発言を「受け取る側」

教師による発言の影響について調べたことから自分の考えを少しまとめてみた。

東京都調布市の女教師の暴言について調べながら考えてみた。その発言について「このくらいは許容範囲」や「教師としておかしい」などのようにいろいろと賛否両論があるが、一番考えなくてはいけないことは、その女教師によって暴言を浴びせられていた子供達のことである。
暴言とはどこまでが暴言なのか?について考えてみた。「バカ」と言われて嫌な思いをする人もいればそれくらいの言葉は気にならないという人もいるだろう。1番は「受け取る側」にあるのではないのかと思う。他人がそれを判断することはできない。本人がどう考えどう感じたのかということが問題になってくるのではないだろうか。それが「人間の尊厳」の部分なのではないだろうか。
その女教師の処分などについても議論が交わされているが、正直処分がどうなったとしても子供達が暴言をはかれ傷ついたことは消えない。その女教師の今後というよりは、その子供達のケアが最優先事項なのではないかと思う。

先日文教生にアンケートを実施した。「教師とはどんな存在か」「暴言をはかれたことはあるか」などの質問をしてみたところ、教師とは「親とは別に成長を促進してくれる人」といったような回答が多かったように思う。そして暴言の内容とはどれもその人についての否定的な言葉であった。まだ全ての回答を見ることはできていないが、自分を否定されること=自己肯定感を損なわれるようなこと、というのが特徴的であった。

まだいまいち核心には迫れない部分があるのでもう少し考えられる材料を増やしたい。
なにかきっかけとなるような文献などを探してみたいとおもう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。