尊厳とは、誰にでも平等にあるものだと私は思う。生活の場、労働の場、教育の場、どんな場所、場合においてもそれは犯されることなく、尊重されるべきだ。そして、人間の尊厳は個人が社会の中で、その人格や考えを理解され、尊重されて初めて成り立つものだと思う。
このように考えたときに、私は障害者の尊厳は尊重されているのだろうかと疑問に思った。
よく電車で、障害者の方が大声を出したり歩き回ったりしているのを見て、嫌な顔をしたり笑ったりする人を見かける。障害者は悪気があってこのような行動をしているわけではないのに、周りの人から批判や誤解されてしまうことが多い。このような状態では、障害者の尊厳が尊重されているとは言えないのではないか。
では、なぜ障害者は誤解されてしまうのだろうか。私は、障害への理解や知識が少ないことが原因ではないかと思う。もし、電車に乗っている人たちに障害の知識があり、障害者がとる行動の意味が分かれば、誰も障害者に対して嫌な顔をしたり笑ったりしないと思う。障害について何も知らず、どうしたらよいのか分からないから「なんなんだろう?」と思ってしまうのではないだろうか。
このことから、私は障害者が尊厳を持って生活していくために、障害の知識を多くの人が持ち、理解することが必要だと思う。そのために、学校教育での障害児と健常児の統合教育が大切だと考える。
現在、日本には特別支援学校があり、障害のある子どもの多くが特別支援学校に通っている。障害児が特別支援学校に行くことは、障害児がニーズに合った教育を受けることができる反面、障害児と健常児の関わりをなくしてしまうということでもあると思う。このような分けられた教育では、子どもが障害を理解することは難しいと思う。しかし、子どもの頃から統合教育によって障害児とふれあうことで、遊びながらその子を理解したり、関わり方が分かったりと、子どもなりに障害というものを理解できるのではないかと思う。そうすれば、先に述べたように障害者が誤解されることもなくなると思う。障害児も健常児も関係なく、一緒に教育することは大変だと思うが、離れていてはお互いに理解することは絶対にできない。一緒に過ごすことで、少なくとも「障害が分からない、関係ない」と思う子どもは少なくなるのではないかと思う。
そして、障害児にとっても健常児とのふれあいは必要だ。特別支援学校では、障害についての専門的な知識を持った先生達が障害児のニーズに合った生活指導や学習指導をする。それは障害児にとって良いことだと思う。しかしその反面、健常児とふれあう機会はなくなってしまう。また、地元の学校に行かないため、自分の住む地域の人との関わりが少なくなってしまうというデメリットもある。
特別支援学校のような、周りの人がみんな障害を理解している環境で自分に合った教育を受けることは大切なことだ。しかし、障害児も将来は社会の中で人と関わりながら生きていく以上、健常児や地域の人との関わりを持つことも大切なことなのではないかと思う。
そうすることで、大人になったとき、仕事や生活をしていく上で過ごしやすい環境を作ることが出来るのではないかと思う。
しかし、現在の教育現場では障害児を受け入れることは難しい。統合教育に必要な教師の人数も、障害児のニーズに合った教育ができる教師も全く足りていない。実際問題としては、日本で統合教育を実現することは厳しいのではないかと思う。
だから私は、障害児と健常児の交流学習を進めていくべきだと思う。特別支援学校の子どもと、普通学校の子どもが定期的に交流する形なら、現在の教育体制でも十分可能だと思うし、学校間で交流の回数や時期を調整することもできる。何より、障害児にとって適切な環境で学習しながら、健常児との交流もできるという点が良いと思う。
現在、この交流学習を実施している学校は全国にある。中でも埼玉県では、独自に「支援籍」という特別支援学校の児童・生徒が地元の学校にも籍を置き、定期的に交流するという制度を取り入れている。
今後はゼミの活動として、この支援籍の効果や実際の体験談、課題などから障害児と健常児の交流教育を考えていきたい。