に付き、「ファーマー」を基準とすると「障害」とみなされる。ADHDはこのような経緯でできた障害なのではないだろうか。ADHDだからといって能力が劣るわけではなく、むしろ桁外れに優れている場合もよくあることらしい。例えば発明王といわれるエジソンも、ADHDだったのではないかと言われているのだ。彼も学校ではおかしな子として扱われ、様々なことに興味を持ち、沢山の失敗を経て多くの発明をしてきた。発明にこぎつけたものだけを見るとただ素晴らしいとしか言えないが、実験にすら移さなかったこともたくさんあったそうだ。それは興味が次々と移り変わり、「何が何でもやり遂げてやる!」という意欲が無かったからだろう。他にもケネディなどの偉人や、現代の企業家の多くがADHDもしくはその疑いのある人だとトムは言っている。

ADHDを「才能」と考えるとはいえ、現実的に考えて欠点がいくつかあることは間違いない。しかし私たちはその欠点を克服するための手助けを怠っているように思える。学校では先生から邪魔者扱いされ、友達からは距離を置かれ、家族も理解してくれず、挙句の果て「障害」だからあきらめなさいというのでは、あまりにもむごい仕打ちではないか。私は教師を目指すうえで、ADHDの児童、ADHDと思われる児童の「才能」を見出し、「欠点」を克服するための術を身に着けさせたいと強く思った。できないことをできるようにすることが教育であり、その先に人間の尊厳の確立がある。障害とみなしあきらめることは簡単なことだが、輝ける可能性を潰してしまうのはとてももったいない。ADHDの犠牲者にならないように、ADHDの犠牲者にさせないようにするうえで、「欠陥」や「障害」という言葉の負の力はとても大きな壁になる。自分の置かれている状況を病気のせいにして逃げたくなる気持ちを強くさせてしまう。障害者としてのフィルターを通してみてもらいたいと願うのか、現代の「ハンター」としてファーマー側からの挑戦に立ち向かおうと考えるのか。成功するかしないかはこの考えの差なのではないだろうか。一人でも多くの成功者を生み出し、幸せな人生にしてもらうために、ADHDの児童に対して教師ができることは沢山あると思う。一流の「ハンター」を育て上げる努力をしたいと思う。