いじめをプラスに転化するとは

 今年度のゼミもだんだん軌道に乗りつつあるので、これまで書かれた学生の見解に対して、少しずつコメントをしていこうと考えている。まずは最初の投稿であるまいさんの文章だが、非常に重要で、かつ難しい論点が提起されている。それは次の文章だ。

私は以前いじめを受け、自分の欠点を見直すことができたりその後いじめられている人の気持ちを少し理解できるようになったりと、いじめられた経験がマイナスなことばかりではないと思う。しかしこのように考えられるのは早期発見や当時の先生が助けてくれたり家族が悩みを聞いてくれたりしたので、そこまで深刻な問題に至らなかったのだと思う。いじめを“なくす”より“軽減する”ことが尊厳を守ると考えたときに重要になってくるだろう。いじめがあっても教師がそれを気づけるように、子どもと教師の信頼関係を強くしたり、いじめられている子を助けたいと思う子が1人でもいてその子が行動に移すことができるようになったりすればいじめが止められると推測する。

 ここで書かれていることは、
1 いじめられた経験は、自分の欠点を見直す機会となったり、いじめられている人の気持ちがわかるという点で、マイナスばかりではない。
2 いじめはなくすことより、軽減することが、人間の尊厳を考えるうえでは、重要である。
3 子どもと教師の信頼関係を強くし、いじめられている子どもを助けたいと思う子どもがいて、行動できればいじめは止められる。
以上の3点である。
 2番目はある意味現実的であろうが、ただ、いじめをなくすことは不可能だという主張になるとすれば、少なくとも学級レベルではいじめのない学級つくりは不可能ではないし、また、実際に優れた教師の指導の下で可能になることはあるだろう。ただ、なんとしても、最悪の悲劇を生まないという決意を表すという意味で、重要な指摘であると考えられる。
 3番目は、日々の実践の中で、いじめ対策としては、もっとも重要な視点のひとつだろう。現在いじめが陰湿化したり、あるいは悲惨な状況になったりするのは、誰もいじめを止める子どもがおらず、完全に孤立してしまうと感じられるからだろう。絶対的な味方がいれば、それほど重大な決意をする可能性は極めて低いといわれる。確かに、昔はいじめをとめる子どもが、たいていは学級内に数名はいたといわれる。また、比較的子どもが多く、けんかの機会も多かったので、けんかの延長としてのいじめが多く、そのうち自然に消滅することも少なくなかったし、また、リーダー的な子どもが抑制機能を果たしていたともいえる。しかし、近年は、いじめをとめると逆にいじめの対象になるので、とめたいと思っていてもなかなか止められない傾向があるとされる。実際に、いじめをとめたために、自分がいじめのターゲットになってしまった経験をもつ学生もいる。したがって、このまいさんが実現すべきとした、子どもと教師の信頼関係をどのようにすれば形成できるのかが、明らかにされる必要がある。
 私の考える点としては、以下のようなことが考えられる。
 まずは、教師が常日頃、もっとも弱い子どもたちの味方であること、弱いからこそ味方であるという姿勢を示し、それを子どもたちにしっかり認識させることだろう。もっとも弱い子どもの味方であるということは、何か助けが必要となった場合、かならず自分の味方をしてくれると信じてもらえることになる。
 ただ、それだけでは足りない。さまざまな判断について、ぶれないことである。ルールをぶれずに実行することは、意外に難しい。どうしても感情が入って、普段違反をしない子どもと、普段から違反をしている子どもとで、後者をより厳しくしてしまいがちになる。逆に、多少のことを目をつむってもいいかと妥協的になったりする。子どもは、新しい教師の場合に、「試す」行為をよくするものである。この教師は厳しいか、どこまでは許すか、あるいはいっていることを本当に実行する教師なのか、などを、自分たちでぎりぎりの悪いことをして試すわけである。そうしたときに、決めたルールの逸脱を認めてしまうと、次第にエスカレートする。そうしたことで、ぶれない対応が重要なのである。
 弱い子どもの味方であること、判断がぶれないことが、確実に実行されていれば、いじめ等が発生しても、誰かが教師に知らせてくれる可能性が高いように思われる。
 さて、最も難しいのは1番目のことであろう。
 確かにまいさんのいうように、いじめのような、傷を負うような体験をしても、それを完全に否定的にとらえるのではなく、積極的に活かすことができる反省を引き出すことは、重要なことのように思う。しかし、原則として、いじめはマイナス面だけではない、という「定式」化してしまえば、いじめがあったほうがいいことのように思われる危険性があるし、また、いじめがなければ学べないことがあるかのように錯覚する子どもも出てくるかも知れない。
 私は小学校のころの「行事」などはほとんど覚えていないが、なぜか、卒業式のPTA会長の挨拶の一部だけは鮮明に覚えている。それは、「艱難汝を玉にす」ということばを紹介したのだが、要するに、苦労をすることで人間は成長できるのだという意味である。小学生が正確に意味を理解することなどできないわけだが、何故かこの部分は鮮明な記憶として残っている。
 「かわいい子には旅をさせよ」などいうのも同じ意味だが、では、いじめも艱難だから、積極的にするのがいいのか、などということにはならないだろう。艱難も好んで作り出すのがいいとは断言できない。
 いじめがおきないことを最大限の努力目標として、いざ起きてしまったこときに、それを次のことにどのようにプラスに転化させることができるか、これはいじめに限らずあらゆることでいえることではあるが、そうした意味で賛成できる。ただ、やはり、どのようにして、プラスに転化できるのか、そう簡単ではないはずである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。