人間の尊厳とは

尊厳とは、「とおとく おごそかなこと。気高く犯しがたいこと」という意味である。人間にとって気高く犯しがたいこととはなんなのだろうか。それは、その人の人格であると私は考える。人格は一人ひとり違っていて、それを否定されるということはあってはならないことだ。お互いの人格を認め、尊重しあうことで人間らしい集団生活ができるのだと思う。また、人間の尊厳が守られているということは、その人がその人らしく生きているということだ。しかし、今の社会ではありのままの自分を出せずに不便を感じながら生活をしている人も多くいるだろう。このように、人間の尊厳が侵されている場合について考えていきたい。

まず最初に思い浮かんだのが障害者についてである。障害を持っている人は、日常生活でさまざまな困難と立ち向かわなければならない。また、周りからの差別や偏見とも闘わなければならないこともある。このように、障害を持つ人たちは、健常者はなにも不便を感じない場面でもたくさんの苦労をすることが多くある。障害者をもつ子どもたちは特別支援学校で学ぶことができる。軽度の障害の場合などは、普通学校で健常児と一緒に授業を受けたり、特別支援学級で学んだりする。私は、普通学級で学んでいる軽度の障害を持った子に焦点を合わせて「人間の尊厳」について考えていきたいと思った。数ある障害の中でも私はLD(学習障害)について調べている。LDは基本的に全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、読む、話す、計算する、推測する能力のうち特定のものの使用に著しい困難を示す状態を指すものである。学習障害は、この特定の能力以外はほとんど健常者と同じくらいの能力がある。だから、障害であると気づきにくいときもある。LDであると気づいた場合でも、気づかなかった場合でも、その子にとっては授業を受けていてもそれは理解できないもので、自分だけ周りから取り残されていると感じるのではないだろうか。周りの子は理解が速くてどんどん進んでいくのに自分だけ授業に参加できなかったら学校に行きたくないと思ってしまうのではないか。どんな子にも教育は受けさせなければならない。その教育は適切なものでなくてはならないと考える。もしLDの子に配慮せずに授業を進めていってしまったら、その子は将来ずっと自分の苦手な分野に向き合えないのではなか。苦手な分野に向き合うことで自分を理解し、この分野が苦手だから違ったところで自分を活かしていこうと考えられるようになれると思う。自分のことを知って、相手にもわかってもらうことで人間の尊厳は確立される。そうするために、LDの子、また、それ以外の障害を持った生徒に対する支援がとても重要になる。支援をするためには周りの理解が必要だ。この障害がどんな障害なのかをまずまわりの大人たちが理解し、指導に当たらなければならない。

人間の尊厳が守られている状態とは最初に述べたようにその人がその人らしく生きていけるということだ。障害があったとしても、そのことを自分らしさと受け入れること、また周りも障害を理解して支えていくことで、人間の尊厳は守られると考える。そのためにはどのような教育、支援をしていくかが今後重要になる。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。