ネット人格・ネトウヨ・人間の尊厳

 今回はおささんのネット上の意見をめぐる研究に関してのコメントです。(内容が他に比較して硬いので、である調になりました。)

 私は、20年くらい前、まだインターネットが普及する前のパソコン通信の時代に、激しい議論をする電子会議室の責任者を務めたことがある。あらゆる問題を思想的に扱う電子会議室だから、けんか状態などもかなり頻繁におきた。ある意味歴史に残るようなこともあったが、そこでは実にたくさんの貴重な議論を経験した。今でもネット上の表現の自由と管理のあり方については、そのとき私たちが残した議論と結論が、大きな影響力をもっていると考えている。
 そういう議論の中で、ネット上で展開される発言と現実に生活する人間の関係についての議論はとても重要なものだった。ネット上の発言はその発言が表す人格があるが、それを現実に存在する人格と統合的に理解すべきであるという見解と、それは別ものと理解すべきであるという見解が対立した。もちろん、単純にいうことはできず、実際にネット上で発言している人の意識によっても異なるきのであるが、そこでの議論の主流は、ネット上の発言の人格は、リアルな世界での人格とは別ものであると理解しなければならいというものだった。つまり、現実に生活している人格がネット上の意見を書いていることは、もちろん否定できないが、意図的にネット上では異なる人格を展開することが可能であり、実際にそうしている人も少なくない。極端にいえば、ネット上で異なる人格を前提にした発言を使いわけることも可能であるという見解が、そこで支配的だったのである。
 このことの派生効果もいろいろとあるが、基本的に、ネット上での振る舞いを、現実生活の振る舞いの反映である、あるいは、現実生活での人柄が、ネット上にも現れていると考えるべきではないということは、その後インターネットが現れ、とくに2チャンネルなどが大きく展開するようになって、より適切な見方であることが表明されたと思う。
 これは、ネトウヨの存在を考える上でとても重要な観点だろう。
 つまり、ネトウヨといわれる人たちは、ネット上だけで演じている人格である可能性が否定できないということだ。実際には、かなり合理的で、温和な人物であるが、ネット上であえて、極めて右翼的な、暴言を書き込んでいるということだ。もちろん、そうではなく、実生活でも右翼的である人もいるだろう。
 さらに、多くのネトウヨが存在している2チャンネルでは、ひとつのネームで書き込みをするのではなく、多くの人が使う「匿名」などの表示が多い。これでは、「人格」そのものが拡散してしまうことになる。先の電子会議室では、いかに実際の人格と異なる言動を示していても、常に同一のハンドルネームを使用することで、まとまった人格を想定することができた。しかし、2チャンネルでは、多くの投稿者は区別できないので、より過激な発言となる傾向があるように思われる。だから、ネトウヨとは、一人一人のネット上の書き込み者ではなく、書き込み者総体の特質であるという側面もあるかも知れない。もちろん、書き込みに番号はつくので、対応関係はある。しかし、同一の人物の特定は極めて困難である。
 話は別の側面になるが、誰でも、局面によって、あるいは相手によって、接し方や話し方を変えることがある。あまりにそれが違うと、批判されることもあるが、本来、人間には、今の自分と全く違う自分になりたいという欲求があるのではなかろうか。2チャンネルのような場所は、そうした「場」を提供しやすい特質をもっており、さらに、「匿名」が個人の実人物を隠すだけではなく、それぞれの書き込み者そのものの区別を捨象してしまう。だから、それぞれが普段いわないようなことをいいだし、それが全体として過激な書き込みになっていく傾向があるとも考えられる。だから、ネトウヨというのを、そこに参加している一人一人の書き込み者ではなく、その場全体の雰囲気として形成される特質とも考えられるのである。

 かなり勝手なことを書いてしまいましたが、完全に的外れというものでもないような気がしているので、参考にしてください。
 なお「人格」を取り替えつつ、別人格を演じたいという欲求を、病的な形で表現した有名な「ジキル博士とハイド氏」はぜひ読んでおくといいでしょう。

 上の文章では、人間の尊厳については、ほとんど触れていませんが、実生活の人格と、ネット上の人格がまったく異なるように、分裂した自分を演じているとすれば、その人にとっての「人間=自分」とは何々か、その人間的誇り、尊厳は、どうなるのか、という形で考えてみましょう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。